平安時代は、794年の平安京遷都から始まり、1185年に平氏が滅びるまで続いた長い時代です。
この時代は、単に貴族が活躍した時代ではありません。
最初は、桓武天皇が新しい都を作り、天皇中心の政治を立て直そうとしました。その後、藤原氏による摂関政治が発展し、華やかな貴族文化が栄えていきます。さらに後半になると、地方で武士が成長し、やがて平氏が政治の中心へ進出していきました。
つまり平安時代は、
- 天皇(朝廷)の時代
- 貴族(藤原氏)の時代
- 武士(平氏・源氏)の時代
へと、時代の中心が移り変わっていく時代だったのです。
また、文化の面でも大きな変化がありました。
奈良時代までは中国の文化を積極的に取り入れていましたが、平安時代にはかな文字や『源氏物語』など、日本独自の国風文化が発展していきます。
平安時代は内容が多く、出来事も複雑に見えます。しかし、「政治の中心がどう変化したか」という流れをつかむと、全体像が理解しやすくなります。

まずは、上の図解で平安時代全体の流れを確認してから、それぞれの内容を詳しく見ていきましょう。
第1章 桓武天皇の政治と平安京遷都
奈良時代の後半になると、寺院や僧侶が政治に強い影響を持つようになっていました。特に奈良の大寺院は大きな力を持ち、朝廷の政治にも深く関わるようになります。
そこで桓武天皇は、新しい政治を進めるため、都を奈良から移すことを決めました。こうして794年に平安京遷都が行われ、平安時代が始まります。
また、桓武天皇は都を移しただけでなく、東北地方の支配を進めたり、乱れ始めていた律令政治を立て直そうとしたりしました。つまり平安時代の始まりは、「新しい国家を作り直そうとした時代のスタート」でもあったのです。
1.平安京遷都
794年、桓武天皇は都を平安京へ移しました。
その前には一度、長岡京へ都を移していましたが、最終的に現在の京都付近に平安京を建設します。
平安京へ遷都した大きな理由の一つは、奈良の仏教勢力から距離を置くためでした。
奈良時代には、東大寺などの大寺院が大きな力を持ち、政治にも強い影響を与えていました。桓武天皇は、こうした状況を改め、天皇中心の政治を立て直そうと考えたのです。
また、平安京は中国の都にならった計画的な都市であり、碁盤の目のように道路が整備されていました。
この平安京は、その後1000年以上にわたって日本の都として栄えることになります。
【重要記述問題】
問題 桓武天皇が遷都した理由を述べなさい。
解答 仏教勢力の政治介入を避けるため。
2.坂上田村麻呂と蝦夷討伐
桓武天皇は、東北地方の支配も進めました。
当時、東北地方には朝廷に従わない蝦夷(えみし)と呼ばれる人々が暮らしていました。朝廷は東北地方を支配するために軍を送り、その中心となった人物が坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)です。
坂上田村麻呂は、征夷大将軍に任命され、蝦夷との戦いを進めました。
征夷大将軍とは、「蝦夷を征討するための将軍」という意味です。
このころの朝廷は、全国を天皇中心の国家としてまとめようとしており、東北地方の支配もその一つでした。
3.律令政治の立て直し
奈良時代に完成した律令国家ですが、平安時代に入るころには少しずつ問題も見え始めていました。
特に班田収授法は、戸籍の管理や土地の配分が難しくなり、しだいに制度が乱れていきます。
また、税の負担から逃れるために戸籍をごまかす人も増えていました。
桓武天皇は、こうした律令政治を立て直そうとしましたが、完全に元へ戻すことはできませんでした。
その後、地方では荘園が増え、貴族や武士が力を持つようになっていきます。
つまり、平安時代の始まりは、律令国家が変化し始めた時代でもあったのです。
第2章 新しい仏教の広まり
平安時代になると、仏教にも大きな変化が起こりました。
奈良時代の仏教は、国家を守るために朝廷が保護する色合いが強く、大きな寺院が政治にも深く関わっていました。しかし桓武天皇は、奈良の仏教勢力が強くなりすぎることを警戒していました。
そこで平安時代には、新しい仏教が広まっていきます。その中心となったのが、最澄と空海です。
このころ広まった仏教は、加持祈とうなどを重視する密教の影響を受けており、山の中で厳しい修行を行うことも特徴でした。
こうした新しい仏教は、のちの日本文化にも大きな影響を与えることになります。
1.最澄と天台宗
最澄は、中国の唐へ渡って仏教を学び、日本に帰国したあと、天台宗を広めました。
天台宗では、「すべての人が仏になれる」という考え方を重視していました。
最澄は、現在の滋賀県にある比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)を建て、そこで修行を行いました。
延暦寺は、その後の日本仏教にも大きな影響を与え、多くの僧を育てる寺院となります。
また、比叡山は都から少し離れた山の上にあり、奈良の大寺院とは異なる新しい仏教の形を示していました。
2.空海と真言宗
空海も唐へ渡って仏教を学び、日本で真言宗を広めました。
真言宗では、加持祈とうなどの神秘的な儀式を重視していました。
空海は、高野山(こうやさん)に金剛峯寺(こんごうぶじ)を開き、修行の場としました。
また、空海は仏教だけでなく、書や土木事業などにも優れた人物として知られています。
最澄と空海は、どちらも遣唐使とともに唐へ渡って学んだ人物であり、平安時代の新しい文化や宗教を支える存在となりました。
第3章 摂関政治と藤原氏
平安時代中ごろになると、天皇を支える立場だった藤原氏が大きな力を持つようになります。
藤原氏は、娘を天皇の后にして天皇家との結びつきを強め、幼い天皇の代わりに政治を行うようになりました。こうして発展したのが、摂関政治(せっかんせいじ)です。
この時代は、貴族たちが政治や文化の中心となった時代でもありました。特に藤原氏が最も栄えたころには、華やかな貴族文化が発展していきます。
1.摂政と関白
藤原氏は、天皇との結びつきを利用して政治の実権を握っていきました。
幼い天皇の代わりに政治を行う役職を摂政、成人した天皇を補佐する役職を関白といいます。
藤原氏は、代々この役職につくことで権力を強めました。
このように、藤原氏が摂政や関白として行った政治を摂関政治(せっかんせいじ)といいます。
平安時代の政治は、天皇中心でありながら、実際には藤原氏が大きな力を持っていたことが特徴です。
【重要記述問題】
問題 藤原氏はどのようにして権力を握ったか簡単に説明しなさい。
解答 娘を天皇の后(きさき)にして、生まれた子を天皇にすることで、その天皇が幼少のときは摂政、成人してからは関白として権力を握った。
※ 平清盛も、娘を天皇の后にして、生まれた子を天皇にすることで権力を強めた点は、藤原氏と共通しています。ただし、清盛は摂政・関白にはならず、武士として初めて太政大臣となって政治の実権を握りました。
2.藤原道長と藤原頼通
摂関政治の最盛期を築いた人物が、藤原道長(みちなが)です。
道長は、自分の娘を天皇の后にし、天皇家との結びつきを強めました。
その結果、道長のころには藤原氏が大きな権力を持つようになります。
道長は、次の歌を残したことでも有名です。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
この歌には、自分の権力が満月のように満ちているという意味がこめられています。
また、道長の子である藤原頼通(よりみち)も摂関政治を続けました。
1053年、頼道は、京都の宇治に平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を建てました。
平等院鳳凰堂は、極楽浄土(ごくらくじょうど)を表した建築として知られています。
3.貴族の暮らし
平安時代の貴族たちは、華やかな生活を送っていました。
貴族の屋敷では寝殿造と呼ばれる建築様式が用いられ、庭園を楽しむ文化も発展しました。
また、和歌を詠んだり、年中行事を楽しんだりすることも重要でした。
一方で、地方では荘園が増え、朝廷の力がしだいに弱まっていきます。
こうした地方の変化は、のちに武士が成長する背景にもつながっていきました。
4.荘園の増加と律令国家の変化
平安時代になると、貴族や寺社は大きな私有地である荘園を広げていきました。
荘園には、税を納めなくてよい不輸の権や、国司が立ち入れない不入の権が認められるものもありました。
そのため、朝廷は税を集めにくくなり、律令国家の仕組みはしだいに弱まっていきます。
また、地方では荘園を守るために武士が必要となり、武士が力を持つ背景にもなりました。
第4章 国風文化の発展
平安時代になると、日本独自の文化が大きく発展していきます。
奈良時代までは、中国の唐の文化を積極的に取り入れていました。しかし、唐が衰えたことで遣唐使が停止されると、日本ではしだいに日本風の文化が広がっていきました。
こうして発展した文化を国風文化といいます。
国風文化では、かな文字を使った文学作品や、日本の自然や季節を大切にする文化が発展しました。これは、貴族たちの生活や感性と深く結びついていました。
1.遣唐使停止と日本風文化
平安時代の後半になると、中国の唐が衰え始めます。
そこで朝廷は、遣唐使の派遣を停止しました。
遣唐使停止を提案した人物として有名なのが、菅原道真です。
奈良時代までは、中国の制度や文化を積極的に取り入れていましたが、遣唐使停止のあと、日本ではしだいに日本独自の文化が発展していきました。
この変化は、日本風の文学や美術が生まれる大きなきっかけとなります。
奈良時代までは、中国の唐の文化を積極的に取り入れていました。しかし、遣唐使が停止されると、中国文化をそのまま学ぶ機会が減っていきます。
その結果、日本ではかな文字や大和絵など、日本独自の文化が発展していきました。
つまり国風文化は、「中国文化をやめた」のではなく、「中国文化を土台に日本風へ変化した文化」といえるのです。
2.かな文字と文学作品
国風文化では、かな文字が広く使われるようになりました。
それまでの文章は漢字中心でしたが、かな文字が広まったことで、日本語を表現しやすくなります。
特に女性の貴族たちがかな文字を使い、多くの文学作品を生み出しました。
代表的な作品として有名なのが、源氏物語です。
これは紫式部によって書かれた長編小説で、世界最古の長編小説の一つともいわれています。
また、枕草子は、清少納言によって書かれました。
「春はあけぼの」という書き出しで有名です。
3.大和絵と貴族文化
国風文化では、美術や建築にも日本風の特色が表れました。
日本の自然や季節を描いた絵画を大和絵といいます。
また、貴族の屋敷には寝殿造が用いられ、広い庭園を楽しむ文化も発展しました。
平安時代の貴族たちは、和歌を詠んだり、美しい景色を楽しんだりしながら生活していました。
このように国風文化は、平安時代の貴族社会を代表する文化だったのです。

第5章 院政と武士の成長
平安時代の後半になると、藤原氏による摂関政治はしだいに弱まっていきました。
そこで始まったのが、天皇を退いた上皇が政治を行う院政です。
しかし、このころには地方で武士も力をつけ始めていました。地方では荘園が増え、争いも多くなっていたため、朝廷や上皇は武士の力を利用して政治を進めるようになります。
こうして平氏や源氏が成長し、やがて武士が政治の中心へ進出していきました。平安時代の後半は、貴族の時代から武士の時代へ移り変わる重要な時期だったのです。
1.院政とは?
摂関政治が続く中で、藤原氏は大きな力を持つようになっていました。
そこで、天皇を退いた上皇が自ら政治を行う院政が始まります。
【重要記述問題】
問題 院政のしくみを簡単に説明しなさい。
解答 天皇が位を譲った後も、上皇として政治の実権を握るしくみ。
院政を始めた人物として有名なのが、白河上皇(しらかわじょうこう)です。
上皇とは、天皇を退いたあとの天皇のことをいいます。
上皇は、自分の子どもを天皇にしたあとも政治に関わることで、藤原氏の力をおさえようとしました。
こうして、平安時代後半の政治は、摂関政治から院政へ変化していきます。
平安時代の後半、上皇が政治を行う院政が始まりました。
院政では、藤原氏の力をおさえるために、上皇が自ら政治を動かそうとしました。しかし、その中で重要になったのが武士の力です。
当時、地方では荘園が増え、争いも多くなっていました。朝廷や上皇は、自分たちの政治を守るために、武士を利用するようになります。
特に、保元の乱や平治の乱では、朝廷側の争いに武士が参加しました。
この戦いで活躍したのが、平清盛などの武士たちです。
つまり院政は、
- 藤原氏の力を弱める
- 上皇が政治を主導する
ために始まった政治でしたが、その過程で武士が政治に深く関わるようになっていったのです。
こうして武士は、地方を守る存在から、しだいに政治の中心へ進出していくことになります。
2.武士の成長
平安時代には、地方で大きな土地を持つ荘園が増えていきました。
しかし、地方では争いや反乱も多く、貴族だけでは土地を守ることが難しくなっていきます。
そこで、武器を持って土地を守る人々が現れました。
こうした人々が武士です。
武士たちは、主従関係を結びながら力を強めていきました。
特に有力だったのが、平氏と源氏です。
また、関東地方では平将門が反乱を起こし、瀬戸内海周辺では藤原純友が反乱を起こしました。
朝廷はこれらの反乱を武士の力を利用してしずめました。
このことによって、武士は朝廷にとって必要な存在になっていったのです。
さらに東北地方では、前九年の役や後三年の役と呼ばれる戦いも起こりました。
朝廷は源氏などの武士を利用して戦いをしずめ、このころから武士はさらに力を強めていきます。
そして、戦いのあとには東北地方で奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)が大きな力を持つようになりました。
前九年の役・後三年の役のあと、東北地方では奥州藤原氏が力を持つようになりました。
奥州藤原氏は、京都で摂関政治を行った藤原氏と同じ「藤原」の名前を持っていますが、東北地方を中心に勢力を広げた武士の一族です。
現在の岩手県にある平泉を中心に栄え、金色堂で有名な中尊寺を建てたことでも知られています。
また、奥州藤原氏は強い経済力を持ち、東北地方で大きな勢力を築きました。
しかし、のちに源頼朝によってほろぼされます。
3.平清盛と平氏政権
院政の時代には、朝廷や貴族の対立が激しくなっていきました。
その中で起こったのが、保元の乱や平治の乱です。
これらの戦いでは、平氏や源氏などの武士が朝廷側の争いに参加しました。
そして戦いに勝利した平清盛は、武士として初めて政治の実権を握るようになります。
また、清盛は宋との貿易である日宋貿易を進め、大きな利益を得ました。
さらに、娘を天皇の后にするなど、藤原氏と同じような方法で権力を強めました。
しかし、平氏中心の政治に不満を持つ武士も多く、やがて源氏との対立が深まっていきます。
その後、壇ノ浦の戦いで平氏が滅び、平安時代は終わりを迎えます。
こうして日本は、武士が中心となる鎌倉時代へ進んでいくことになるのです。

第6章 平安時代まとめ
平安時代は、794年の平安京遷都から始まり、約400年続いた長い時代でした。
平安時代の前半では、桓武天皇が新しい政治を目指し、平安京へ都を移しました。また、最澄や空海による新しい仏教が広まり、日本独自の文化も発展していきます。
中ごろになると、藤原氏による摂関政治が行われ、貴族が政治や文化の中心となりました。かな文字や『源氏物語』などに代表される国風文化も、この時代に栄えます。
しかし後半になると、荘園の増加によって朝廷の支配はしだいに弱まり、地方で武士が成長していきました。
関東地方では平将門の乱、瀬戸内海周辺では藤原純友の乱が起こり、さらに東北地方では前九年の役や後三年の役が起こります。
朝廷はこれらの戦いを武士の力を利用してしずめたため、武士はしだいに重要な存在になっていきました。
さらに院政の時代には、朝廷や上皇が武士の力を利用するようになり、保元の乱や平治の乱を経て、平清盛などの武士が政治の中心へ進出していきます。
このような武士の成長の流れは、高校入試でも非常によく出題されます。特に、争いが起こった場所や人物、武士がどのように力を強めたかを整理しておくことが重要です。次の図解で流れを確認しておきましょう。

つまり平安時代は、
- 天皇中心の政治
- 貴族中心の政治
- 武士の成長
という流れで、時代の中心が変化していった時代だったのです。
そして平氏が滅びると、日本は武士が中心となる鎌倉時代へ進んでいくことになります。

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