室町時代は、足利尊氏が室町幕府を開いてから、戦国時代へ向かっていくまでの時代です。
中学歴史では、足利義満の勘合貿易、金閣や銀閣、応仁の乱など、多くの重要事項を学びます。しかし室町時代は、単なる用語暗記だけでは流れが見えにくい時代でもあります。
例えば、
「なぜ幕府は弱くなったのか?」
「なぜ応仁の乱から戦国時代へ向かったのか?」
「なぜ民衆が一揆を起こすようになったのか?」
など、社会全体の変化を理解することが重要です。
鎌倉時代は、「武士の時代の始まり」といえる時代でした。
一方、室町時代では、商業や貨幣経済が発達し、農民や商人たちも力を持ち始めます。惣村による自治や一揆など、「民衆が社会を動かし始める動き」が広がっていったのです。
つまり室町時代は、「武士だけの社会」から、「社会全体が大きく動き始める社会」へ変化していく時代だったといえます。
また、文化の面でも、金閣に代表される北山文化や、銀閣・書院造につながる東山文化など、日本らしい文化が大きく発展しました。
そして後半には応仁の乱が起こり、日本は戦国時代へ向かっていきます。
つまり室町時代は、鎌倉時代と戦国時代をつなぐ「橋渡し」の時代でもあるのです。
この記事では、室町幕府の成立から、守護大名の成長、民衆や商業の発展、北山文化・東山文化、そして応仁の乱までの流れを整理していきます。
また、「なぜ戦国時代へ向かっていったのか」という視点も重視しながら、室町時代の変化をわかりやすく見ていきましょう。
第1章 室町幕府の成立と南北朝の動乱
鎌倉幕府が滅亡したあと、日本はすぐに安定したわけではありませんでした。
後醍醐天皇は、武士ではなく天皇中心の政治を目指しましたが、多くの武士たちはその政治に不満を持つようになります。そして、その不満の中心となったのが足利尊氏でした。
やがて日本は「南朝」と「北朝」に分かれ、全国で争いが続く不安定な時代へ入っていきます。
室町時代を理解するためには、
- なぜ鎌倉幕府が滅びたのか
- なぜ武士が後醍醐天皇から離れたのか
- なぜ天皇が2人に分かれたのか
という流れをつかむことが重要です。
ここでは、室町幕府成立までの流れを整理していきましょう。
1.鎌倉幕府滅亡と建武の新政
鎌倉幕府は、元寇後の御恩不足などによって武士たちの不満が高まり、しだいに弱体化していきました。
そこへ登場したのが後醍醐天皇です。
後醍醐天皇は、武士ではなく天皇中心の政治を取り戻そうと考え、鎌倉幕府を倒そうとしました。
最初は失敗して隠岐に流されますが、その後ふたたび挙兵します。
このとき協力したのが、次の武士たちでした。
- 畿内で活動していた悪党のリーダー・楠木正成
- 鎌倉を攻め落とした新田義貞
- 京都の六波羅探題を攻略した足利尊氏
幕府は、各地での反乱や有力武士たちの離反によって急速に力を失っていきます。
こうして1333年、鎌倉幕府は滅亡します。
幕府を倒した後、後醍醐天皇は「天皇中心の政治を取り戻そう」と考えました。
そして、武士ではなく朝廷が政治を行う新しい時代を目指します。
後醍醐天皇は、新しい政治を始めました。
これを「建武の新政」といいます。
しかし、建武の新政には大きな問題がありました。
後醍醐天皇は公家中心の政治を進めたため、多くの武士たちは不満を持つようになったのです。
特に不満が大きかったのが、次の3点です。
- 戦った武士への恩賞不足
- 土地配分への不満
- 武士より公家を重視したこと
鎌倉幕府を倒した中心は武士だったため、「自分たちが活躍したのに報われない」という空気が強まっていったのです。
2.足利尊氏と室町幕府の成立
こうした不満を背景に、後醍醐天皇から離れていったのが足利尊氏です。
足利尊氏はもともと後醍醐天皇側として戦っていましたが、やがて対立し、武士の支持を集めながら独自の政権を作っていきます。
そして1336年、足利尊氏は京都に新しい天皇を立てました。これが「北朝」です。
一方、後醍醐天皇は京都を離れ、奈良県の吉野へ移りました。こちらを「南朝」といいます。
こうして、日本には2人の天皇が存在する異常な状態になりました。
さらに足利尊氏は、1338年に征夷大将軍となり、京都の室町に幕府を開きます。
これが室町幕府です。
鎌倉幕府との大きな違いは、政治の中心が再び京都へ戻ったことです。
ただし、室町幕府は鎌倉幕府ほど強力ではありませんでした。
地方支配では守護に頼る部分が大きく、後の不安定さにもつながっていきます。
【問題】
次のできごとを年代順に正しく並べ替えなさい。
①後醍醐天皇が吉野に逃れる
②後醍醐天皇が隠岐に流される
③鎌倉幕府が滅亡する
④建武の新政がはじまる
⑤足利尊氏が征夷大将軍になる
⑥足利尊氏が六波羅探題を攻略する
【解答】
② → ⑥ → ③ → ④ → ① → ⑤
3.南北朝の争い
室町幕府成立後も、日本はすぐには統一されませんでした。
南朝と北朝は、それぞれ自分こそ正統な天皇だと主張し、全国の武士たちも分かれて争ったのです。
この時代を「南北朝時代」といいます。
南朝は吉野を中心に勢力を広げ、北朝は室町幕府の支援を受けながら京都を支配しました。
特に南朝側では、楠木正成などが有名です。
しかし、しだいに北朝と室町幕府側が優勢になっていきます。
そして3代将軍・足利義満の時代、1392年に南北朝は統一されました。
これによって室町幕府はようやく安定へ向かい始めます。
足利義満は、室町幕府の最盛期を作った将軍として非常に重要です。
このあと、
- 南北朝の統一
- 日明貿易
- 北山文化
などを進め、幕府の力を強めていくことになります。
一方で、地方では守護大名も力をつけ始めており、これが後の戦国時代へつながっていくことになります。
南北朝時代では、
- 京都の「北朝」
- 吉野の「南朝」
という2つの朝廷が存在しました。
これは、足利尊氏が新しい天皇を立てたことによって起こったものです。
当時は、「どちらが本当の天皇なのか」が大問題でした。
現在の歴史では、三種の神器を持っていた南朝が正統とされています。
ただし、中学歴史では、
- 北朝=室町幕府側
- 南朝=後醍醐天皇側
という流れをまず整理することが重要です。
また、「南朝が正統」という知識は難関高校では問われることがあります。
第2章 室町幕府の政治と守護大名
室町幕府は、鎌倉幕府と同じ武士の政権でしたが、その仕組みには大きな違いがありました。
鎌倉幕府では、御家人との「御恩と奉公」の関係によって将軍が武士をまとめていました。しかし、室町幕府では地方支配を「守護」に強く頼るようになります。
そして、この守護たちがしだいに大きな力を持ち、「守護大名」へ成長していきました。
1.室町幕府の仕組み
室町幕府では、征夷大将軍を中心に政治が行われました。
ただし、鎌倉幕府と比べると、将軍の力だけで全国を支配するのは難しく、地方の守護たちの協力が欠かせませんでした。
幕府の政治を補佐したのが「管領(かんれい)」です。
管領は、将軍を助ける重要な役職で、有力な守護大名が交代で務めました。
また、幕府には武士を取り締まる「侍所」なども置かれました。
室町幕府の特徴は、京都を中心に政治が行われたことです。
鎌倉幕府は東国武士の政権という性格が強かったのに対し、室町幕府は京都の公家文化とも結びつきながら発展していきました。
そのため、後の北山文化や東山文化にもつながっていきます。
2.守護大名の成長
室町時代で特に重要なのが「守護大名」です。
もともと守護は、鎌倉時代に各地へ置かれた軍事・警察の役職でした。
しかし室町時代になると、守護はしだいに土地や武士を直接支配するようになり、大きな権力を持つようになります。
こうして成長した守護を「守護大名」といいます。
守護大名が力を強めるきっかけとなったのが「半済令」です。
半済令とは、戦費を集めるために、荘園などの年貢の半分を守護が取ることを認めた命令です。
これによって守護は経済力を持ち、地方支配を強めていきました。
やがて守護大名は、軍事・経済・政治をまとめて支配する大きな権力を持つようになっていきます。
しかし、その一方で幕府は守護大名に頼りすぎることになり、将軍の力はしだいに弱まっていきました。
ここが、室町幕府の大きな弱点でもあります。
第3章 民衆の成長と商業の発達
室町時代には、将軍や守護大名だけでなく、農民や商人たちも力を持つようになっていきました。
農業や商業が発達し、人や物、お金の動きが活発になったことで、人々はしだいに団結し、自分たちの力で村や町を守ろうとするようになります。
また、このころは自治の動きも広がり、農民たちが自分たちで村を運営するようになっていきました。
こうした民衆の成長は、後の戦国時代にも大きな影響を与えていきます。
ここでは、室町時代の人々の暮らしや商業の発達を整理していきましょう。
1.商業の発達と貨幣経済
室町時代には商業が大きく発展しました。
定期的に開かれる市が増え、人や物の移動が活発になります。
また、問(とい)と呼ばれる運送業者や倉庫業者も活躍するようになりました。
さらに、運送を行う馬借(ばしゃく)も重要な存在になります。
特に近江(現在の滋賀県)では馬借が活発に活動していました。
このころは、中国から輸入された明銭が広く使われるようになります。
それまでの日本では貨幣が不足していましたが、明銭の流通によって貨幣経済が発達していきました。
また、商工業者の組合である座も広がります。
座は寺社や貴族の保護を受けながら、独占的に商売を行っていました。
さらに、お金を貸す土倉・酒屋も力を持つようになります。
土倉は金融業者であり、酒屋は酒造だけでなく金融も行っていました。
室町時代は、商業とお金の力が大きく成長した時代だったのです。
2.惣村と自治の広がり
農民たちも、しだいに団結するようになります。
このころ各地で作られたのが惣村(そうそん)です。
惣村では、村人たちが協力しながら村を運営しました。
重要なことは寄合(よりあい)で話し合って決めます。
寄合とは、村人たちによる会議のことです。
こうした仕組みを自治といいます。
つまり、領主にすべてを任せるのではなく、自分たちで村をまとめようとしたのです。
惣村では、
- 用水の管理
- 年貢の分担
- 村のルール
なども話し合いによって決められました。
農民たちは、単に支配されるだけでなく、自分たちで村を守る力を持ち始めていたのです。
3.土一揆と民衆の団結
室町時代には、農民や商人たちが団結して行動することも増えていきました。
代表的なのが土一揆です。
土一揆とは、借金の帳消しなどを求めて起こした集団行動のことです。
特に有名なのが正長の土一揆です。
これは1428年に起こった、日本最初の大規模な土一揆とされています。
人々は、
- 借金の取り消し
- 徳政令の要求
などを求めて行動しました。
また、馬借なども土一揆に参加することがありました。
つまり、室町時代には民衆が団結して政治や社会へ影響を与えるようになっていたのです。
4.一向一揆と国人たちの戦い
室町時代後半になると、さらに大規模な団結も生まれます。
その代表が山城の国一揆です。
山城の国一揆では、国人や農民たちが団結し、守護大名を追い出しました。
これは自治の動きが大きく発展した例として重要です。
さらに有名なのが加賀の一向一揆です。
一向一揆は、浄土真宗の信者たちを中心に起こった団結です。
加賀では、一向一揆によって守護大名が倒され、その後長い間、一向宗の勢力が支配する状態が続きました。
このため加賀は百姓の持ちたる国とも呼ばれます。
室町時代後半には、守護大名・国人・農民・宗教勢力など、多くの人々が力を持つようになっていったのです。

室町時代は、惣村・土一揆・座・土倉・馬借など、覚える用語が多く、「なんとなくバラバラで退屈な時代」に感じやすい単元です。
しかし、実は室町時代には、大きな社会の変化がありました。
それは、「武士だけの時代」から、「民衆も力を持ち始める時代」へ変わっていったことです。
鎌倉時代は、源頼朝が幕府を開き、「武士の時代」が始まった時代でした。
一方で、その鎌倉時代の中では、人々の生活や経済も少しずつ変化していきます。
例えば、中国から宋銭が大量に入ってきたことで、貨幣経済が発達し、商業が成長しました。
すると、
- 問(運送・倉庫)
- 馬借(運送業)
- 土倉・酒屋(金融業)
などが活躍するようになります。
また、二毛作や農業技術の進歩によって農業の生産力も上がり、農民たちは以前より経済力を持つようになりました。
それまでの時代、農民や民衆は、重い税や労働に苦しみながらも、政治へ大きな影響を与えることは難しい存在でした。
しかし室町時代になると、人々はしだいに団結し、「自分たちの村は自分たちで守ろうと考えるようになります。
こうして生まれたのが「惣村」です。
惣村では、寄合によって話し合いを行い、村のルールを自分たちで決めました。
これは「自治」の始まりともいえる重要な動きです。
さらに人々は、
- 土一揆
- 山城の国一揆
- 一向一揆
などを起こし、団結して社会へ要求をぶつけるようになります。
つまり室町時代は、「支配されるだけだった民衆」が、少しずつ自分たちの力で社会を動かし始めた時代だったのです。
この流れは、後の戦国時代にもつながっていきます。
戦国時代の「下剋上」も、「家柄だけではなく、力を持った者が上へ進む」という社会の変化の一部でした。
そのため室町時代は、単なる「将軍が弱くなった時代」ではなく、「社会全体が大きく変わり始めた時代」として理解することが重要です。
第4章 日明貿易と東アジアとの交流
室町時代には、日本と外国との交流が活発になりました。
特に重要なのが、中国の「明」と行った貿易です。
室町幕府3代将軍・足利義満は、明との正式な貿易を始め、幕府の財政を支えるとともに、日本へさまざまな文化や商品をもたらしました。
また、この時代には朝鮮や琉球との交流も進み、日本は東アジアの国々と深くつながっていきます。
ここでは、室町時代の外交と貿易の流れを整理していきましょう。
1.足利義満と日明貿易
室町幕府3代将軍・足利義満は、南北朝統一を進めただけでなく、中国との貿易にも力を入れました。
当時、中国では明が成立していました。
しかし、明は日本との正式な貿易をすぐには認めませんでした。
その理由のひとつが倭寇(わこう)です。
倭寇とは、日本や中国沿岸で活動していた海賊集団のことです。
明は、海賊と正式な貿易船を区別したいと考えていました。
そこで始まったのが日明貿易(勘合貿易)です。
勘合貿易では、勘合と呼ばれる札を使って正式な船であることを証明しました。
これによって、正式な貿易船と倭寇を区別できるようになったのです。
足利義満は、明との貿易によって大きな利益を得ました。
また、中国との交流を通じて文化も発展していきます。
室町時代には、足利義満が明と勘合貿易(日明貿易)を行いました。
しかし、日本と中国との貿易は、室町時代に突然始まったわけではありません。
その前の平安時代末期から鎌倉時代にかけて、日本は中国の「宋」と活発に貿易を行っていました。
そして、この宋との貿易は、日本の経済を大きく変えるきっかけになります。
平安時代の終わりごろ、平清盛は宋との貿易を積極的に進めました。
このとき日本に大量に入ってきたのが、宋銭(そうせん)です。
当時の日本では、まだ米や布などによるやり取りも多く、現在のように「お金で何でも買う社会」ではありませんでした。
つまり、物々交換的な経済の色合いがまだ強かったのです。
また、日本でも和同開珎(わどうかいちん)などの貨幣は作られていましたが、全国に広く普及したとは言えませんでした。
しかし、宋銭が大量に入ってくると、人々はしだいにお金を使って売買するようになります。
鎌倉時代には、
- 定期市
- 問丸(運送・倉庫業者)
- 商業の発展
などが進み、宋銭は全国へ広がっていきました。
つまり、日本は「物々交換中心の社会」から、「お金を使う社会」へ大きく変化していったのです。
宋との貿易は、日本の貨幣経済の発展に非常に大きな影響を与えました。
その後、中国では「宋」に代わって「明」が成立します。
室町時代になると、足利義満は明と勘合貿易を始めました。
この頃には、すでに日本では貨幣経済や商業がかなり発達していました。
そのため、
- 宋との貿易 → 日本に貨幣経済を広げた
- 明との貿易 → 発達した商業をさらに支えた
という違いがあります。
中国との貿易は、日本の経済の成長を長い時間をかけて支えていたのです。
流れを説明しましたが、試験の出るポイントとしては、次のものを押さえましょう。
平安時代末期
【平清盛・日宋貿易】
- 平清盛が宋と積極的に貿易
- 大輪田泊を整備
- 宋銭が大量に入ってくるきっかけ
鎌倉時代
【宋銭と貨幣経済の発展】
- 宋銭が全国へ広がる
- 定期市・問丸・商業が発展
- 日本が「お金を使う社会」へ変化
※ここは「宋銭=貨幣経済の発展」が超重要
室町時代
【勘合貿易(日明貿易)】
- 足利義満が明と貿易
- 倭寇対策として勘合を使用
- 明銭も流入
- 発達した商業をさらに支える
超重要な流れ
日宋貿易
→ 宋銭が広がる
→ 貨幣経済が発展
→ 室町時代の日明貿易へ
この流れを理解すると、歴史が「つながって」見えやすくなります。
2.輸出品と輸入品
日明貿易では、日本からさまざまな品物が輸出されました。
代表的なのが、
- 銅
- 刀
- 硫黄
などです。
一方、中国からは、
- 生糸
- 絹織物
- 明銭
などが輸入されました。
特に重要なのが明銭です。
当時の日本では貨幣が不足していたため、中国の銅銭である明銭が広く使われるようになりました。
商業の発達とも深く関係しており、高校入試でもよく出題されます。
また、中国から入ってきた文化は、後の室町文化にも大きな影響を与えました。
3.朝鮮や琉球との交流
室町時代には、中国だけでなく朝鮮との交流も行われました。
朝鮮では李氏朝鮮が成立し、日本との外交が進められます。
特に有名なのが通信使です。
通信使とは、朝鮮から日本へ送られた使節のことです。
また、南西諸島では琉球王国が発展しました。
琉球王国は、中国・日本・東南アジアを結ぶ中継貿易で栄えます。
つまり室町時代は、日本が東アジア全体とのつながりを強めていった時代でもあったのです。
4.なぜ室町時代に貿易が発展したのか
室町時代に貿易が発展した背景には、幕府の財政問題があります。
室町幕府は、鎌倉幕府ほど強い支配力を持っていなかったため、安定した収入が必要でした。
そこで足利義満は、明との貿易を積極的に進めます。
さらに、
- 商業の発達
- 都市の成長
- 明銭の流通
などによって、人々の経済活動も活発になっていきました。
この流れは、後の戦国時代の経済発展にもつながっていきます。
明は、海賊である倭寇に苦しんでいました。
そのため、「本当に日本の正式な貿易船なのか」を確認する必要があったのです。
そこで使われたのが「勘合」です。
勘合は割り札のようなもので、明と日本が半分ずつ持っていました。
形が一致すれば正式な船だと確認できたのです。
つまり、「勘合=正式な貿易許可証」のような役割を持っていました。
高校入試では、
- 勘合貿易
- 足利義満
- 倭寇対策
をセットで問われることが非常に多いです。
第5章 北山文化と東山文化
室町時代は、戦乱のイメージが強い時代ですが、一方で日本文化が大きく発展した時代でもあります。
特に重要なのが、足利義満の「北山文化」と足利義政の「東山文化」です。
この2つは高校入試でも頻出ですが、「金閣と銀閣しか覚えていない」という状態になりやすい単元でもあります。
実際には、次のような流れで理解することが重要です。
- どんな文化だったのか
- なぜ生まれたのか
- 何が違うのか
ここでは、室町文化の特徴を整理していきましょう。
1.北山文化と足利義満
室町幕府3代将軍・足利義満の時代には、北山文化が栄えました。
北山文化の特徴は、公家文化と武家文化、中国文化が結びついた豪華な文化であることです。
その象徴が金閣です。
正式名称は鹿苑寺ですが、金箔で覆われた豪華な建物であるため、金閣と呼ばれています。
足利義満は日明貿易を進め、中国(明)との交流を活発にしました。そのため、北山文化には中国文化の影響も強く見られます。
また、このころは室町幕府の力が比較的安定していた時期でもありました。そのため、将軍中心の華やかな文化が発展したのです。

2.東山文化と足利義政
8代将軍・足利義政の時代には、東山文化が発展しました。
東山文化の象徴が銀閣です。
正式名称は慈照寺ですが、一般には銀閣として知られています。
ただし、銀閣には実際には銀箔は貼られていません。
ここは高校入試でもよく問われます。
東山文化の特徴は、北山文化のような豪華さではなく、落ち着いた美しさを重視したことです。
このころ広まったのが、わび・さびの感覚です。
派手さよりも、静かで質素な美しさを大切にする考え方で、日本文化に大きな影響を与えました。
また、東山文化では、次のような後の日本文化につながるものが多く発展しました。
- 書院造
- 茶の湯
- 生け花

3.室町文化の広がり
室町時代には、さまざまな文化が発展しました。
特に有名なのが能です。
能は観阿弥・世阿弥親子によって大成された芸能で、現在も伝統芸能として受け継がれています。
また、中国の影響を受けた水墨画も広がりました。
墨の濃淡だけで描く絵画で、雪舟が有名です。
さらに、
- 茶の湯
- 生け花
- 庭園文化
なども発展し、日本独自の美意識が形作られていきました。
室町文化は、単なる武士文化ではなく、公家文化や中国文化、そして庶民文化まで混ざり合っていたことが特徴です。
4.庶民文化の成長
室町時代には、庶民文化も広がっていきました。
農業や商業が発達したことで、人々の生活にも余裕が生まれ始めたのです。
このころ人気だったのが連歌やお伽草子です。
お伽草子には、現在の昔話につながる『桃太郎』や『一寸法師』などの作品も多く含まれています。
また、都市では商人たちも力を持つようになり、後の町衆文化の土台も作られていきました。
つまり室町時代は、武士・公家・商人・農民など、さまざまな人々の文化が混ざり合った時代だったのです。

第6章 戦国時代への橋渡し
室町時代後半になると、幕府の力はしだいに弱まり、日本は戦国時代へ向かっていきます。
しかし、戦国時代への変化は、単に「将軍が弱くなった」というだけではありません。
応仁の乱によって政治が乱れる一方で、
- 戦国大名の成長
- 商業の発展
- 都市の発達
- 下剋上
など、社会全体が大きく変化していました。
ここでは、室町時代から戦国時代へどのようにつながっていったのかを整理していきましょう。
1.応仁の乱と幕府の弱体化
1467年、室町幕府で応仁の乱が始まります。
もともとは将軍の後継争いでしたが、細川氏と山名氏を中心に全国の守護大名たちが争いへ巻き込まれました。
戦乱は約10年にもわたって続き、京都の町は大きく破壊されます。
しかし、この戦いには明確な勝者がほとんどなく、結果として室町幕府の力だけが弱まってしまいました。
すると各地の守護大名たちは、幕府の命令よりも、自分たちの利益を優先するようになっていきます。
こうして、日本は戦国時代へ向かい始めるのです。
2.戦国大名と分国法
応仁の乱後、各地では戦国大名が力を持つようになります。
戦国大名は、守護大名よりもさらに強い支配力を持ち、自分の領国を直接支配しようとしました。
そのため、戦国大名たちは分国法と呼ばれる独自の法律を定めます。
分国法には、
- 家臣への命令
- 土地争いの解決
- 犯罪の取り締まり
などが書かれていました。
これは、幕府ではなく、自分たちで国を治めるという考えが強まったことを表しています。
つまり戦国時代は、全国統一された時代ではなく、各地の大名が独立して争う時代だったのです。
中学歴史では、守護大名や戦国大名という言葉が出てきます。
どちらも「大名」なので、違いが分かりにくいところです。
しかし、この2つには大きな違いがあります。
守護大名は、もともと室町幕府から任命された「守護」が成長した存在です。
つまり、「幕府の力を背景に地方を支配する大名」でした。
室町幕府は全国を直接支配する力が弱かったため、各地の守護大名に頼りながら政治を行っていたのです。
一方、戦国大名は、「自分の実力で領国を支配する大名」です。
応仁の乱によって幕府が弱まると、各地の大名たちは、「幕府の命令」よりも、「自分の領国を守ること」を優先するようになります。
その結果、
- 分国法を作る
- 家臣を直接支配する
- 城や城下町を整備する
など、自分の国を独立した国のように治める戦国大名が現れていきました。
ただし、守護大名と戦国大名は「完全に別の存在」というわけではありません。
守護大名がそのまま戦国大名へ変化する場合もあります。
一方で、家臣が主君を倒して戦国大名になることもありました。
これが「下剋上」です。
つまり、
守護大名
→ 幕府の力を背景に支配
戦国大名
→ 自分の実力で支配
という違いがあるのです。
3.町の発展と商業の成長
室町時代後半には、商業もさらに発達しました。
すると、人々や物が集まる町が次の通り各地に発展していきます。
- 城を中心に発展した「城下町」
- 港を中心に栄えた「港町」
- 寺社の周辺に発展した「門前町」
また、浄土真宗の寺院を中心に発展した「寺内町」も重要です。
寺内町では、商人や民衆が集まり、自治的な運営が行われることもありました。
このころには、商人や民衆も社会を動かす重要な存在になっていたのです。
4.下剋上と実力の時代
戦国時代へ向かう中で、社会の考え方も変わっていきます。
それまでの社会では、家柄や身分が重視されていました。
しかし戦国時代には、実力がある者が上へ進むという考えが強まります。
これを下剋上といいます。
下剋上によって、
- 家臣が主君を倒す
- 守護代が守護を追い出す
- 実力ある武将が大名になる
などの変化が起こりました。
つまり、日本は「幕府中心の時代」から、「実力で生き残る時代」へ変わっていったのです。
5.室町時代から戦国時代へ
鎌倉時代は、武士の時代の始まりといえる時代でした。
一方、室町時代では、商業の発展・貨幣経済の成長・都市の発達・民衆の自治などによって、社会全体が大きく動き始めます。
実はその土台には、鎌倉時代に広まった宋銭・二毛作・商業の発展などがありました。
つまり、鎌倉時代の武士が政治の中心になる時代から、室町時代の民衆や商人も力を持ち始める時代という大きな変化が起きていたのです。
そして、この流れが、戦国大名・下剋上・戦国時代へとつながっていきました。
第7章 室町幕府の滅亡と戦国時代へ
応仁の乱によって始まった戦国時代は、長い戦乱の時代となりました。
室町幕府の力はしだいに弱まり、各地では戦国大名たちが実力で領国を支配するようになります。
そして最後には、織田信長が勢力を広げ、室町幕府そのものを終わらせることになります。
この章では、室町幕府がどのように滅亡したのか流れを見ていきましょう。
1.幕府の力の低下
応仁の乱のあと、室町幕府の力は急速に弱まっていきました。
各地では戦国大名が自分の領国を支配し、将軍の命令が全国に届かなくなっていきます。
2.足利義昭と織田信長
15代将軍足利義昭は、織田信長の助けを受けて京都に入り、将軍となりました。
しかし、その後対立し、1573年に信長によって京都から追放されます。
これによって、約240年続いた室町幕府は滅亡しました。
第8章 室町時代まとめ
室町時代は、足利尊氏が室町幕府を開いてから、応仁の乱を経て戦国時代へ向かっていく時代でした。
この時代には、
- 守護大名の成長
- 商業や貨幣経済の発展
- 惣村による自治
- 土一揆や一向一揆
- 北山文化・東山文化
など、社会全体に大きな変化が起こります。
また、応仁の乱によって室町幕府の力が弱まると、各地では戦国大名が力を持つようになり、日本は戦国時代へ向かっていきました。
鎌倉時代が「武士の時代の始まり」だとすれば、室町時代は「民衆や商人も力を持ち始めた時代」といえます。
そのため室町時代は、鎌倉時代と戦国時代をつなぐ「変化の時代」として理解することが重要です。

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