律令国家とは、律令という法律に基づいて、天皇を中心として全国の土地や人々を中央政府が直接支配した国家の仕組みです。
飛鳥時代には、聖徳太子の政治や大化の改新を通して中央集権化が進められ、701年の大宝律令によって制度が整えられていきました。そして、その仕組みを全国へ広げるために、地方支配や税制度も整備されていきます。
高校入試では、
- 国司と郡司の違い
- 班田収授法
- 租・庸・調
- 戸籍制度
などが頻繁に問われます。
この記事では、律令国家がどのように成立したのか、そしてどのように地方を支配したのかを、飛鳥時代からの流れとともにわかりやすく解説していきます。
第1章 律令国家の成立
飛鳥時代から奈良時代にかけて、日本では「天皇を中心とした国づくり」が進められていきました。
その中心となったのが、律令国家です。
律令国家では、戸籍や税制度、地方支配の仕組みなどを整え、中央政府が全国を統一的に支配しようとしました。
まずは、「律令国家とはどのような国家だったのか」を確認していきましょう。
1.律令国家とはどんな国家か?
律令国家の最大の特徴は、天皇を中心とした中央集権国家だったことです。
それまでの日本では、豪族たちがそれぞれ土地や人々を支配していました。特に蘇我氏のような有力豪族は、天皇に匹敵するほどの力を持っていました。
しかし律令国家では、「全国の土地や人民は国家のもの」という考え方のもと、中央政府が全国を支配しようとしました。
このしくみを支えるために、
- 戸籍を作る
- 土地を人々に分け与える
- 税を集める
- 地方に役人を派遣する
といった制度が整えられていきます。
つまり律令国家とは、「法律をもとに全国を統一的に支配する国家」だったのです。
また、「律令」の「律」は刑法、「令」は政治や行政のルールを表します。
特に中学歴史では、「天皇中心の中央集権国家」というイメージをしっかり持つことが重要です。
1.なぜ律令国家を目指したのか
では、なぜ日本は律令国家を目指したのでしょうか。
大きな理由の一つは、中国の影響です。
当時の中国では、隋や唐が強大な中央集権国家を作り上げていました。遣隋使や遣唐使によってその制度を知った日本は、「日本も同じような国家を作りたい」と考えるようになります。
また、日本国内でも豪族の力が強すぎるという問題がありました。
聖徳太子は、冠位十二階や十七条の憲法によって、豪族中心の政治を改めようとしました。しかし、この時点ではまだ完全な中央集権国家にはなっていませんでした。
その後、中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我氏を倒し、大化の改新を始めます。ここで「公地公民」など、天皇中心の国家を目指す改革が進められていきました。
さらに、663年の白村江の戦いで日本は唐・新羅の連合軍に敗れます。
この敗北によって、日本は「強い国家を作らなければ危険だ」という意識を強めました。
その後、壬申の乱を経て天皇中心の政治がさらに強化され、701年の大宝律令によって律令国家の制度が完成していきます。
つまり律令国家は、単に中国の制度をまねしただけではなく、
- 豪族の力をおさえる
- 全国を統一的に支配する
- 外国から国を守る
という目的のもとで作られていった国家だったのです。
第2章 律令国家成立までの流れ
律令国家は、聖徳太子の政治から始まり、大化の改新、白村江の戦い、壬申の乱などを経て、長い時間をかけて整えられていきました。
特に重要なのは、「天皇中心の中央集権国家を作る」という方向性が、飛鳥時代を通して少しずつ強まっていったことです。
ここでは、律令国家成立までの流れを整理していきます。
1.聖徳太子と中央集権化の始まり
律令国家への流れを考えるうえで、まず重要になるのが聖徳太子の政治です。
当時の日本では、有力豪族がそれぞれ強い力を持っていました。特に蘇我氏は、天皇をしのぐほどの影響力を持っていました。
その中で、聖徳太子は推古天皇の摂政として政治を行い、天皇中心の政治を目指しました。
代表的な政策が、冠位十二階と十七条の憲法です。
冠位十二階では、家柄ではなく才能や功績によって役人を登用しようとしました。これは、豪族中心の政治を改めようとする動きでした。
また、十七条の憲法では、「和を大切にすること」や「天皇の命令に従うこと」が示されました。
さらに、遣隋使を派遣して中国の進んだ制度を学ぼうとしたことも重要です。
ただし、この時点ではまだ律令国家は完成していません。
聖徳太子の時代は、あくまで「中央集権国家を目指し始めた段階」と考えることが大切です。
2.大化の改新と改革のスタート
聖徳太子が亡くなった後、蘇我氏はさらに力を強めていきます。
そして645年、中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我入鹿を倒し、大化の改新を始めました。
大化の改新では、「公地公民」の考え方が打ち出されます。
これは、「土地や人民は国家のものである」という考え方です。
それまでの豪族が土地や人々を支配する仕組みから、国家が全国を支配する仕組みへ変えようとしたのです。
また、地方制度や税制度を整えようとする改革も進められました。
ただし、ここで注意したいのは、大化の改新の時点ではまだ制度が完全には整っていなかったことです。
例えば、後に重要となる班田収授法や租庸調も、この時代にはまだ本格的には運用されていません。
そのため、大化の改新は「律令国家完成」ではなく、「天皇中心国家へ向かう改革のスタート」として理解することが重要です。
3.白村江の戦いと国家体制の強化
663年、日本は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れました。
この戦いは、日本に大きな衝撃を与えます。
当時の日本は、朝鮮半島で百済を助けようとしていました。しかし敗北したことで、「外国から攻め込まれるかもしれない」という危機感が強まりました。
そのため、日本は急いで国家体制を整える必要に迫られます。
九州には大宰府が置かれ、水城などの防衛施設も整えられました。
また、中央集権化をさらに進める動きも強まっていきます。
つまり、律令国家づくりは国内政治だけでなく、「国を守る」という目的とも深く関係していたのです。
4.壬申の乱と大宝律令
672年、天智天皇の死後に起こったのが壬申の乱です。
この戦いでは、大海人皇子が勝利し、後の天武天皇となりました。
天武天皇は、天皇中心の政治をさらに強化していきます。
豪族の力をおさえ、中央集権国家づくりを進めたことが重要なポイントです。
そして701年、文武天皇の時代に大宝律令が制定されます。
これによって、律令国家の制度がほぼ整いました。
ただし、大宝律令によって制度は完成しましたが、実際に全国で本格的に運営されるのは奈良時代に入ってからです。
このように、律令国家への歩みは、飛鳥時代の重要な出来事の流れと深く結びついています。
それぞれをバラバラに暗記するのではなく、「天皇中心の中央集権国家がどのように作られていったのか」という流れで理解することが大切です。
まずは、次の年表図解で飛鳥時代全体の流れを確認しておきましょう。

第3章 律令国家の地方支配
律令国家では、中央に都を置くだけでなく、地方まで含めて全国を支配することが重要でした。
もし地方の豪族がそれぞれ勝手に支配を続けてしまえば、天皇中心の中央集権国家は成り立ちません。
そのため律令国家では、
- 中央に役所を置く
- 地方に役人を派遣する
- 戸籍を作る
- 土地や税を管理する
といった仕組みが整えられていきました。
この章では、律令国家がどのように全国を支配したのかを整理していきます。
1.中央の政治と二官八省
律令国家では、天皇を中心に政治が行われました。
中央には「二官八省」とよばれる役所が置かれ、政治を分担していました。
二官とは、神祇官(じんぎかん)と太政官(だいじょうかん)のことです。
特に太政官は政治の中心となる重要な役所でした。
さらに、その下には八省が置かれ、戸籍・税・儀式など、さまざまな仕事を担当しました。
高校入試では、八省の名前を細かく覚える問題はそれほど多くありません。
しかし、律令国家では、中央に役所を整えて全国を支配したという流れは重要です。

2.国・郡・里による地方支配
律令国家では、全国を「国」「郡」「里」に分けて支配しました。
現在の都道府県のように、地域ごとに役所や役人を置いて統治したイメージです。
まず、「国」には国司が派遣されました。
国司は中央から送られた役人で、地方政治を担当しました。
一方、「郡」には郡司が置かれます。
郡司には、その土地の有力豪族が任命されることが多く、地方支配に協力しました。
さらに、「里」には里長が置かれ、人々の管理を行いました。
ここで重要なのは、
- 国司 → 中央から派遣
- 郡司 → 地方豪族
- 里長 → 地域のまとめ役
という違いです。
高校入試では、この区別がよく問われます。
また、九州には大宰府が置かれました。
大宰府は、西日本の政治や外交、防衛を担当する重要な役所でした。
特に白村江の戦いの後は、外国からの攻撃に備える役割が強まっていきます。
3.戸籍と班田収授法
律令国家では、人々や土地を正確に把握する必要がありました。
そのため、戸籍が作られます。
戸籍には、人々の名前や年齢などが記録されました。
戸籍が重要だったのは、次のような理由のためです。
- 土地を分け与えるため
- 税を集めるため
- 人々を管理するため
律令国家では、6歳以上の男女に口分田を与える制度がありました。
これを班田収授法といいます。
しかし、土地を配るには、「誰がいるのか」を把握しなければなりません。
そのため、戸籍が必要だったのです。
また、口分田は人々の私有地ではありませんでした。
人が亡くなると、国家に返す決まりになっていました。
つまり律令国家では、「土地も人々も国家が管理する」という考え方が基本になっていたのです。
4.租・庸・調と農民の負担
律令国家では、全国を支配するために多くの税が必要でした。
そのため、農民にはさまざまな負担が課されます。
代表的なのが、租・庸・調です。
まず、「租」は、口分田で収穫した米の一部を納める税です。
次に、「調」は、地方の特産物を納める税でした。
さらに、「庸」は、労役の代わりとして布などを納める税です。
高校入試では、この区別が頻出です。
また、このほかにも、都で働く雑徭(ぞうよう)や九州の防衛を担当する防人(さきもり)などの負担もありました。
特に防人は、東国の人々が九州まで送られることもあり、農民にとって大きな負担でした。
律令国家は強力な国家でしたが、その一方で、多くの農民の負担によって支えられていたことも重要なポイントです。
以下の図解でポイントを押さえましょう。

第5章 まとめ|律令国家とはどのような国家だったのか?
律令国家とは、天皇を中心として、法律にもとづいて全国を支配する国家のことです。
日本は、隋や唐の制度を参考にしながら、長い時間をかけて律令国家づくりを進めていきました。
その始まりとなったのが、聖徳太子の政治です。その後、大化の改新、壬申の乱などを経て、701年の大宝律令によって、律令国家の仕組みがほぼ完成しました。
そして奈良時代には、
- 戸籍による人民支配
- 班田収授法
- 租・庸・調
- 国ごとの地方支配
などが全国で本格的に行われるようになります。
1.律令国家の流れを整理しよう
聖徳太子の政治
↓
中国の制度を学び、中央集権を目指す
大化の改新
↓
豪族中心の政治を改めようとする
壬申の乱
↓
天皇中心の政治が強まる
大宝律令
↓
律令国家の仕組みが完成する
奈良時代
↓
全国で制度が本格的に運営される
2.律令国家の重要ポイント
- 天皇を中心とする中央集権国家である
- 律(刑法)と令(政治のルール)によって政治を行う
- 戸籍によって人々を管理した
- 班田収授法と租庸調によって税を集めた
- 中国(隋・唐)の制度の影響を受けている
3.律令国家は完成後すぐに問題も抱えた
律令国家は、日本の歴史の中でも大きな国家改革でした。
しかし実際には、
- 農民の負担の増加
- 班田収授法の行き詰まり
- 土地制度の変化
- 私有地の拡大
など、多くの問題も起こります。
特に743年の墾田永年私財法によって土地の私有が広がると、律令国家のしくみは少しずつ崩れていきました。
そのため律令国家は、「日本の中央集権国家の土台を作った制度」であると同時に、「完成後すぐに限界も見え始めた制度」だったのです。

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