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【中学歴史】黒船来航から幕府滅亡まで|幕末の流れをわかりやすく

江戸時代の終わりである幕末は、日本が大きく変化した時代です。

1853年、アメリカのペリーが黒船を率いて来航すると、長く続いていた鎖国体制は大きく揺らぎ始めました。

その後、日本では、

  • 開国による社会の混乱
  • 尊王攘夷運動の広がり
  • 薩摩藩・長州藩の変化
  • 倒幕運動
  • 戊辰戦争

などが続き、約260年続いた江戸幕府は滅亡していきます。

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幕末は出来事や人物が多く、流れが複雑に感じやすい時代です。

しかし、「外国との出会いをきっかけに、日本が武士の時代から近代国家へ変わっていく流れ」を意識すると、全体像がつかみやすくなります。

黒船来航から江戸幕府滅亡までの流れをまとめた縦長図解。第1章ではペリー来航、日米和親条約、不平等条約、開国による社会の混乱を整理。第2章では「薩摩・長州の変化」と「幕府の弱体化」の2つの流れを並行して図解し、尊王攘夷、生麦事件、薩英戦争、下関戦争、安政の大獄、桜田門外の変などを紹介。第3章では薩長同盟、大政奉還、王政復古の大号令による倒幕の流れを説明。第4章では鳥羽・伏見の戦い、江戸城の無血開城、五稜郭の戦いを経て、江戸幕府が滅亡し明治時代へ進む流れをまとめている。

この図解では、黒船来航から江戸幕府滅亡までの流れを、大きなポイントに絞って整理していきます。

目次

第1章 黒船来航と開国

江戸幕府は、約260年間にわたって鎖国を続けてきました。

しかし19世紀になると、欧米諸国はアジアへの進出を強め、日本にも開国を求めるようになります。

そして1853年、アメリカのペリーが黒船を率いて来航したことで、日本は大きな転換点を迎えることになりました。

この章では、

  • 黒船来航
  • 開国
  • 不平等条約
  • 社会の混乱

という流れを通して、江戸幕府が揺らぎ始める様子を見ていきます。

1853年、アメリカのペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀(現在の神奈川県)に来航しました。

1.ペリー来航と黒船の衝撃

当時の日本は鎖国を続けており、外国の船が自由に来ることはほとんどありませんでした。

しかも、ペリーの船は蒸気機関を使った大型軍艦で、黒い煙を出しながら進んでいたため、日本人はこれを「黒船」と呼びました。

ペリーは、日本に対して

  • 港を開くこと
  • アメリカ船へ燃料や食料を補給すること

などを求めました。

幕府は、圧倒的な軍事力を前にすぐには拒否できず、大きく動揺します。

ここが、長く続いた鎖国体制が崩れ始めるきっかけとなりました。

2.日米和親条約と開国

1854年、幕府はアメリカと日米和親条約を結びました。

この条約によって、

  • 下田(静岡県)
  • 函館(北海道)

の2つの港が開かれます。

これによって、日本は約200年以上続けてきた鎖国を終えることになりました。

ただし、この時点ではまだ本格的な貿易は始まっていません。

幕府としては、「戦争を避けるため、最低限の要求を受け入れた」という面が強かったのです。

当時の清(中国)はアヘン戦争でイギリスに敗れており、日本も「外国と戦えば危険だ」ということを知っていました。

そのため、幕府は武力衝突を避ける道を選びました。

3.日米修好通商条約と不平等条約

1858年、幕府はアメリカ総領事ハリスとの間で、日米修好通商条約を結びます。

この条約では、

  • 横浜などの港を開港する
  • 本格的な貿易を始める

ことが決まりました。

しかし、この条約は日本にとって非常に不利な内容でした。

特に重要なのが、外国人が日本で事件を起こしても日本の法律で裁けない「領事裁判権」を認めたことと、日本が輸入品にかける税金(関税)を自由に決められない「関税自主権」がなかったことです。

これらは日本にとって非常に不利な内容であり、日米修好通商条約が「不平等条約」と呼ばれる大きな理由となりました。

領事裁判権とは?

外国人が日本で事件を起こしても、日本の法律では裁けない権利です。

つまり、日本の中なのに、日本側が十分に取り締まれない状態でした。

関税自主権がないとは?

輸入品にかける税金(関税)を、日本が自由に決められないことです。

そのため、日本は外国との貿易で不利になりやすくなりました。

このように、日本に不利な内容が多かったため、これらは「不平等条約」と呼ばれています。

4.開国による社会の混乱

開国によって外国との貿易が始まると、日本社会は大きく変化しました。

特に問題となったのが、金の流出です。

当時、日本と外国では金と銀の交換比率が違っていたため、外国商人は日本の金を大量に持ち出しました。

その結果、物の値段が全体的に上がり、特に米の価格が高くなったことで、人々の生活は苦しくなっていきました。生活に困った人々の不満は次第に高まり、社会不安も広がっていったのです。

さらに、都市では打ちこわしも発生しました。

打ちこわしとは、人々が商人などを襲い、商品や店を壊す騒動のことです。

人々の不満は次第に幕府へ向かうようになり、「幕府は日本を守れないのではないか」という考えが広がっていきました。

こうして、江戸幕府は少しずつ力を失っていくことになります。

この章のまとめ

  • ペリー来航によって日本は開国を迫られた
  • 日米和親条約で鎖国が終わった
  • 日米修好通商条約は不平等条約だった
  • 開国によって社会が混乱し、幕府への不満が高まった

つまり幕末は、「外国の圧力によって、江戸幕府の支配が揺らぎ始めた時代」だったのです。

第2章 尊王攘夷と幕府の弱体化

黒船来航と開国によって、日本では大きな混乱が起こりました。

その中で強まっていったのが、

  • 「天皇を中心に政治を行うべきだ」
  • 「外国を日本から追い払うべきだ」

という考えです。

こうして幕末には、尊王攘夷(そんのうじょうい)という運動が広がっていきました。

しかし実際には、欧米諸国の軍事力は非常に強く、日本は簡単に外国を追い払える状況ではありませんでした。

この章では、

  • 尊王攘夷運動
  • 朝廷と幕府の対立
  • 薩摩藩・長州藩の変化
  • 幕府の弱体化

について見ていきます。

1.尊王攘夷とは?

幕末に広がった考え方が、「尊王攘夷」です。

尊王とは?

「天皇を敬い、天皇を中心に政治を行うべきだ」という考えです。

当時の政治は江戸幕府が行っていましたが、「幕府ではなく、天皇を中心にするべきではないか」と考える人々が増えていきました。

攘夷とは?

「外国人や外国勢力を日本から追い払う」という考えです。

不平等条約への不満や、外国への反発から、この考えが強まっていきました。

特に下級武士や一部の藩では、「幕府は外国に弱すぎる」という不満が高まっていました。

こうして、「尊王」と「攘夷」が結びつき、尊王攘夷運動が広がっていったのです。

2.朝廷と幕府の対立

幕末になると、京都の朝廷も政治への影響力を強めていきます。

特に孝明天皇は、外国に反対する立場を強く示しました。

そこで幕府は、朝廷との関係を良くするために「公武合体」を進めます。

公武合体とは?

朝廷(公家)と幕府(武士)が協力して政治を行おうとする考えです。

その象徴として行われたのが、和宮降嫁です。

和宮降嫁とは?

孝明天皇の妹・和宮が、14代将軍徳川家茂と結婚したことです。

幕府は朝廷との結びつきを強めることで、政治を安定させようとしました。

しかし、尊王攘夷派の不満はおさまらず、幕府への反発はさらに強まっていきます。

3.外国との衝突と薩摩・長州の変化

尊王攘夷運動が広がる中、日本各地では外国との衝突も起こりました。

1862年には、生麦事件が起こります。

生麦事件とは?

薩摩藩の行列を横切ったイギリス人が殺傷された事件です。

これに対してイギリスは強く抗議し、翌1863年には薩英戦争が起こりました。

薩英戦争

薩摩藩は激しく抵抗しましたが、イギリス海軍の軍事力は非常に強く、大きな被害を受けます。

一方でイギリス側も、「日本は他のアジア諸国のように簡単には屈しない」と感じました。

この戦争を通して薩摩藩は、西洋の軍事力や技術の重要性を強く意識するようになります。

また長州藩も、外国船を砲撃したことで下関戦争を引き起こしました。

しかし、欧米諸国の連合艦隊の前に敗れます。

こうした戦争を通して、薩摩藩や長州藩は、「外国を追い払うには、西洋の技術や軍隊を学ばなければならない」と考えるようになっていきました。

ここが幕末の大きな転換点です。

最初は「攘夷」を掲げていた藩が、しだいに「倒幕」へ向かっていくのです。

4.幕府の力が弱まる

幕末には、幕府への反発が全国で強まっていきました。

その原因の1つが、将軍継嗣問題です。

将軍継嗣問題とは?

次の将軍を誰にするかをめぐる争いです。

幕府の内部でも意見が対立し、政治は混乱しました。

さらに、大老の井伊直弼は反対派を厳しく処罰します。

これを安政の大獄といいます。

安政の大獄

尊王攘夷派の人物などを処罰した事件です。

吉田松陰なども処罰されました。

しかし、この強引な政治への反発は大きく、1860年には井伊直弼が暗殺されます。

これが桜田門外の変です。

幕府の中心人物が暗殺されたことで、「幕府の力が弱くなっている」ことが全国に広まりました。

こうして幕府は、少しずつ政治の主導権を失っていくのです。

この章のまとめ

  • 幕末には尊王攘夷運動が広がった
  • 朝廷の力が強まり、幕府と対立した
  • 薩摩藩・長州藩は外国との戦争を通して変化した
  • 幕府への不満が高まり、政治が不安定になった

つまりこの時代は、「外国との衝突をきっかけに、日本が大きく変わり始めた時代」だったのです。

第3章 倒幕への動き

尊王攘夷運動が広がる中で、幕府の力は次第に弱まっていきました。

一方で、薩摩藩や長州藩は、外国との戦いを通して西洋の軍事力の強さを知り、「これからは幕府を倒し、新しい政府を作るべきだ」と考えるようになります。

こうして幕末は、「攘夷」から「倒幕」へと大きく流れが変わっていきました。

この章では、

  • 薩長同盟
  • 倒幕運動
  • 大政奉還
  • 王政復古の大号令

を通して、江戸幕府が終わりへ向かう流れを見ていきます。

1.薩長同盟の成立

もともと薩摩藩と長州藩は、対立する関係でした。

特に長州征討では、薩摩藩は幕府側として長州藩と戦っています。

しかし両藩は、「幕府を倒さなければ、日本を変えることはできない」という考えで一致し、1866年に薩長同盟を結びました。

この仲立ちをした人物として有名なのが、坂本龍馬です。

なぜ薩長同盟が重要なのか?

当時、薩摩藩も長州藩も有力な大藩でした。

その2つの藩が協力したことで、幕府に対抗する大きな力が生まれたのです。

さらに両藩は、西洋式の軍隊や武器を積極的に取り入れていました。

こうして、「倒幕」を目指す勢力が一気に強まっていきます。

2.倒幕運動の広がり

薩長同盟が成立すると、倒幕の動きは全国へ広がっていきました。

幕府は長州藩を攻撃しようとしますが、うまくいきませんでした。

これを第二次長州征討といいます。

この戦いで幕府は苦戦し、「もはや幕府には全国を支配する力がない」ということが明らかになります。

さらに、14代将軍徳川家茂が亡くなり、15代将軍には徳川慶喜が就任しました。

徳川慶喜は能力の高い人物でしたが、すでに幕府を立て直すのは難しい状況になっていました。

各地では、幕府を支持して今までの政治を守ろうとする勢力と、幕府を倒して新しい政府を作ろうとする倒幕勢力との対立が激しくなっていきました。

こうして日本は、江戸幕府が続くのか、それとも新しい時代へ進むのかという、大きな転換点を迎えることになります。

3.大政奉還

1867年、15代将軍徳川慶喜は大政奉還を行いました。

大政奉還とは?

政治の権力を朝廷へ返すことです。

つまり、「幕府による政治を終わらせる」という意味でした。

なぜ大政奉還を行ったのか?

このまま武力で対立すると、薩摩藩や長州藩との戦争になる可能性が高かったからです。

また、徳川慶喜には、「政権を返しても、徳川家が政治の中心に残れるのではないか」という考えもありました。

こうして約260年続いた江戸幕府は、大きな転換点を迎えることになります。

4.王政復古の大号令

しかし、大政奉還だけでは終わりませんでした。

薩摩藩や長州藩は、徳川家の力を完全に取り除こうと考えていました。

そこで1867年、朝廷は王政復古の大号令を出します。

王政復古の大号令とは?

天皇中心の新しい政治を始めるという宣言です。

これによって、江戸幕府や将軍を中心とした政治の仕組みは正式に廃止され、天皇を中心とする新しい政府が作られることになりました。

つまり、武士による政治が終わり、新しい時代が始まろうとしていたのです。

しかし徳川側もこれに反発し、やがて戦争へと進んでいきます。

それが次の章で学ぶ「戊辰戦争」です。

この章のまとめ

  • 薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結んだ
  • 倒幕運動が全国へ広がった
  • 徳川慶喜は大政奉還を行った
  • 王政復古の大号令で幕府が廃止された

つまりこの時代は、「幕府中心の政治が終わり、新しい政府へ変わろうとしていた時代」だったのです。

第4章 戊辰戦争と江戸幕府の滅亡

王政復古の大号令によって、幕府は正式に廃止されました。

しかし、徳川側は新政府のやり方に反発し、日本はついに戦争へ突入します。

これが「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」です。

この戦争によって、

  • 江戸幕府は完全に滅亡し
  • 武士による政治が終わり
  • 日本は明治時代へ

進んでいくことになります。

この章では、

  • 戊辰戦争
  • 江戸城の無血開城
  • 五稜郭の戦い
  • 江戸幕府滅亡

までの流れを見ていきます。

1.戊辰戦争の始まり

1868年、旧幕府軍と新政府軍の戦いが始まりました。

これが戊辰戦争です。

最初の大きな戦いが、鳥羽・伏見の戦いでした。

鳥羽・伏見の戦い

京都近くの鳥羽・伏見で行われた戦いです。

新政府軍には、薩摩藩や長州藩を中心とする倒幕派の藩が参加していました。これらの藩は、西洋式の軍隊や武器を積極的に取り入れ、新しい政府を作ろうとしていたのです。

一方、旧幕府軍は人数では多かったものの、戦いに敗れてしまいます。

なぜ新政府軍が有利だったのか?

新政府軍は、

  • 「天皇の政府」であることを示した
  • 西洋式の軍隊や武器を取り入れていた

という点が大きかったからです。

また、薩摩藩や長州藩は、薩英戦争や下関戦争を通して西洋の軍事力を学び、軍隊を近代化していました。

これも新政府軍の強さにつながっていました。

この戦いに敗れた徳川慶喜は、大阪から江戸へ戻ります。

こうして、戦いの主導権は新政府軍側へ移っていきました。

2.江戸城の無血開城

新政府軍は江戸へ向かい、江戸城を包囲しました。

しかし、大きな戦争にはなりませんでした。

無血開城とは?

戦わずに城を明け渡すことです。

江戸城では、

  • 新政府側の西郷隆盛
  • 幕府側の勝海舟

が話し合いを行いました。

その結果、江戸城は戦わずに引き渡されます。

なぜ無血開城が重要なのか?

もし江戸で大規模な戦争が起きれば、多くの市民が巻き込まれていた可能性がありました。

無血開城によって、大きな被害を避けることができたのです。

ここは高校入試でも非常によく出る重要ポイントです。

3.全国へ広がる戦い

江戸城が開城した後も、戦いは終わりませんでした。

東北地方では、旧幕府側につく藩も多く、新政府軍との戦いが続きます。

さらに、旧幕府軍の一部は北海道へ渡りました。

そこで最後の戦いとなったのが、五稜郭の戦いです。

五稜郭とは?

北海道の函館に作られた、西洋式の星形の城郭です。

旧幕府軍はここで抵抗を続けましたが、1869年に敗北しました。

これによって、戊辰戦争は終結します。

戊辰戦争の時系列は次の図解で覚えましょう。

戊辰戦争の流れをまとめた縦長の図解。 鳥羽・伏見の戦いから五稜郭の戦いまでを、イラストと矢印で時系列に整理している。 江戸城無血開城や上野寛永寺での彰義隊の抵抗も含め、旧幕府軍の抵抗が京都・江戸・東北・北海道へ移っていく流れが分かる構成になっている。

4.江戸幕府の滅亡

戊辰戦争の終結によって、江戸幕府は完全に滅亡しました。

1603年に徳川家康が幕府を開いてから、約260年続いた武士の政治が終わったのです。

その後、日本では明治政府による新しい政治が始まります。

新政府は、

  • 近代国家づくり
  • 西洋の制度や技術の導入
  • 富国強兵

などを進め、日本を大きく変えていくことになります。

つまり幕末は、「古い武士の時代から、近代国家へ変わる大転換期」だったのです。

この章のまとめ

  • 戊辰戦争で旧幕府軍と新政府軍が戦った
  • 鳥羽・伏見の戦いで新政府軍が勝利した
  • 江戸城は無血開城された
  • 五稜郭の戦いで旧幕府軍が敗れた
  • 江戸幕府は滅亡し、明治時代へ進んだ

こうして日本は、「武士の時代」から「近代国家の時代」へ大きく変わっていったのです。

第5章 まとめ|幕末とはどんな時代だったのか

幕末は、約260年続いた江戸幕府が終わり、日本が近代国家へ向かい始めた時代です。

1853年、アメリカのペリーが黒船を率いて来航すると、日本は開国を迫られました。

幕府は日米和親条約や日米修好通商条約を結びますが、不平等条約への不満や物価上昇によって、人々の不満はしだいに高まっていきます。

その中で広がったのが、尊王攘夷運動です。

しかし、薩摩藩や長州藩は、薩英戦争や下関戦争を通して西洋の軍事力の強さを知り、「外国を追い払うだけでは日本を守れない」と考えるようになりました。

こうして、攘夷を掲げていた藩は、しだいに「倒幕」へ向かっていきます。

やがて、もともと対立していた薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び、倒幕運動は大きく進んでいきました。

そして、次の出来事を経て、1869年に江戸幕府は完全に滅亡します。

  • 大政奉還
  • 王政復古の大号令
  • 戊辰戦争

幕末は単なる「政権交代の時代」ではありません。

外国との出会いをきっかけに、

  • 武士の時代の終わり
  • 天皇中心の新政府
  • 西洋化と近代化

へ進んでいく、日本史の大きな転換点だったのです。

また幕末は、「幕府が弱まる流れ」と「薩摩・長州が成長し変化する流れ」の2つが同時に進み、最後に合流して江戸幕府滅亡へ向かった時代でもありました。

このあと日本は、明治時代に入り、

  • 富国強兵
  • 文明開化
  • 廃藩置県

などを進めながら、近代国家への道を進んでいくことになります。

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この記事を書いた人

【ときおぼえアカデミー】運営者

明治大学卒業。

大学時代、英語や世界史に夢中になり、授業そっちのけで独学に没頭していました。学ぶことの楽しさを伝えたくて、アルバイトで塾講師も経験。

卒業後は金融業界に進みましたが、やがて教育業界への想いが捨てきれず、大手進学塾へ転職。

開成・国立・早慶附属といった難関校を目指す大手進学塾に、約10年勤務していました。

現在はまったく畑違いの仕事をしていますが、中学受験をしない小学生や高校受験を目指す中学生に役立つ情報を発信します。

名前はペンネームです。

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