奈良時代は、日本で律令国家の仕組みが本格的に運営され始めた時代です。
平城京を中心に天皇中心の政治が行われ、班田収授法や租・庸・調などの制度によって全国支配が進められていきました。
また、この時代には聖武天皇による大仏建立や国分寺の建立が進められ、仏教の力で国を守ろうとする政治も行われます。さらに、唐を中心とした国際文化の影響を受け、天平文化と呼ばれる華やかな文化が栄えました。
しかしその一方で、律令国家を支える農民には重い税や労役が課されていました。防人や雑徭などの負担に苦しむ人々も多く、山上憶良の『貧窮問答歌』には、当時の厳しい生活の様子が描かれています。
さらに、人口増加や土地不足によって班田収授法は次第に限界を迎え、墾田永年私財法によって土地の私有が認められるようになります。これは後の荘園の広がりにつながり、律令体制がゆらぎ始めるきっかけにもなりました。
この記事では、奈良時代の政治・文化・土地制度の変化を中心に、律令国家がどのように運営され、どのような問題を抱えていったのかをわかりやすく解説していきます。

第1章 平城京と律令国家の本格的な運営
飛鳥時代には、聖徳太子の政治や大化の改新、大宝律令によって、天皇中心の中央集権国家を作る流れが進められてきました。

そして奈良時代になると、その仕組みを実際に全国で動かしていく段階へ入っていきます。
この章では、平城京を中心とした奈良時代の政治と、律令国家の運営について整理していきます。
1 平城京への遷都
710年、元明天皇は都を平城京へ移しました。
これが奈良時代の始まりです。
平城京は、唐の都である長安をモデルにして作られました。
道を碁盤の目のように区切った計画的な都市であり、日本が中国の進んだ制度や文化を積極的に取り入れていたことがわかります。
また、平城京はそれまでの都と違い、長期間使用される本格的な都として整備されました。
律令国家では、天皇を中心とした政治を安定して行う必要がありました。そのため、政治の中心となる大規模な都が必要だったのです。
2 律令国家の本格的な運営
奈良時代になると、大宝律令によって整えられた制度が全国で本格的に運営されるようになります。
中央では、天皇を中心に政治が行われました。
地方には国司が派遣され、全国を支配していきます。
また、戸籍をもとに班田収授法が実施され、人々に口分田が与えられました。
さらに、租・庸・調によって税が集められます。
このように奈良時代は、
- 土地を管理する
- 人々を把握する
- 税を集める
- 地方を支配する
という律令国家の仕組みが、実際に全国で動き始めた時代だったのです。
ただし、その仕組みを維持するためには、多くの農民の負担が必要でした。
後の時代になると、その負担の重さが大きな問題となっていきます。
第2章 聖武天皇と仏教による政治
奈良時代の政治で特に重要なのが、聖武天皇による仏教政治です。
当時の日本では、災害や疫病、ききんなどが相次ぎ、人々の生活は不安定になっていました。さらに、農民への負担も大きく、律令国家の運営にはさまざまな問題が見え始めていました。
そのような中で、聖武天皇は「仏教の力によって国を守ろう」と考えます。
この章では、聖武天皇が進めた政治と、奈良時代の仏教について見ていきましょう。
1 聖武天皇と国分寺の建立
聖武天皇は、全国に国分寺と国分尼寺を建てる命令を出しました。
国分寺は、各国ごとに作られた寺です。
これは単に仏教を広めるためだけではありません。
当時の日本では、地震や疫病、ききんなどが相次ぎ、人々の生活は不安定になっていました。さらに、政治不安も重なり、社会全体に大きな不安が広がっていたのです。
聖武天皇は、仏教の力によって国を守り、人々の不安をおさえようとしたのです。
つまり奈良時代の仏教は、政治とも深く結びついていました。
2 東大寺と大仏建立
聖武天皇が進めた仏教政治の象徴が、東大寺の大仏です。
奈良の東大寺には、巨大な盧舎那仏(るしゃなぶつ)が作られました。
この大仏には、「仏の力で国を平和にしたい」という願いが込められていました。
【重要記述問題】
問題 聖武天皇が大仏を作らせた理由を述べなさい。
解答 (仏教)の力で(国)を守るため。
しかし、大仏建立には大量の資金や労働力が必要でした。
そのため、農民への負担はさらに大きくなっていきます。
このように奈良時代は、華やかな仏教文化が発展した一方で、多くの人々の負担によって支えられていた時代でもありました。

3 行基と鑑真
奈良時代の仏教では、行基と鑑真も重要人物です。
行基は、人々を助けながら仏教を広めた僧でした。
橋やため池を作るなど、社会事業にも取り組み、多くの民衆から支持されます。
また、唐から来日した鑑真は、日本へ正式な仏教の戒律を伝えました。
鑑真は来日の途中で失明しながらも日本へ渡り、唐招提寺を建てています。
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4 仏教政治と律令国家
奈良時代の仏教は、律令国家を安定させるための政治とも深く結びついていたのです。
聖武天皇は、仏教の力によって国家を守ろうとしました。
しかしその一方で、
- 大仏建立
- 寺院建設
- 税や労役の増加
などによって、農民の負担はさらに重くなっていきます。
つまり奈良時代は、
- 律令国家が本格的に運営される
- 仏教によって国家を安定させようとする
- その一方で人々の負担が増えていく
という特徴を持った時代だったのです。
第3章 奈良時代の文化と人々の暮らし
奈良時代には、唐を中心とした外国文化の影響を受けながら、国際色豊かな文化が発展しました。
この時代の文化は、天平文化と呼ばれます。
東大寺や正倉院に代表される華やかな文化が栄えた一方で、その裏では重い税や労役に苦しむ農民たちの姿もありました。
当時の日本は遣唐使を通して唐と交流しており、中国文化の影響を強く受けていました。
さらに、シルクロードを通じて西アジアなどの文化も日本へ伝わってきます。
そのため奈良時代には、
- 仏教文化
- 唐風文化
- 外国の工芸品
などが広まりました。
高校入試では、
- 奈良時代 → 天平文化
- 飛鳥時代 → 飛鳥文化
の組み合わせがよく問われます。
【重要記述問題】
問題 天平文化の特徴を書述べなさい。
解答 (仏教)と(唐)の文化の影響を強く受けた、(国際色豊か)な文化である。
2 正倉院と国際文化
奈良時代の文化を代表する建物が、東大寺の正倉院です。
正倉院には、聖武天皇ゆかりの品々が収められています。
そこには、
- 中国
- 朝鮮半島
- 西アジア
などの影響を受けた工芸品も多く残されています。
これは、奈良時代の日本が外国との交流を積極的に行っていたことを示しています。
また、正倉院は校倉造という建築様式でも知られています。
高校入試では、
- 正倉院
- 校倉造
- シルクロード
の関連がよく出題されます。
3 『万葉集』と人々の暮らし
奈良時代には文学も発展しました。
代表的なものが、『万葉集』です。
『万葉集』は、日本最古の歌集として知られています。
そこには、
- 天皇
- 貴族
- 防人
- 農民
など、さまざまな立場の人々の歌が収められていました。
特に重要なのが、山上憶良です。
山上憶良は、『貧窮問答歌』の中で、税や労役に苦しむ人々の生活を描きました。
また、『万葉集』には防人の歌も収められています。
防人とは、九州の防衛を担当した人々のことです。
東国の農民たちは遠く九州まで送られ、不安や家族への思いを歌に残しました。
これらの歌からは、奈良時代の華やかな文化だけでなく、律令国家を支えていた人々の苦しい暮らしも知ることができます。

※ 班田収授法や租庸調など、律令国家の仕組みをさらに詳しく知りたい人は、こちらの記事(第3章)も参考にしてください。

4 古事記・日本書紀・風土記
奈良時代には、歴史や地方の様子をまとめた書物も作られました。
代表的なものが、『古事記』と『日本書紀』です。
『古事記』は、日本最古の歴史書として知られています。
一方、『日本書紀』は漢文で書かれた歴史書で、中国など外国へ日本の国家を示す目的もありました。
また、各地の自然や伝説、産物などをまとめたものが『風土記』です。各地の国司にまとめさせた地理書で、地方の様子を知ることができます。
特に『出雲国風土記』は現在まで残っています。
これらの書物からは、律令国家が歴史や地方の情報を整理し、国家としてのまとまりを強めようとしていたことがわかります。

第4章 土地制度の変化と律令体制のゆらぎ
奈良時代の初めごろ、律令国家は戸籍や班田収授法によって人々や土地を管理していました。
しかし、時間がたつにつれて、その仕組みを維持することが難しくなっていきます。
特に大きな問題となったのが、
- 人口増加
- 土地不足
- 農民の負担
- 戸籍管理の困難
などでした。
この章では、土地制度がどのように変化し、律令体制がゆらぎ始めたのかを見ていきましょう。
1 班田収授法の限界
律令国家では、6歳以上の男女に口分田を与える班田収授法が行われていました。
しかし、この制度には大きな問題がありました。
まず、人口が増えると、配る土地が不足していきます。
また、税や労役の負担が重かったため、農民の中には戸籍から逃れる人も現れました。
さらに、土地を失った農民が移動することも増え、国家が人々を正確に把握することが難しくなっていきます。
つまり、
- 戸籍管理の難しさ
- 土地不足
- 農民の逃亡
などによって、班田収授法は次第に限界を迎えていったのです。

この図解からもわかるように、律令国家では特に成年男子に重い税や兵役の負担が課されていました。
そのため、実際には年齢や性別をごまかして戸籍に登録する人も現れます。
高校入試では、
- 男性を女性として登録する
- 年齢を偽る
- 戸籍から逃れる
といった内容が、資料問題や正誤問題でよく出題されます。
特に、「なぜ戸籍制度が乱れたのか」という原因を問う問題は頻出なので、成年男子の負担が重かったことをセットで理解しておきましょう。
2 三世一身法
班田収授法がうまくいかなくなると、政府は新しい農地を増やそうと考えました。
そこで723年に出されたのが、三世一身法です。
これは、新しく開墾した土地について、
- 自分で新しく開墾した土地 → 三世代まで私有できる
- 以前の池や溝を利用した土地 → 一代限り私有できる
とした法律です。
政府は、土地の私有を一部認めることで、農地を増やそうとしたのです。
しかし、期限があるため、開墾を進める効果は十分ではありませんでした。
2 墾田永年私財法
そこで743年、政府は墾田永年私財法を出します。
これは、新しく開墾した土地を永久に私有してよいと認める法律でした。
もともと律令国家では、「土地は国家のもの」という公地公民の考え方が基本でした。
しかし、開墾を進めなければ農地不足を解決できません。
そこで政府は、「新しく土地を開墾した人には、その土地を与える」という政策を行ったのです。
高校入試では、
- 墾田永年私財法
- 土地の私有
- 荘園の始まり
のつながりが頻出です。

3 荘園の広がり
墾田永年私財法によって、貴族や寺社は広い土地を持つようになります。
これが後の荘園につながっていきました。
荘園とは、貴族や寺社が持っていた私有地のことです。
荘園が広がると、国家が直接管理する土地は減っていきます。
つまり、「土地を国家が管理する」という律令国家の基本そのものが崩れ始めたのです。
また、税を逃れるために有力者へ土地を寄進する動きも増えていきます。
こうして律令国家は、少しずつ維持が難しくなっていきました。
4 律令国家のゆらぎ
奈良時代は、律令国家が本格的に運営された時代でした。
しかしその一方で、
- 農民への重い負担
- 土地制度の限界
- 荘園の広がり
などによって、律令体制は少しずつゆらぎ始めます。
この変化は、後の平安時代へとつながっていきました。
つまり奈良時代は、
- 律令国家が栄えた時代
- その仕組みが限界を見せ始めた時代
という二つの側面を持っていたのです。
第5章 奈良時代まとめ|律令国家の完成と広がる矛盾
奈良時代は、飛鳥時代に進められてきた律令国家づくりが、本格的に全国へ広がった時代でした。
都は平城京に置かれ、戸籍や班田収授法、租・庸・調などの制度によって、天皇中心の政治が全国へ広がっていきます。
一方で、国家を支えるための税や労役は農民に重くのしかかり、生活に苦しむ人々も増えていきました。
また、聖武天皇の時代には、仏教の力によって国を守ろうとする動きが強まり、東大寺や大仏の建立が進められます。
しかし、こうした大規模な事業は国家財政にも大きな負担を与え、律令国家の仕組みには少しずつ限界も見え始めていきました。
1.奈良時代の流れを整理しよう
平城京への遷都
↓
律令国家の政治が本格化する
班田収授法・租庸調の実施
↓
全国の農民に税や労役を課す
聖武天皇の政治
↓
仏教の力で国を守ろうとする
東大寺・大仏建立
↓
国家事業が拡大する
墾田永年私財法
↓
土地制度が変化し、律令制度が揺らぎ始める
2.奈良時代の重要ポイント
- 平城京を中心に律令国家が本格化した
- 班田収授法と租庸調によって全国支配を進めた
- 天平文化が栄え、仏教文化が発展した
- 東大寺や大仏建立が進められた
- 墾田永年私財法によって律令制度が崩れ始めた
3.奈良時代は「律令国家の完成と限界の時代」
奈良時代は、律令国家の制度がもっとも整った時代でした。
しかしその一方で、
- 農民の負担増加
- 逃亡や戸籍のごまかし
- 国家財政の悪化
- 私有地の拡大
など、多くの問題も起こります。
特に743年の墾田永年私財法は、土地の私有を認めたことで、後の荘園の広がりにつながっていきました。
そのため奈良時代は、「律令国家が完成した時代」であると同時に、「律令制度の限界が見え始めた時代」でもあったのです。


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