大正時代は、第一次世界大戦や大正デモクラシーなどを通して、日本や世界が大きく変化した時代です。
第一次世界大戦によって、日本では工業や貿易が発展し、都市化や大衆文化も広がっていきました。
また世界では、戦争をきっかけに国際協調や民族自決の考え方が広まり、アジア各地で民族運動も活発になっていきます。
国内では、藩閥政治への批判、政党政治の発展、普通選挙法、労働運動や女性運動など、人々が政治や社会に参加しようとする動きが広がりました。
このような民主主義を求める流れを、大正デモクラシーといいます。
しかしその一方で、米騒動、社会不安、治安維持法、関東大震災など、不安定な面も見られる時代でした。
つまり大正時代は、「民主化と大衆化が進んだ時代」であると同時に、「昭和の戦争と統制へつながる不安も生まれ始めた時代」でもあったのです。
明治時代が、「富国強兵」や「文明開化」を進めながら近代国家を作っていく時代だったのに対し、大正時代は、その近代化した社会の中で、人々が政治や社会へ参加し始めた時代ともいえます。
つまり明治時代が、「国の仕組みを作る時代」だったとすれば、大正時代は、「国民が社会を動かし始める時代」だったのです。

第1章 第一次世界大戦と日本
第一次世界大戦は、日本だけでなく、世界全体を大きく変えた戦争でした。
ヨーロッパで始まった戦争は、やがて世界中を巻き込み、日本の政治・経済・人々のくらしにも大きな影響を与えていきます。
1.第一次世界大戦の始まり
1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が始まりました。
きっかけとなったのは、オーストリアの皇太子夫妻が暗殺されたサラエボ事件です。
当時のヨーロッパでは、国どうしの対立が深まっており、とくにバルカン半島では民族対立や領土争いが続いていました。
そのため、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていました。
サラエボ事件をきっかけに、
- ドイツ・オーストリア側
- イギリス・フランス・ロシア側
の対立が一気に広がり、世界規模の戦争へ発展していきます。
また、この戦争では国全体が戦争に協力する総力戦が行われました。
また、この戦争では国全体が戦争に協力する「総力戦」が行われました。
さらに、戦車、飛行機、毒ガスなどの新しい兵器も使われ、多くの人々が戦争に巻き込まれていきます。
その結果、第一次世界大戦では多大な犠牲が出ることになりました。
2.日本の参戦と中国への進出
日本は、日英同盟を理由に連合国側として参戦しました。
そして、中国にあったドイツの権益を攻撃し、山東省の青島(チンタオ)などを占領します。
さらに1915年、日本は中国に対して二十一か条の要求を出しました。
これは、
- ドイツが持っていた権益を日本へ引き継ぐこと
- 日本の中国での権利を広げること
などを求めたものです。
しかし、この要求は中国側の強い反発を受け、日本への不信感も高まっていきました。
3.大戦景気と人々のくらし
ヨーロッパ諸国が戦争で生産できなくなると、日本の工業製品や船などの需要が急増しました。
この結果、日本では大戦景気と呼ばれる好景気が起こります。
工場での生産が増え、日本では造船業や製鉄業が大きく発展しました。さらに、海外との貿易も活発になり、日本の経済は大きく成長していきます。
一方で、急な景気拡大によって物価も上昇します。
特に米の値段が大きく上がり、人々の生活は苦しくなっていきました。
4.ロシア革命とシベリア出兵
1917年、ロシアでは戦争や貧困への不満が高まり、ロシア革命が起こりました。
その結果、皇帝による政治が倒れ、世界初の社会主義国家が誕生します。
日本を含む列強諸国は、社会主義の広がりを警戒し、混乱するロシアへ介入するため、軍隊を送りました。
これをシベリア出兵といいます。
しかし、シベリア出兵には多くの費用がかかり、日本国内ではさらに米の価格が上昇しました。
5.米騒動の発生
1918年、米の値上がりに苦しんだ人々が各地で抗議運動を起こしました。
これが米騒動です。
最初は富山県の漁村の女性たちによる抗議でしたが、その後全国へ広がっていきます。
米騒動では、米屋への抗議や政府への不満が広がり、各地で暴動や打ちこわしも発生しました。
この事件によって寺内正毅内閣は退陣し、その後、本格的な政党内閣へつながっていくことになります。
第2章 第一次世界大戦後の世界と国際協調
第一次世界大戦が終わると、世界では「二度と大きな戦争を起こさないようにしよう」という考え方が広がりました。
そのため、国際連盟の設立や軍縮会議など、国際協調を目指す動きが進められます。
一方で、植民地支配を受けていた地域では、民族自決の考え方に影響を受け、独立や自治を求める運動も高まっていきました。
国際連盟と民族自決
第一次世界大戦後、アメリカ大統領ウィルソンは、平和な国際秩序を作るために民族自決や国際連盟の設立を唱えました。
民族自決とは、民族が自分たちの政治のあり方を自分たちで決めるべきだという考え方です。
この考え方は、ヨーロッパの新しい国づくりには影響を与えましたが、アジアやアフリカの植民地には十分に認められませんでした。
そのため、植民地支配を受けていた地域では、不満が高まっていきます。
軍縮とワシントン会議
第一次世界大戦は、多くの人命と資源を失わせた大戦争でした。
その反省から、各国の軍備を減らそうとする軍縮の動きが生まれます。
特に重要なのが、1921年から1922年に開かれたワシントン会議です。
この会議では、アメリカ・イギリス・日本などの国々が集まり、海軍の軍備を制限することが話し合われました。
その結果、主力艦の保有比率は、
アメリカ:イギリス:日本=5:5:3
と決められました。
日本はアメリカやイギリスより少ない比率を受け入れることになりましたが、当時は国際協調を重視する流れの中で、この軍縮に参加しました。
また、ワシントン会議では中国の主権を尊重することも確認されました。
これは、中国に対する各国の勢力争いを抑え、アジア太平洋地域の安定を目指すものでした。
ロンドン海軍軍縮条約と統帥権干犯問題
その後も、軍縮の流れは続きました。
1930年には、ロンドン海軍軍縮条約が結ばれます。
この条約では、補助艦と呼ばれる巡洋艦・駆逐艦・潜水艦などの保有量が制限されました。
しかし、日本国内ではこの条約に対して強い反発が起こります。
特に軍部や野党の一部は、「政府が軍の意見を十分に聞かずに軍縮条約を結んだのは、統帥権を侵害している」と批判しました。
これが統帥権干犯問題です。
統帥権とは、軍隊を指揮する最高の権限のことです。
当時の大日本帝国憲法では、統帥権は天皇に属するとされていました。
そのため、軍部は「軍のことは政府が勝手に決めるべきではない」と主張し、政府を攻撃する理由にしたのです。
この問題は、単なる条約への反対にとどまりませんでした。
政府が軍をコントロールしにくくなるきっかけとなり、のちに軍部の発言力が強まる大きな原因の1つになっていきます。
アジアで広がる民族運動
ウィルソンの民族自決の考え方は、アジアにも大きな影響を与えました。
それまで欧米列強や日本の支配を受けていた地域では、「自分たちの国を自分たちで動かしたい」という動きが強まっていきます。
1919年には、朝鮮で日本の支配に反発する三・一運動が起こりました。
人々は独立を求めて大規模なデモを行い、日本の植民地支配に強く反発します。
また同じ1919年、中国では五・四運動が起こりました。
パリ講和会議では、中国の山東省にあったドイツの権益が日本へ引き継がれることになり、中国の人々はこれに強く反発します。
北京の学生たちを中心に抗議運動が広がり、中国でも民族運動が高まっていきました。
さらにインドでは、ガンディーがイギリスからの独立を求める運動を進めました。
ガンディーは、暴力を使わずに抵抗する「非暴力・不服従」を掲げ、イギリス製品を買わない運動などを広げていきます。
このように、第一次世界大戦後の世界では、民族自決の考え方が広がり、アジア各地でも独立や権利を求める運動が活発になっていったのです。
国際協調の限界
第一次世界大戦後の世界では、国際連盟や軍縮会議によって、平和を守ろうとする努力が続けられました。
日本もワシントン会議やロンドン海軍軍縮条約に参加し、国際協調の一員として行動していました。
しかし、その一方で、植民地支配への不満や、軍縮に対する軍部の反発も強まっていきます。
特に日本では、統帥権干犯問題をきっかけに、政党政治と軍部の対立が深まっていきました。
つまり、第一次世界大戦後の国際協調は、平和を目指す重要な試みでしたが、世界恐慌や各国の不満によって、しだいに限界を迎えていくことになります。
第3章 大正デモクラシーと政党政治
大正時代には、「国民の意見を政治に反映させるべきだ」という考え方が広がっていきました。
このような民主主義を求める動きを、大正デモクラシーといいます。
この時代には、藩閥政治への批判が強まり、政党を中心とする政治が発展していきました。
しかしその一方で、政党政治はまだ不安定で、民主化と統制強化が同時に進んでいく時代でもありました。
1.吉野作造と民本主義
大正時代には、政治学者の吉野作造が「民本主義」を唱えました。
民本主義とは、「国民の利益や意見を大切にする政治を行うべきだ」という考え方です。
吉野作造は、政治は一部の有力者のためではなく、国民全体のために行われるべきだと考えました。そのためには、政党内閣と普通選挙が必要だと考えたのです。
ここで注意したいのが、「民本主義」と「民主主義」の違いです。
民主主義は、「国民が政治の主権を持つ」という考え方ですが、当時の日本では天皇中心の国家体制が続いていました。
そのため吉野作造は、天皇制そのものを否定するのではなく、「天皇制を前提にしながら、国民の意見を重視する政治」を目指したのです。
また、この頃には美濃部達吉(みのべたつきち)の天皇機関説も注目されました。
天皇機関説とは、「天皇は国家を動かす大切な存在だが、国家という組織の一部(機関)である」とする考え方です。
現在では比較的自然に感じる考え方ですが、当時は天皇のあり方に関わる重要な議論でした。
こうした思想は、大正デモクラシーを支える背景となっていきます。
2.藩閥政治への批判と第一次護憲運動
明治時代の日本では、薩摩藩や長州藩出身の政治家たちが強い力を持っていました。
これを藩閥政治といいます。
しかし大正時代になると、「議会をもっと重視するべきだ」「国民の意見を政治に反映させるべきだ」という声がしだいに強まっていきました。
1912年、桂太郎が内閣を組織すると、人々はこれに強く反発します。
この時に起こったのが、第一次護憲運動です。
人々は、「憲政擁護」(けんせいようご)、「閥族打破」(ばつぞくだは)を合言葉に、藩閥政治への反対運動を行いました。
「憲政擁護」とは、議会や憲法に基づく政治を守ろうという意味です。
また、「閥族打破」とは、藩閥政治を終わらせようという意味でした。
この運動によって、桂太郎内閣は退陣に追い込まれます。
第一次護憲運動は、国民の力が政治を動かした重要な出来事でした。
3.原敬内閣と本格的な政党政治
1918年には、米騒動が全国へ広がりました。
物価上昇や生活苦への不満が高まる中で、人々は国民の声を重視する政治を求めるようになります。
こうした中で成立したのが、立憲政友会の原敬(はらたかし)による内閣です。
原敬内閣は、初の本格的な政党内閣として重要です。
原敬は藩閥出身ではなく、政党を基盤として政治を行いました。
そのため、国民からも高い人気を集めます。
しかし1921年、原敬は東京駅で暗殺されてしまいました。
原敬は、本格的な政党内閣を作った人物として重要ですが、その一方で、社会主義運動を警戒し、普通選挙にも慎重な立場を取っていました。
当時の政府は、急進的な社会運動が広がることを不安視していたのです。
その後も、日本では普通選挙を求める運動が続いていくことになります。
原敬の死後は、再び政党以外の人物による内閣も作られるようになり、政治は不安定になります。
つまり、原敬内閣は画期的ではありましたが、まだ政党政治が完全に定着したわけではなかったのです。

4.第二次護憲運動と憲政の常道
1924年には、第二次護憲運動が起こりました。
この運動でも、議会政治を守り、政党を中心とする政治を進めることが求められました。
当時は、原敬の死後に政党政治が後退し、再び藩閥的な政治の影響が強まっていました。
そこで、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部などの「護憲三派」が協力し、加藤高明(かとうたかあき)による連立内閣を成立させます。
これによって、政党政治は再び発展していくことになりました。
その後は、議会で多数を占めた政党が内閣を作る流れが続くようになり、このような政治の流れを憲政の常道といいます。
憲政の常道の時代には、
- 加藤高明
- 若槻礼次郎
- 浜口雄幸
- 犬養毅
など、政党を基盤とした内閣が続きました。
これは、日本で政党政治が定着していった時代だったのです。
5.普通選挙法と治安維持法
1925年には、普通選挙法が成立しました。
これによって、満25歳以上のすべての男性に選挙権が認められます。
それまでの日本では、一定以上の税金を納めた男性しか選挙権を持っていませんでした。
普通選挙法によって、多くの国民が政治に参加できるようになり、日本の民主政治は大きく前進します。
しかしその一方で、同じ年には治安維持法も制定されました。
治安維持法は、社会主義運動や政府に反対する運動を厳しく取り締まる法律でした。
つまりこの時代は、民主主義が広がっていく一方で、政府による統制強化も同時に進んだ時代でもあったのです。
第4章 社会運動の広がりと人々の変化
大正時代には、民主主義を求める動きが広がる一方で、社会の中でも「平等」や「権利」を求める運動が活発になっていきました。
工業化や都市化が進む中で、労働環境や差別など、さまざまな社会問題も目立つようになっていったのです。
1.労働運動の広がり
第一次世界大戦後、日本では工業が発展し、多くの人々が工場で働くようになりました。
しかし当時の工場では、
- 長時間労働
- 低い賃金
- 厳しい労働環境
などの問題がありました。
そのため、労働者たちは待遇改善を求めて労働運動を行うようになります。
労働組合を作り、賃金の引き上げや労働条件の改善を求める動きが広がっていきました。
1920年には、日本で最初のメーデーが東京で開かれました。
メーデーとは、労働者が団結して権利や労働条件の改善を求める集会です。
この頃の日本では、労働者の権利を求める動きがしだいに広がっていきました。
2.女性運動の発展
この頃は、女性の地位向上を求める運動も活発になります。
平塚らいてうらによって作られた青鞜(せいとう)は、女性たちの考えや生き方を発信する雑誌として知られています。
また、市川房枝らは女性参政権を求める運動を進めました。
当時の日本では、女性には選挙権がなく、政治活動にも多くの制限がありました。
そのため、「女性も社会や政治に参加するべきだ」という考え方が広がっていったのです。
3.全国水平社の結成
1922年には、全国水平社が結成されました。
これは、被差別部落の人々が差別の解消を求めて作った団体です。
当時の日本社会には、厳しい差別が残っており、人々は平等な社会を求めて運動を行いました。
全国水平社の結成は、日本で人権問題に向き合う重要な動きとなります。
4.社会主義と政府の取り締まり
ロシア革命の影響もあり、日本では社会主義の考え方も広がっていきました。
社会主義とは、貧富の差を小さくし、人々の平等を重視しようとする考え方です。
しかし政府は、社会主義運動が広がることを警戒しました。
1925年には治安維持法が制定され、政府に反対する運動や社会主義運動への取り締まりが強化されていきます。
第5章 都市化と大衆文化
大正時代には、工業化や都市化が進み、人々の生活や文化も大きく変化していきました。
都市には多くの人々が集まり、新聞・雑誌・ラジオなど新しい文化が広がります。
このように、多くの人々が同じ文化を楽しむ社会を、「大衆社会」といいます。
大正時代は、日本で大衆文化が大きく発展した時代だったのです。
1.都市化の進展
第一次世界大戦後、日本では工業が発展し、東京や大阪などの都市が急速に成長しました。
農村から都市へ移り住む人々も増え、都市には多くの工場や商店が集まるようになります。
また、電車や百貨店、カフェなども広がり、人々の生活は大きく変化していきました。
都市では、西洋風の服装や生活文化も少しずつ広がっていきます。
2.新聞・雑誌・ラジオの広がり
この頃には、新聞や雑誌を読む人が増えていきました。
学校教育の広がりによって文字を読める人が増え、多くの人々が新しい情報や文化にふれるようになります。
また、1925年にはラジオ放送も始まりました。
ラジオは、同じ情報を同時に全国へ伝える新しいメディアとして、大きな影響を与えます。
さらに、映画、レコードなどの娯楽も広がり、人々はさまざまな文化を楽しむようになっていきました。
3.大衆文化の発展
都市化やメディアの発達によって、多くの人々が共通の文化を楽しむ時代が始まります。
これを大衆文化といいます。
それまでの文化は、一部の知識人や上流階級中心のものも多くありました。
しかし大正時代には、一般の人々が新聞・映画・音楽などを楽しむようになり、「大衆の時代」が広がっていったのです。
4.関東大震災
1923年には、関東大震災が発生しました。
大地震によって東京や横浜を中心に大きな被害が出て、多くの人々が亡くなります。
さらに火災も広がり、都市は大きな被害を受けました。
発展していた大都市・東京が大きな打撃を受けたことは、日本社会に大きな衝撃を与えます。
また、震災後には不確かなうわさが広がり、朝鮮人への差別や襲撃事件も起こりました。
関東大震災は、都市化が進む日本社会の弱さや不安も浮き彫りにした出来事だったのです。
まとめ|大正時代とはどんな時代?
大正時代は、第一次世界大戦をきっかけに、日本や世界が大きく変化した時代でした。
日本では、戦争による好景気によって工業や貿易が発展し、都市化や大衆文化も広がっていきます。また、世界ではベルサイユ条約や国際連盟を中心とする新しい国際秩序が作られ、民族自決の考え方も広がっていきました。
国内では、大正デモクラシーの流れの中で、政党政治や民主主義を求める動きが活発になります。第一次護憲運動や原敬内閣、普通選挙法などは、その代表的な出来事です。
さらに、労働運動や女性運動、全国水平社の結成など、人々が平等や権利を求める社会運動も広がっていきました。
その一方で、米騒動や治安維持法、関東大震災など、社会不安や政府による統制強化も見られるようになります。
つまり大正時代は、民主化と大衆化が進んだ時代であると同時に、昭和時代の戦争や統制につながる不安も生まれ始めた時代だったのです。
次の昭和時代では、世界恐慌や軍部の台頭によって、日本は再び大きな戦争への道を進んでいくことになります。

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