飛鳥時代には、聖徳太子の政治、大化の改新、白村江の戦い、壬申の乱、大宝律令など、多くの重要な出来事が登場します。
しかし、これらを単なるバラバラの暗記として覚えてしまうと、入試問題で流れを問われたときに混乱しやすくなります。
実際には、飛鳥時代の出来事は、
- 天皇中心の政治
- 豪族の力をおさえた中央集権化
- 仏教を取り入れた国づくり
- 中国(隋・唐)の制度を学ぶ動き
など、「どのような国を目指したのか」という大きな流れでつながっています。
例えば、聖徳太子は冠位十二階や十七条の憲法によって中央集権化を進め、大化の改新では豪族中心の政治を改めようとしました。
さらに、白村江の戦いで国の危機を経験したことで、防衛や国家制度の整備が急速に進み、壬申の乱を経て天皇中心の政治がさらに強化されていきます。
そして、その集大成として完成したのが701年の大宝律令です。
まずは次の年表図解で、飛鳥時代の大きな流れをつかんでいきましょう。

第1章 聖徳太子の政治と飛鳥時代の始まり
飛鳥時代は、中国や朝鮮半島の進んだ制度や文化を学びながら、天皇中心の中央集権国家を目指し始めた時代です。
この時代の出発点となった人物が聖徳太子でした。
聖徳太子は、推古天皇の摂政として政治を支え、後の大化の改新や大宝律令へとつながる国家づくりの土台を整えていきます。
また、この頃の日本は、中国の隋や唐との交流を通して、政治制度や仏教文化を積極的に学んでいきました。

(1)聖徳太子と推古天皇
593年、聖徳太子は推古(すいこ)天皇の摂政(せっしょう)となりました。
摂政とは、天皇が幼い場合や女性である場合などに、天皇を助けて政治を行う役職のことです。聖徳太子は、推古天皇を支えながら実際の政治を進めました。
当時の日本では、蘇我氏などの豪族が強い力を持っていました。その中で聖徳太子は、豪族中心ではなく、天皇を中心とした政治を進めようとしました。
ここで重要なのは、飛鳥時代の改革は、一度で完成したわけではないということです。
聖徳太子の政治は、後の大化の改新や大宝律令へとつながる「中央集権国家づくり」の始まりでした。
(2)冠位十二階と十七条の憲法
聖徳太子は、天皇中心の政治を進めるため、さまざまな改革を行いました。
603年には冠位十二階を定めました。
これは、家柄ではなく、能力や功績によって役人の地位を決める制度です。
当時は豪族の力が強い時代でしたが、聖徳太子は「能力を重視する政治」を目指しました。
また604年には、十七条の憲法を定めました。
十七条の憲法では、
- 和を大切にすること
- 天皇の命令に従うこと
- 仏教を大切にすること
などが示されました。
なお、十七条の憲法は、現在の憲法のような法律ではなく、役人としての心構えを示したものです。
高校入試では、「十七条の憲法=役人への心構え」という点がよく出題されます。
(3)仏教の広まりと飛鳥文化
飛鳥時代には、仏教が広まりました。
仏教は6世紀ごろ、朝鮮半島の百済から伝わったとされています。
当時は、
- 仏教を広めたい蘇我氏
- 仏教に反対する物部氏
が対立しました。
しかし最終的には蘇我氏が勝利し、日本で仏教が広まっていきます。
聖徳太子も仏教を厚く保護しました。
法隆寺を建てたことでも有名です。
また、この頃の仏教を中心とした文化を飛鳥文化といいます。
飛鳥文化は、日本最初の本格的な仏教文化として重要です。
(4)遣隋使と遣唐使
聖徳太子の時代には、中国との交流も進みました。
607年には、小野妹子を遣隋使として隋に派遣しました。
当時の中国では、隋が強大な国家を築いていました。
日本は、隋の進んだ制度や文化を学び、国づくりに役立てようとしました。
その後、618年に隋が滅び、中国では唐が成立します。
日本は630年から遣唐使を派遣しました。
犬上御田鍬らが唐へ渡り、日本は唐の政治制度や文化、仏教などを学んでいきます。
飛鳥時代の日本は、
- 中国から学ぶ
- 天皇中心の国家を目指す
- 中央集権化を進める
という流れで発展していきます。
後の大化の改新や大宝律令も、この流れの中で理解することが重要です。
第2章 大化の改新と天皇中心の政治
聖徳太子の死後、日本では再び豪族の力が強まっていきました。特に蘇我氏は大きな権力を持ち、天皇をしのぐほどの勢力となります。
しかし、このままでは天皇中心の政治を進めることができません。
そこで行われたのが大化の改新です。
大化の改新は、日本が本格的に中央集権国家を目指す大きな転換点となりました。
また、この改革には、隋や唐で学んだ留学生たちの影響もありました。

(1)蘇我氏の勢力拡大
聖徳太子が亡くなった後、蘇我氏はさらに力を強めました。
特に蘇我蝦夷・蘇我入鹿の親子は強大な権力を持ち、政治をほぼ思い通りに動かしていました。
また、聖徳太子の子孫も滅ぼされるなど、蘇我氏の独裁的な動きが強まっていきます。
こうした状況に危機感を持ったのが、中大兄皇子と中臣鎌足でした。
(2)乙巳の変と大化の改新
645年、中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我入鹿を倒しました。
これを乙巳の変(いっしのへん)といいます。
その後に始まった政治改革が、大化の改新です。
大化の改新では、
- 豪族が支配していた土地や人々を国家のものとする
- 天皇中心の政治を進める
ことが目指されました。
ここで重要なのが、公地公民という考え方です。
それまで豪族が支配していた土地や人々を、国家が管理しようとしました。
(3)隋・唐の制度を学んだ留学生
飛鳥時代の日本は、遣隋使や遣唐使を通して、中国の進んだ制度や文化を学んでいました。
その中には、隋や唐に留学して学問や政治制度を学んだ人々もいました。
彼らは、中国の中央集権的な国家制度を日本にも取り入れようと考えました。
大化の改新が進められた背景には、隋や唐へ渡って中央集権的な政治制度を学んだ留学生たちの影響もありました。
飛鳥時代の国家づくりは、
- 聖徳太子の政治
- 中国から学んだ制度
- 大化の改新
がつながりながら進んでいきました。
第3章 白村江の戦いと壬申の乱
大化の改新の後、日本はさらに中央集権国家づくりを進めていきます。
その流れを大きく変えたのが、白村江の戦いと壬申の乱です。
一見すると、
- 外国との戦争
- 皇族同士の後継者争い
のように見えます。
しかし、どちらも後の律令国家づくりに大きな影響を与えました。
(1)白村江の戦い
当時、朝鮮半島では、
- 百済
- 新羅
- 高句麗
という国々が争っていました。
日本は百済と関係が深く、百済を助けるために軍を送りました。
しかし663年、白村江の戦いで、日本と百済の連合軍は、唐・新羅の連合軍に敗北します。
この敗北は、日本に大きな衝撃を与えました。
当時の日本は、
「唐が攻めてくるかもしれない」
という強い危機感を持つようになります。
そこで、
- 九州に防人を置く
- 水城を築く
など、防衛体制の強化が進められました。
また、「国家としてまとまる必要がある」という意識もさらに強まっていきます。
(2)天智天皇と中央集権化
白村江の戦いの後、中大兄皇子は天智天皇として即位しました。
天智天皇は、中央集権国家づくりをさらに進めていきます。
また、日本で最初の全国的な戸籍である庚午年籍を作り、人々や土地を国家が把握しようとしました。
これは、後の律令にもとづく政治へ向けた大きな一歩でした。
(3)壬申の乱
672年、壬申の乱が起こります。
これは、天智天皇の子である大友皇子と、弟の大海人皇子が争った戦いです。
結果として、大海人皇子が勝利しました。
その後、大海人皇子は天武天皇として即位します。
壬申の乱は、単なる後継者争いではありません。
この戦いの後、大友皇子側についた地方豪族の力が弱まり、勝利した天武天皇のもとに権力が集中していきました。
また、天皇は単なる豪族の代表ではなく、日本を統一する特別な存在として考えられるようになっていきます。
こうした流れの中で、天皇中心の政治がさらに強化され、後の律令国家づくりへとつながっていきました。

(4)天武天皇の政治
天武天皇は、天皇中心の政治をさらに進めました。
- 戸籍の整備
- 豪族の力をおさえる政策
- 軍事力の強化
などを進め、中央集権化を強化していきます。
第4章 大宝律令と律令国家の完成
聖徳太子の時代から続いてきた中央集権国家づくりは、701年の大宝律令によって大きな完成を迎えます。
飛鳥時代は、
- 中国から制度を学ぶ
- 天皇中心の政治を進める
- 豪族の力をおさえる
という流れで進んできました。
そして、その集大成となったのが大宝律令です。
(1)大宝律令とは
701年、刑部親王や藤原不比等らによって、大宝律令が制定されました。
律令とは、次の2つのことです。
- 「律」=刑罰についての決まり
- 「令」=政治の仕組み(行政)についての決まり
日本は、中国の唐にならった制度を取り入れながら、天皇を中心とする国家の仕組みを整えていきました。
大宝律令によって、
- 中央政府の仕組み
- 地方の支配
- 税の制度
- 戸籍制度
などが整えられ、本格的な律令国家が作られていきます。
(2)律令国家を支えた班田収授法と税の仕組み
律令国家では、天皇を中心とした政治を行うために、人々や土地を国家が直接管理する仕組みが整えられていきました。
その代表的な制度が、班田収授の法です。
班田収授法では、戸籍にもとづいて人々に口分田を与え、死後には国へ返させました。この制度によって、国家は土地と人々を把握し、安定して税を集めようとしたのです。
また、人々には税や労役の負担も課されました。
代表的な税には、租・庸・調があります。
さらに、雑徭・衛士・防人などの労役や兵役もあり、農民には大きな負担となっていきました。
高校入試では、「班田収授の法」「租・庸・調」「衛士・防人」などは非常によく出題される重要語句です。
まずは、次の図解で全体の流れと農民の負担を整理しておきましょう。

大宝律令の完成は飛鳥時代終盤の出来事であり、飛鳥時代に整えられた律令国家や税制度の影響が、奈良時代の農民生活にも大きく現れていきました。
この農民負担や租庸調の詳しい内容については、次の奈良時代の記事でくわしく解説しています。

(3)貨幣の鋳造
飛鳥時代の終わりごろには、貨幣づくりも進められました。
7世紀後半には、富本銭が作られたと考えられています。
また708年には、和同開珎の鋳造が始まりました。
和同開珎は、日本で本格的に広く使われた貨幣として有名です。
貨幣の鋳造も、国家の力を強める大切な取り組みの一つでした。
第5章 飛鳥時代まとめ|律令国家への道
飛鳥時代は、豪族が強い政治から、天皇を中心とする律令国家へ変化していった時代でした。
この時代には、聖徳太子の政治、大化の改新、白村江の戦い、壬申の乱など、多くの重要な出来事が続きます。これらはバラバラの事件ではなく、すべて「中央集権国家づくり」という流れにつながっています。
また、中国の隋や唐の制度や文化の影響を受けながら、日本独自の国家体制が整えられていったことも大きな特徴です。
そして701年、大宝律令が完成したことで、日本は律令国家としての仕組みをほぼ整えることになりました。
1.飛鳥時代の流れを整理しよう
聖徳太子の政治
↓
天皇中心の政治を目指す
大化の改新
↓
豪族中心の政治を改める
白村江の戦い
↓
唐・新羅に敗れ、防衛や国家体制の強化を進める
壬申の乱
↓
天皇中心の政治がさらに強まる
大宝律令
↓
律令国家の仕組みが完成する
2.飛鳥時代の重要ポイント
- 仏教が広まり、飛鳥文化が発展した
- 隋や唐の制度を取り入れて国家づくりを進めた
- 豪族中心の政治から天皇中心の政治へ変化した
- 律令国家完成への流れがつくられた
3.飛鳥時代は「律令国家への準備の時代」
飛鳥時代は、まだ律令国家が完全に完成していた時代ではありません。
しかし、
- 冠位十二階
- 十七条の憲法
- 大化の改新
- 戸籍づくり
- 班田収授法
- 大宝律令
などを通して、少しずつ国家の仕組みが整えられていきました。
そのため飛鳥時代は、「日本が本格的な国家へ変化していく始まりの時代」として非常に重要です。

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