645年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、強大な力を持っていた蘇我入鹿を倒し、大化の改新を始めました。
大化の改新では、
- 公地公民
- 中央集権化
- 難波遷都
などが進められ、日本は「豪族中心の政治」から、「天皇を中心とした国家」へ変わろうとしていきます。
ここは高校入試でも頻出で、
- 中大兄皇子(後の天智天皇)
- 中臣鎌足(後の藤原鎌足)
- 蘇我蝦夷・蘇我入鹿
- 公地公民
- 中央集権国家
などが重要ポイントになります。
この記事では、まず図解で重要事項を整理した後、「なぜ大化の改新が必要だったのか」「その後、律令国家へどうつながったのか」を流れでわかりやすく解説していきます。

第1章 大化の改新とは?|なぜ改革が必要だったのか
飛鳥時代、日本では天皇を中心とした国づくりが進められていました。しかし実際には、豪族たちが大きな力を持ち、特に蘇我氏は天皇をしのぐほどの権力を持つようになっていました。
その一方で、中国では隋や唐が強力な中央集権国家を築いており、日本もその影響を受けます。
こうした中で始まったのが「大化の改新」です。
大化の改新は、単に蘇我氏を倒した事件ではありません。天皇を中心とした新しい政治のしくみをつくり、後の律令国家へとつながっていく、日本史の大きな転換点となった改革でした。
この章では、大化の改新がなぜ必要だったのか、その背景を見ていきます。
1.豪族の力が強くなっていた
飛鳥時代の日本では、天皇が政治を行っていましたが、実際には豪族たちも大きな力を持っていました。
特に蘇我氏は、
- 天皇との結びつきを強める
- 財力や軍事力を持つ
- 政治の中心で活躍する
ことで、次第に権力を強めていきます。
やがて蘇我馬子や蘇我蝦夷、蘇我入鹿の時代になると、蘇我氏は天皇をしのぐほどの勢力を持つようになりました。
その結果、「このままでは豪族の力が強くなりすぎてしまう」という危機感が高まっていったのです。
ここは高校入試でも重要で、「大化の改新の背景=蘇我氏の権力拡大」は頻出テーマです。
2.聖徳太子は天皇中心の国を目指していた
大化の改新より前にも、天皇中心の政治を目指す動きはありました。
その代表が聖徳太子です。
聖徳太子は、
- 冠位十二階
- 十七条の憲法
- 遣隋使
などを通して、豪族よりも能力を重視する政治や、天皇を中心とした国づくりを進めようとしました。
また、中国の隋の制度を学び、日本にも取り入れようとしていました。
しかし、この時代はまだ豪族の力が強く、本格的な中央集権国家を完成させるところまでは進みませんでした。
つまり、聖徳太子は「方向性」を示した人物だったといえます。
そして、その流れをさらに進めたのが大化の改新でした。

3.中国(隋・唐)の影響を受けた
当時の中国では、隋や唐が強力な中央集権国家を築いていました。
中央集権とは、国の政治を中央政府がまとめて支配するしくみのことです。
日本は遣隋使や遣唐使を通して、中国の進んだ制度や文化を学んでいました。
その中で、
- 法律による政治
- 全国を支配する行政制度
- 税のしくみ
- 戸籍制度
などを知り、日本でも同じような国づくりを目指すようになります。
特に唐は東アジアで非常に強い国だったため、日本にも大きな影響を与えました。
4.大化の改新は「中央集権国家への第一歩」
645年、中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我入鹿を倒します。
これをきっかけに始まった改革が「大化の改新」です。
大化の改新では、
- 土地や人民を国家のものとする
- 税の制度を整える
- 地方の支配を強める
など、天皇を中心とした国づくりが進められました。
ただし、大化の改新だけで律令国家が完成したわけではありません。
その後も、
- 白村江の戦い
- 壬申の乱
- 天武天皇の改革
- 大宝律令
へと続き、長い時間をかけて中央集権国家が完成していきます。
つまり、大化の改新は、「律令国家づくりのスタート」として非常に重要だったのです。
第2章 蘇我氏を倒して大化の改新が始まる
大化の改新のきっかけとなったのが、645年に中大兄皇子と中臣鎌足が協力して、強大な力を持っていた蘇我氏を倒した事件です。
当時の蘇我氏は、天皇をしのぐほどの権力を持っていました。
そこで中大兄皇子たちは、「豪族中心の政治を改め、天皇を中心とした国をつくろう」と考え、新しい政治改革を始めていきます。
この章では、大化の改新がどのように始まったのかを見ていきましょう。
1.中大兄皇子と中臣鎌足
当時、朝廷では蘇我氏が非常に大きな力を持っていました。
特に蘇我蝦夷と、その子の蘇我入鹿の時代になると、蘇我氏は政治の中心となり、天皇をしのぐほどの勢力を持つようになります。
こうした状況に危機感を持ったのが、中大兄皇子と中臣鎌足でした。
- 中大兄皇子
→ 後の天智天皇 - 中臣鎌足
→ 後の藤原鎌足
二人は協力し、「豪族ではなく、天皇を中心とした国づくり」を目指します。
ここは高校入試でも重要で、「大化の改新を進めた人物」としてよく問われます。
2.蘇我入鹿を倒す
645年、中大兄皇子と中臣鎌足は、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を倒しました。
さらに、父の蘇我蝦夷も自害し、長く続いた蘇我氏の政治は終わりを迎えます。
この出来事の重要な点は、「豪族が強すぎる政治を終わらせようとした」ことです。
つまり、
- 豪族がそれぞれ大きな力を持つ政治
↓ - 天皇を中心に全国をまとめる政治
へ変わろうとしたのです。
ここが、大化の改新のスタートになりました。
3.大化の改新が始まる
蘇我氏を倒した後、新しい政治改革が始まります。
これが「大化の改新」です。
646年には、「改新の詔」が出され、新しい政治の方針が示されました。
その中では、
- 公地公民
- 税の制度づくり
- 地方支配の整備
などが進められていきます。
また、政治の中心を飛鳥から難波へ移しました。
難波は中国や朝鮮半島との交流にも便利な場所であり、新しい国づくりを進める拠点として重視されました。
4.政治のしくみが大きく変わる
大化の改新によって、日本の政治のしくみは大きく変わろうとします。
それまでの日本は、「大王を中心とする豪族の連合政権」でした。
豪族たちは、それぞれ土地や人々を支配しながら、大王と協力して政治を行っていました。
しかし大化の改新では、「天皇を中心とする中央集権国家」を目指します。
中央集権とは、中央政府が全国をまとめて支配するしくみのことです。
そのために、
- 土地や人民を国家のものとする
- 戸籍をつくる
- 税を統一する
- 地方支配を整える
などの改革が進められていきました。
5.大化の改新は「律令国家への出発点」
ただし、この時点ではまだ律令国家は完成していません。
地方豪族の力もまだ強く、
- 制度
- 税
- 地方支配
なども発展途中でした。
その後、
- 白村江の戦い
- 壬申の乱
- 天武天皇の改革
を経て、701年の大宝律令へとつながっていきます。
つまり、大化の改新は、「律令国家づくりのスタート」として重要だったのです。

第3章 大化の改新の内容|何を変えようとしたのか
大化の改新では、「天皇を中心とした国づくり」を進めるために、さまざまな改革が行われました。
それまでの日本では、豪族たちがそれぞれ土地や人々を支配していました。
しかし、大化の改新では、「土地や人民を国家が直接支配する国」を目指します。
そのために、
- 公地公民
- 戸籍づくり
- 税の制度
- 地方支配の整備
などが進められていきました。
一見するとバラバラな改革に見えますが、すべて、「天皇を中心とした中央集権国家をつくる」という目的につながっています。
1.公地公民とは?
大化の改新で特に重要なのが、「公地公民」の考え方です。
公地公民とは、
- 土地(公地)
- 人民(公民)
を国家のものとする考え方です。
それまで豪族は、自分たちの土地や人々を持ち、それぞれ支配していました。
しかし、それでは国全体を統一して支配することができません。
そこで、 「土地も人民も国家のもの」と考え、天皇を中心とした政府が管理しようとしたのです。
ここは高校入試でも非常によく出題されます。
2.戸籍と税の制度を整える
土地や人民を国家が管理するためには、「誰がどこに住んでいるのか」を把握する必要があります。
そこで作られたのが戸籍です。
戸籍によって人々を登録し、
- 税
- 労役
- 兵役
などを管理しようとしました。
また、税の制度も整えられていきます。
これは、「全国から安定して税を集める」ためです。
つまり、大化の改新では、土地・人民・税を国家がまとめて管理する方向へ進んでいったのです。
3.地方支配を整える
中央集権国家をつくるためには、地方も中央政府の命令に従う必要があります。
そのため、国・郡・里などの地方制度が整えられていきました。
また、地方には役人を置き、中央の命令が全国に届くようにしていきます。
つまり、「豪族ごとにバラバラだった政治」を、「中央政府が全国を統一して支配する政治」へ変えようとしたのです。
4.政治の中心を難波へ移す
大化の改新では、政治の中心を飛鳥から難波へ移しました。
難波は現在の大阪付近にあたり、
- 海に近い
- 中国や朝鮮半島との交流に便利
という特徴がありました。
当時の日本は、中国の制度を学びながら国づくりを進めていたため、大陸との交流は非常に重要だったのです。
そのため難波は、新しい政治を進める拠点として重視されました。
5.大化の改新は「中央集権国家づくり」
大化の改新で行われた改革は、すべて、「天皇を中心とした強い国家をつくる」ためのものでした。
それまでの日本は、「大王を中心とする豪族の連合政権」でした。
しかし、大化の改新によって、「天皇を中心とする中央集権国家」へ変わろうとしていきます。
ただし、この時点ではまだ改革は完成していません。
地方豪族の力も残っており、本格的な律令国家の完成には、さらに時間が必要でした。
その後、
- 白村江の戦い
- 壬申の乱
- 天武天皇の改革
- 大宝律令
へとつながり、日本は次第に律令国家へ近づいていきます。
第4章 大化の改新から律令国家へ|その後どうなったのか
大化の改新によって、日本は天皇を中心とした中央集権国家を目指し始めました。
しかし、この時点ではまだ改革は完成していません。
地方豪族の力も残っており、
- 制度
- 税
- 地方支配
なども発展途中でした。
その後、日本は戦いや政治改革をくり返しながら、少しずつ律令国家へ近づいていきます。
この章では、大化の改新の後、日本がどのように中央集権国家を完成させていったのかを見ていきましょう。

1.白村江の戦いで国の危機を感じる
663年、日本は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れました。
この戦いは、朝鮮半島の百済を助けるために日本が出兵した戦いです。
しかし敗北したことで、「唐が日本へ攻めてくるかもしれない」という危機感が高まりました。
そこで日本は、
- 九州に防人を置く
- 水城をつくる
- 山城を整備する
など、防衛を強化していきます。
そして同時に、 「もっと強い国家をつくらなければならない」という考えも強まっていきました。
つまり白村江の戦いは、中央集権国家づくりをさらに進めるきっかけになったのです。
2.壬申の乱で天皇の力が強まる
672年には、「壬申の乱」が起こります。
これは、大海人皇子と大友皇子による皇位継承争いです。
戦いの結果、大海人皇子が勝利し、後の天武天皇となりました。
天武天皇は、「天皇を中心とした政治」をさらに強化していきます。
- 豪族の力をおさえる
- 戸籍を整える
- 中央集権化を進める
など、律令国家づくりを本格化させました。
つまり壬申の乱は、「天皇中心の政治がさらに強まる転機」だったのです。
3.天武天皇が律令国家づくりを進める
天武天皇は、中央集権国家をつくるために、さまざまな改革を進めました。
例えば、
- 戸籍の整備
- 行政制度の整備
- 官僚制度の強化
などです。
また、天皇の権威を高めることも進められました。
こうした改革によって、日本は少しずつ、「豪族の連合政権」から、「天皇中心の国家」へ変わっていきます。
ここは、大化の改新と大宝律令をつなぐ重要な部分です。
4.大宝律令で律令国家が完成する
701年、文武天皇の時代に「大宝律令」が完成します。
律令とは、
- 律
→ 刑法 - 令
→ 政治や行政のルール
のことです。
大宝律令によって、
- 中央政府
- 地方支配
- 税制度
- 官僚制度
などが法律として整えられました。
つまり、「法律にもとづいて全国を統一的に支配する国家」が完成したのです。
これを「律令国家」といいます。
大化の改新から始まった中央集権化は、長い時間をかけて、ここで大きく形を整えたのです。
5.大化の改新は「出発点」だった
大化の改新は、日本史の中でも非常に重要な改革です。
しかし、「大化の改新ですべて完成した」わけではありません。
実際には、
- 白村江の戦い
- 壬申の乱
- 天武天皇の改革
- 大宝律令
などを経ながら、少しずつ律令国家が完成していきました。
つまり、大化の改新は、「天皇中心の中央集権国家づくりのスタート」だったのです。

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