平安時代までは、天皇や貴族を中心とした政治が続いていました。
しかし、鎌倉時代になると、武士が政治の中心へと変わっていきます。
源頼朝が鎌倉幕府を開き、日本ではじめて本格的な武士の政権が成立しました。
また、この時代には武士だけでなく、民衆にも広がる新しい仏教が登場し、力強く現実的な「鎌倉文化」も発展します。
さらに、元(モンゴル帝国)の襲来によって、日本が大きな国際的危機に直面した時代でもありました。
この記事では、
・鎌倉幕府の成立
・執権政治のしくみ
・武士と民衆のくらし
・新しい仏教と鎌倉文化
・元寇と幕府の衰退
など、鎌倉時代の流れを重要ポイントとともにわかりやすく整理していきます。

第1章 源平の争乱
平安時代の後半になると、武士の力が大きくなり、朝廷の政治にも深く関わるようになっていきました。
その中で大きな力を持ったのが、平清盛を中心とする平氏です。
平氏は朝廷の高い役職を独占し、自分の一族を天皇の親族にするなど、大きな権力を持つようになりました。
しかし、その一方で、
- 平氏だけが出世している
- 朝廷を私物化している
- 地方武士への不満が高まる
など、平氏への反発も強くなっていきます。
こうして、平氏と源氏の戦いである「源平の争乱」が始まることになります。
1 源頼朝の挙兵
1180年、源頼朝は伊豆で兵をあげ、平氏打倒を目指しました。
1180年、源頼朝は伊豆で兵をあげ、平氏打倒を目指しました。
きっかけの1つとなったのが、以仁王が平氏打倒を呼びかけたことです。
頼朝は東国武士をまとめながら勢力を広げていきました。
当時、東国の武士たちは、自分たちを守ってくれる強いリーダーを求めていました。
頼朝はその中心となり、東日本で大きな力を持つようになります。
2 木曽義仲と源氏の主導権争い
源氏側では、木曽義仲も活躍しました。
義仲は平氏を京都から追い出し、大きな戦果をあげます。
しかし、その後は朝廷との関係や政治運営がうまくいかず、頼朝とも対立するようになりました。
そこで頼朝は、弟の源義経や源範頼を送り、義仲を討たせます。
こうして、源氏の中心は頼朝のもとへまとまっていきました。
3 義経の活躍と平氏の滅亡
その後、義経は源氏軍の中心として活躍します。
特に1185年の壇ノ浦の戦いでは、平氏を破り、長く続いた平氏政権を滅ぼしました。
これによって、源氏が全国の主導権を握るようになります。
4 頼朝と義経の対立
しかし、平氏滅亡後、頼朝と義経は対立するようになります。
理由の1つが、義経が頼朝の許可を十分に得ないまま、朝廷から官位を受けたことでした。
頼朝は、「朝廷と直接つながる有力武士は危険だ」と考え、義経を警戒します。
当時、頼朝は武士による新しい政治を作ろうとしていました。
そのため、武士が朝廷と独自につながることを嫌ったのです。
5 守護・地頭の設置
頼朝は義経を追討する許可を朝廷に求めます。
そして、その中で認められたのが、守護と地頭の設置です。
守護は各国の武士を監視し、地頭は土地や荘園を管理する役割を持っていました。
つまり、義経追討をきっかけに、幕府は全国へ支配を広げていったのです。
6 奥州藤原氏の滅亡
義経は奥州藤原氏を頼って東北地方へ逃げ込みました。
しかし、1189年、頼朝は奥州へ軍を送り、義経を追いつめます。
この戦いによって、奥州藤原氏も滅亡しました。
これによって、東北地方まで頼朝の支配が広がることになります。
この章のポイント
壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡したことで、「これで頼朝の全国支配が完成した」と思われがちです。
しかし、実際にはこの時点では、まだ幕府の全国支配は完成していませんでした。
その後、頼朝は弟の源義経を追討する中で、朝廷に守護・地頭の設置を認めさせます。
これによって、幕府は各地の武士や土地を監視・管理する仕組みを作り、全国への支配を広げていきました。
さらに、義経が逃げ込んだ奥州藤原氏を滅ぼしたことで、東北地方まで勢力を広げます。
これらの流れを図解にすると、次の通りです。

頼朝が全国支配を強めていった流れをしっかり理解しましょう。
第2章 鎌倉幕府の成立
源平の争乱の中で、源頼朝は東国武士をまとめ、全国へ勢力を広げていきました。
そして、平氏滅亡や奥州藤原氏の滅亡を経て、武士による新しい政治が本格的に始まります。
それが「鎌倉幕府」です。
鎌倉幕府は、それまでの朝廷中心の政治とは違い、武士が中心となって政治を行う新しい政権でした。
1 征夷大将軍と鎌倉幕府
1192年、頼朝は朝廷から征夷大将軍に任命されました。
征夷大将軍とは、もともとは軍を率いるための役職でしたが、頼朝はこの役職を利用して武士による政治を進めていきます。
頼朝は政治の中心を京都ではなく鎌倉に置きました。
これは、東国武士とのつながりを重視していたためです。
こうして、鎌倉を中心とする武士政権である鎌倉幕府が成立しました。
鎌倉幕府の始まりは1192年?1185年?
以前では、「1192年に源頼朝が征夷大将軍になり、鎌倉幕府が成立した」と学ぶことが一般的でした。
しかし現在では、1185年説も有力になっています。これは、頼朝が義経追討をきっかけに守護・地頭の設置を認めさせ、全国への支配を進めた年だからです。
つまり、「1192年 → 征夷大将軍に任命された年」「1185年 → 実際に全国支配が始まった年」という違いがあります。
そのため、現在の教科書では1185年を重視するものも増えています。
4 守護と地頭
前章で見たように、頼朝は義経追討をきっかけに、朝廷へ守護・地頭の設置を認めさせました。
守護は各国で武士を監視し、地頭は荘園や土地を管理する役割を持っていました。
もともとは義経追討という軍事的な目的がきっかけでしたが、次第にこれらは幕府の全国支配を支える重要な制度になっていきます。
特に地頭は、土地の管理や年貢の取り立てを行い、幕府と地方を結びつける存在となりました。
このように、守護・地頭の設置によって、幕府は全国の武士や土地への支配を広げていったのです。
5 朝廷と幕府
鎌倉幕府ができたあとも、朝廷がなくなったわけではありません。
京都には天皇や貴族がおり、朝廷も政治的な権威を持ち続けていました。
つまり、京都の朝廷鎌倉の幕府という、2つの政治の中心が存在する時代になったのです。
頼朝は、政治の中心を京都ではなく鎌倉に置きました。
京都は天皇や貴族が政治を行う場所でした。
一方、鎌倉は東国武士とのつながりが強く、頼朝にとって支配しやすい地域だったのです。
また、鎌倉は三方を山、一方を海に囲まれており、防御にも適した土地でした。
つまり鎌倉幕府は、京都の貴族政治とは違う、東国武士を中心とした新しい政権だったのです。
第3章 武士社会と封建制度
鎌倉幕府では、将軍と武士が土地を中心に結びつく「封建制度」が作られていきました。
封建制度とは、主君と家来が、土地を仲立ちにして結びつく仕組みのことです。
鎌倉時代の武士にとって、土地は生活そのものでした。
そのため、
- 将軍は土地を与える
- 武士は命をかけて戦う
という関係が重要になっていきます。
1 御恩と奉公
鎌倉幕府では、将軍と武士は「御恩と奉公」の関係で結ばれていました。
御恩
将軍が御家人の土地支配を認めたり、新しい土地を与えたりすること。
奉公
御家人が将軍のために戦ったり、警備をしたりすること。
つまり、将軍は土地を守り、武士は命をかけて将軍に従うという関係です。
このような主従関係が、鎌倉幕府の土台となっていました。
2 御家人とは
将軍に仕える武士を「御家人」といいます。
御家人は、戦いが起これば将軍のために出陣しなければなりませんでした。
また、京都の警備や幕府の仕事を担当することもありました。
その代わりに、幕府から土地の支配を認めてもらいます。
つまり御家人にとって、「土地を守ること=生活を守ること」だったのです。
3 一所懸命とは?
武士は、自分の土地を命がけで守ろうとしました。
これを「一所懸命」といいます。
当時の武士にとって、土地は収入を得るための大切な財産でした。
もし土地を失えば、生活そのものが成り立たなくなります。
そのため武士たちは、戦いでも必死に戦いました。
現在の「一生懸命」という言葉も、ここから生まれています。
4 封建制度と鎌倉幕府
鎌倉幕府は、単に将軍が命令するだけの政治ではありませんでした。
将軍と御家人は、土地を中心にした主従関係で結びついていました。
この関係があったからこそ、多くの武士が幕府に従ったのです。
しかし、この仕組みは「新しい土地を与えられること」を前提としていました。
そのため、後の元寇では大きな問題が起こることになります。
この章のポイント
鎌倉時代の武士社会では、
- 将軍が土地を守る(御恩)
- 武士が命をかけて従う(奉公)
という関係が作られていました。
そして、このような土地を中心とした主従関係を「封建制度」といいます。
つまり鎌倉幕府は、武士同士の強い主従関係によって支えられた政権だったのです。
第4章 執権政治の始まり
1199年、源頼朝が亡くなると、鎌倉幕府では将軍の力が少しずつ弱まっていきます。
その中で実権を握るようになったのが、頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏でした。
北条氏は「執権」として幕府の政治を動かし、やがて将軍よりも大きな力を持つようになります。
まずは、この章の流れを図解で確認してみましょう。

1 北条時政と執権政治の始まり
1199年、源頼朝が亡くなると、鎌倉幕府では将軍の力が少しずつ弱まっていきます。
頼朝のあとを継いだのは子の源頼家でしたが、まだ若く、御家人との対立も起こるなど、幕府の政治は不安定になっていきました。
そこで力を持つようになったのが、頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏です。
1203年、北条時政は執権となり、将軍を補佐しながら幕府の実権を握るようになります。
執権とは、もともとは将軍を助ける役職でした。
しかし北条氏は、この役職を利用して幕府の政治を動かしていきました。
こうして始まった政治を「執権政治」といいます。
2 源氏将軍の断絶
その後も北条氏は力を強めていきます。
1219年、3代将軍の源実朝が暗殺されると、頼朝から続いていた源氏の将軍は断絶しました。
しかし、幕府そのものがなくなったわけではありません。
北条氏は、京都の貴族や皇族を将軍として迎え、将軍を名目上の存在にしていきます。
一方で、実際の政治は執権である北条氏が動かしていました。
つまり、将軍=形式上のトップ
北条氏(執権)=実際に政治を動かす存在
という形になっていったのです。
3 承久の乱と幕府の全国支配
3代将軍・源実朝が暗殺され源氏の将軍は途絶えると、朝廷の中心だった後鳥羽上皇は、「今なら幕府を倒せるかもしれない」と考えるようになりました。
当時、朝廷には長い歴史と大きな権威がありました。
そのため、御家人たちの中にも、「天皇や上皇に逆らってよいのか」と動揺する者が多くいました。
そこで立ち上がったのが、源頼朝の妻である北条政子です。
北条政子は御家人たちを集め、
「みなの者、よく聞きなさい」
と語り始めました。
そして、「頼朝公から受けた恩を忘れてはならない」と、幕府への忠誠を訴えます。この演説によって御家人たちは団結し、幕府側として戦うことを決意しました。
1221年、後鳥羽上皇は幕府を倒そうとして兵を挙げます。これが承久の乱です。
しかし、幕府軍は京都へ攻め込み、戦いに勝利しました。
後鳥羽上皇は隠岐へ流されます。
この戦いによって、
- 朝廷よりも幕府の力が強くなったこと
- 武士の政権が全国を支配する時代になったこと
が全国に示されました。
3.六波羅探題を置く
承久の乱のあと、幕府は京都に六波羅探題を設置しました。
六波羅探題は朝廷の監視や西日本の警備を担当します。
これによって、幕府は京都や朝廷に対する支配をさらに強めていきました。
4.御成敗式目を制定する
1232年、3代執権の北条泰時は御成敗式目を制定しました。
これは、御家人同士の裁判を公正に行うために作られた法律で、日本最初の武家法とされています。
御成敗式目では、武士社会の慣習や道理を重視して判断が行われました。
また、この法律は武士(御家人)のための法律だったため、公家には適用されませんでした。
御成敗式目が定められたことで、鎌倉幕府の政治や裁判のしくみはより安定していきます。
この章のポイント
鎌倉幕府は、頼朝が作ったあとも、そのまま安定していたわけではありません。
頼朝の死後、
北条氏が執権となる
↓
源氏将軍が断絶
↓
承久の乱で朝廷に勝利
という流れの中で、北条氏は実権を握っていきました。
つまり、執権政治とは、将軍を支える立場だった北条氏が、幕府の実際の支配者になっていく流れだったのです。
ここで、歴代の執権が試験で問われるポイントを図解で理解しておきましょう。

このように、鎌倉幕府では将軍だけでなく、執権である北条氏が政治の中心となっていきました。
特に高校入試では、以下の通り「その執権の時代に何が起きたか」を流れで問われることが多くあります。
- 初代・北条時政 → 執権政治の始まり
- 3代・北条泰時 → 御成敗式目
- 5代・北条時頼 → 得宗政治
- 8代・北条時宗 → 元寇
そのため、名前だけを暗記するのではなく、「誰の時代に、どんな出来事があったのか」をセットで整理しておくことが大切です。
第5章 武士と民衆のくらし
鎌倉時代は、武士による政治が広がる中で、人々のくらしも大きく変化していった時代でした。
武士たちは土地を守るために戦いに備えた生活を送り、一族で協力しながら生きていました。
一方で、農業や商業も発達し、人々のくらしは少しずつ変化していきます。
また、中国との貿易によって貨幣が広まり、日本でもお金を使った経済が発達し始めました。
この章では、
- 武士の生活や考え方
- 土地をめぐる武士たちのしくみ
- 農業や商業の発達
- 民衆のくらしの変化
などを通して、鎌倉時代の社会の特徴を見ていきましょう。
1.武士のくらしと「いざ鎌倉」
鎌倉時代の武士は、戦いに備えた生活を送っていました。
将軍から命令が出れば、すぐに鎌倉へ向かう必要がありました。
このことから、「いざ鎌倉」という言葉が生まれます。
武士たちは各地に館(やかた)と呼ばれる屋敷を持ち、そこを中心に生活していました。
また、武士は弓や馬を重視し、「弓馬の道」を大切にします。
特に、馬に乗りながら矢を射る流鏑馬(やぶさめ)や笠懸(かさがけ)は、武士の重要な訓練でした。
2.惣領と分割相続
武士の家では、惣領(そうりょう)と呼ばれる家の中心人物が一族をまとめていました。
しかし、鎌倉時代には土地を子どもたちに分ける分割相続が行われます。
さらに、この時代は女性にも相続権が認められていました。
そのため、世代が進むにつれて土地が細かく分かれ、武士の生活は苦しくなっていきます。
これが、後の御家人の不満につながっていきました。
3.地頭と荘園領主の対立
鎌倉幕府は各地に地頭を置きましたが、もともとの土地の持ち主である荘園領主も存在していました。
そのため、土地では地頭と荘園領主による二重支配が行われることになります。
地頭は武力を背景に強引に支配することも多く、「泣く子と地頭には勝てない」という言葉まで生まれました。
このことからも、当時の地頭の力の強さがわかります。
4.農業の発達と民衆のくらし
鎌倉時代には農業も発達していきます。
牛や馬を使った牛馬耕が広がり、農作業の効率が上がりました。
また、同じ土地で1年に2回作物を育てる二毛作も広がります。
こうして農業の生産力が高まったことで、人々の生活も少しずつ変化していきました。
5.商業の発達と日宋貿易
鎌倉時代には商業も発達しました。
各地では市(いち)が開かれ、定期市も増えていきます。
中国の宋との間では日宋貿易が行われ、宋銭と呼ばれる中国の貨幣が日本でも広く使われるようになりました。
このころから、日本ではお金を使った経済が少しずつ広がっていきます。
中学歴史では、将軍・天皇・戦争・政治改革などが中心になるため、「宋銭(そうせん)」は脇役のように見えるかもしれません。
しかし、実は宋銭の流入は、日本社会を大きく変えた重要なできごとでした。
日本では、奈良時代に 和同開珎 が作られています。
そのため、「日本には昔からお金があったのでは?」と思う人もいるかもしれません。
しかし、和同開珎は全国に広く普及したとは言えませんでした。
理由としては、
- 数が不足していた
- 人々に信用されにくかった
- そもそも現物中心の社会だった
などがあります。
つまり、貨幣を作っても、「お金を使う社会」まではまだ作れなかったのです。
当時の社会では、
- 米
- 布
- 特産物
などが経済の中心でした。
税も現物で納めることが多く、「お金がなくても生活できる社会」に近かったのです。
ところが、鎌倉時代ごろから、宋 との貿易によって大量の宋銭が日本へ入ってきます。
すると、売買、運送、貸し借り、年貢の支払いなどで、お金を使う場面が急速に増えていきました。
つまり、「モノ中心の社会」から、「お金中心の社会」へ変わり始めたのです。
この変化は、単なる「商業の発展」ではありません。
社会の仕組みそのものを変える大きな転換でした。
例えば室町時代には、
- 土倉
- 酒屋
- 高利貸し
など、お金を扱う商人が力を持つようになります。
一方で、借金に苦しむ農民や武士も増え、やがて徳政一揆へつながっていきました。
つまり、
- 和同開珎=「日本がお金を作ろうとした時代」
- 宋銭=「日本で貨幣経済が本格化するきっかけ」
と整理すると、とても分かりやすいです。
歴史では戦いや政治が目立ちますが、実際には「お金の流れ」が社会を大きく変えることもあります。
宋銭は、それを理解するための重要なキーワードなのです。
第6章 鎌倉時代の文化
鎌倉時代には、武士の時代らしい新しい文化が発達しました。
平安時代の貴族中心の文化とは異なり、力強く現実的な作品が多く生まれるようになります。
建築や彫刻では、武士の時代らしい迫力のある表現が見られ、文学でも戦乱や人々の不安な世の中を描いた作品が作られました。
また、この時代には新しい仏教も広まりました。
それまでの仏教は、厳しい修行や学問を重視するものが多く、貴族や一部の人々が中心でした。
しかし鎌倉時代には、「苦しい普通の人々も救われる」という考え方が広がり、武士や民衆の間にも仏教が広まっていきます。
この章では、
- 鎌倉時代の文学や建築、彫刻
- 武士の時代らしい文化の特徴
- 民衆にも広がった新しい仏教
などを通して、鎌倉文化の特徴を見ていきましょう。
1.鎌倉文化とは?
鎌倉時代には、武士の力が強まったことによって、新しい文化が生まれました。
これを鎌倉文化といいます。
鎌倉文化は、これまでの貴族文化とは異なり、力強く素朴な武家文化が特徴です。

1.力強い仏像と建築
鎌倉時代には、東大寺南大門が再建されました。
そこに置かれた金剛力士像は、運慶・快慶によって作られた有名な仏像です。
筋肉まで表現された力強い姿には、武士の時代らしさが表れています。
2.絵巻物と文学
この時代には、絵巻物も発達しました。
特に、元寇の様子を描いた蒙古襲来絵詞は有名です。
また、人物の特徴をリアルに描く似絵(にせえ)も広がりました。
文学では、『平家物語』が有名です。
琵琶法師によって語られ、「祇園精舎の鐘の声」で始まる冒頭は特によく知られています。
さらに、
- 藤原定家らがまとめた『新古今和歌集』
- 鴨長明の『方丈記』
- 吉田兼好の『徒然草』
なども鎌倉文化を代表する作品です。
2.新しい仏教の広がり
鎌倉時代には、新しい仏教が次々に広まりました。
戦乱や災害が多かったこの時代、人々は「だれでも救われたい」と考えるようになります。
そのため、難しい修行ではなく、わかりやすい教えが広まっていきました。
1.念仏の教え
法然は浄土宗を開きました。
「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば極楽浄土へ行けると説きます。
これは阿弥陀仏の力によって救われるという他力本願の考え方でした。
その弟子の親鸞は浄土真宗(一向宗)を開きます。
親鸞は、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけでなく、阿弥陀仏を信じる心そのものが大切だと考えました。
また親鸞は、自分の力だけでは正しく生きられない人間こそ、阿弥陀仏に救われると説きます。
これは、「悪人こそ救われる」という考え方で、悪人正機説(あくにんしょうきせつ)と呼ばれています。
この教えは、多くの民衆に広がっていきました。
2.時宗と踊念仏
一遍は時宗を開きました。
人々に念仏を広めるため、踊念仏を行ったことで有名です。
踊りながら念仏を唱えることで、多くの民衆に広がっていきました。
3.日蓮宗と法華経
日蓮は日蓮宗を開きました。
法華経を最も重要な経典と考え、「南無妙法蓮華経」と唱えることを重視しました。
他の宗派への批判も強く、激しい布教を行ったことで知られています。
4.禅宗の広がり
武士の間では禅宗も広まりました。
栄西は臨済宗を、道元は曹洞宗を開きます。
禅宗では、自分自身の修行によって悟りを目指します。
この考え方は、自分の力で修行する自力本願につながります。
精神力を重視する禅宗は、武士たちに広く受け入れられました。

第7章 モンゴル来襲と幕府の衰退
鎌倉幕府は、北条氏による執権政治によって全国への支配を強めていきました。
しかし、その一方で、幕府をゆるがす大きな危機も訪れます。
それが、モンゴル帝国によって作られた「元(げん)」の来襲です。
元は強大な軍事力を持っており、日本にも従うよう求めてきました。
しかし幕府はこれを拒否し、日本は二度にわたる大きな戦いを経験することになります。
この戦いで幕府は元を退けることに成功しました。
しかし、その後、御家人たちへの恩賞不足などが問題となり、幕府への不満が高まっていきます。
つまり、元寇に勝利したことが、逆に幕府の弱体化につながっていったのです。
この章では、
- 元寇(文永の役・弘安の役)
- 北条時宗の政治
- 御家人の不満
- 幕府が衰退していく流れ
などを通して、鎌倉幕府が弱まっていく理由を見ていきましょう。
1.モンゴル帝国の広がり
13世紀、チンギス=ハンがモンゴル帝国を築きました。
その後、孫のフビライ=ハンが中国を支配し、国号を元とします。
元では火薬・羅針盤・印刷術などが発達し、広い地域との交流も進みました。
イタリアの商人マルコ=ポーロは、中国を訪れ、『東方見聞録』を書いてヨーロッパへアジアの豊かさを伝えています。
※補足
元は中国を支配した王朝の1つで、都も中国に置かれていました。
そのため、中国の歴史では隋や唐などと同じ「中国王朝」として扱われます。
しかし、隋や唐が漢民族中心の王朝だったのに対し、元はモンゴル人が支配した王朝である点が大きく異なります。
もともとモンゴル帝国は、チンギス=ハンによって作られた巨大な世界帝国でした。
その勢力は中国だけでなく、中央アジアやロシア方面、さらにヨーロッパにまで広がり、多くの国々を恐れさせました。
その後、広すぎる帝国はしだいにいくつかの国に分かれていきます。
その中で、フビライ=ハンが中国を支配して建てた国が「元」です。
- モンゴル帝国=巨大な世界帝国全体
- 元=その中で中国を支配した国
という関係になります。
2.元寇(蒙古襲来)
フビライ=ハンは日本にも従うよう求めました。
しかし、鎌倉幕府はこれを拒否します。
そこで元は高麗とともに日本へ攻めてきました。
これを元寇(蒙古襲来)といいます。
【中学歴史】高麗とはどんな国?|新羅との関係・高句麗との違いを整理
新羅(しらぎ)と高麗(こうらい)は、どちらも朝鮮半島の国ですが、同じ国ではなく、時代の違う別の王朝です。
中学生向けにいうと、
- 新羅 → 古代の国
- 高麗 → その後にできた中世の国
という関係です。
流れで整理すると、かなり分かりやすいです。
まずは時代の流れで説明します。
① 三国時代
朝鮮半島には、
- 高句麗(こうくり)
- 百済(くだら)
- 新羅(しらぎ)
の3国がありました。
この3国が争っていた時代を「三国時代」といいます。
日本史でよく出るのは、
- 聖徳太子の時代 → 遣隋使
- 飛鳥文化
- 白村江の戦い
あたりで、百済・新羅・高句麗が関係してきます。
② 新羅が朝鮮半島を統一
7世紀後半、新羅は唐と協力して、
- 百済を滅ぼす
- 高句麗を滅ぼす
ことに成功しました。
これによって、朝鮮半島の多くを支配する「統一新羅」が成立します。
ここ、日本史では超重要です。
特に、白村江の戦い(663年)で、
- 日本 → 百済を助ける
- 新羅・唐連合 → 日本・百済連合を破る
という形になります。
つまり、日本と新羅は敵側でした。
あと、次の流れは、試験で問われやすいので、しっかり押さえましょう。
大化の改新(645)
百済滅亡(660)
白村江の戦い(663)
高句麗滅亡(668)
新羅の統一(676頃)
大宝律令(701)
これらの時代の流れを理解しているかが問われる。
③ 新羅が弱まり、高麗が成立
しかし、新羅はだんだん弱くなります。
地方の豪族が力を持ち、争いが増えました。
その後、10世紀ごろに王建(ワン・ゴン)が新しい国を建てます。
それが「高麗」です。
つまり、高麗は、新羅が滅びたあとに成立した王朝という関係です。
「高句麗」と「高麗」がややこしい!
ここ、中学生がかなり混乱します。
高句麗(こうくり)
- 三国時代の国
- 新羅と争った
- 古代国家
高麗(こうらい)
- 新羅のあとにできた国
- 王建が建国
- 後の朝鮮王朝につながる
名前が似ていますが、別物です。
ただし、高麗は、「昔の高句麗を受け継ぐ国だ!」という意識を持っていて、名前もそこから取っています。
実は英語の「Korea(コリア)」は、「高麗(こうらい)」が語源です。
日本史との関係で重要なのは?
中学歴史では、特に次の流れが重要です。
- 新羅が唐と協力
- 白村江の戦い
- 日本が敗北
- 日本が防衛を強化
- 律令国家づくりが加速
つまり、新羅は日本の飛鳥時代〜奈良時代と深く関係しています。
一方、高麗は日本史だと、
- 刀伊の入寇
- 元(モンゴル)の日本遠征の中継地点
などで登場します。
高校入試レベルだと、モンゴルの日本遠征の中継点という点をまずは押さえましょう。
だから、
- 新羅 → 飛鳥時代との関係
- 高麗 → 鎌倉時代との関係
で整理すると覚えやすいです。
3.文永の役と弘安の役
1274年の戦いを文永の役といいます。
元軍は火薬を使った武器などで日本軍を苦しめました。
しかし、その後撤退します。
さらに1281年、元は再び攻め込みます。
これが弘安の役です。
このときは暴風雨によって元軍が大きな被害を受けました。
幕府の執権だった北条時宗は、御家人たちをまとめて戦いました。
4.御家人の不満と幕府の弱体化
元寇に勝利したものの、幕府には大きな問題が残りました。
外国との戦いだったため、新しい土地を与えることができなかったのです。
そのため、戦った御家人たちの不満が高まっていきました。
さらに、分割相続によって生活も苦しくなります。
幕府は永仁の徳政令を出して借金を帳消しにしようとしましたが、かえって経済が混乱しました。
こうして幕府の財政や支配力は弱まっていきます。
5.鎌倉幕府の滅亡
後醍醐天皇は、幕府を倒して天皇中心の政治を取り戻そうとしました。
そのころ、悪党と呼ばれる反幕府勢力も各地で活動していました。
後醍醐天皇は一度、隠岐へ流されますが、その後ふたたび倒幕を進めます。
楠木正成らが後醍醐天皇に協力し、新田義貞が鎌倉へ攻め込みました。
さらに京都の六波羅探題も滅ぼされます。
そして1333年、鎌倉幕府はついに滅亡しました。
第8章 鎌倉時代まとめ
鎌倉時代は、日本で初めて本格的な武士による政治が行われた時代でした。
平氏を倒した源頼朝は、東国武士をまとめながら勢力を広げ、鎌倉幕府を開きます。
その後、幕府は守護・地頭を通して全国への支配を進めていきました。
また、頼朝の死後は、北条時政をはじめとする北条氏が実権を握り、「執権政治」が行われるようになります。
さらに、鎌倉時代には、
- 御恩と奉公による武士社会
- 農業や商業の発達
- 武士らしい力強い鎌倉文化
- 民衆にも広がった新しい仏教
など、多くの変化が起こりました。
しかし後半になると、元寇による負担や御家人の不満が高まり、幕府はしだいに弱まっていきます。
そして1333年、鎌倉幕府は滅亡し、日本は次の室町時代へ進むことになります。

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