大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)は、1889年に発布され、1890年に施行された日本で初めての近代憲法です。
江戸時代の日本には、現在のような憲法はありませんでした。しかし、明治時代になると、欧米諸国に追いつくために近代国家づくりが進められ、その中心となったのが大日本帝国憲法です。
この憲法では、天皇が国の主権者(国を治める最高の権限をもつ人)とされ、現在の日本国憲法とは大きく異なる仕組みになっていました。一方で、帝国議会が開かれ、国民が選挙で代表者を選ぶ制度も始まるなど、日本の政治は大きく前進しました。
高校入試では、「伊藤博文」「1889年発布・1890年施行」「天皇主権」「帝国議会」などが重要なポイントです。また、自由民権運動や不平等条約改正との関係をあわせて理解すると、明治時代の流れがより分かりやすくなります。
この記事では、大日本帝国憲法が作られた理由や特徴、日本国憲法との違いまで、中学生にも分かりやすく解説します。
大日本帝国憲法は、日本で初めての近代憲法です。しかし、アジア全体で最初というわけではありません。1876年にはオスマン帝国でミドハト憲法が制定されています。ただし、ミドハト憲法はわずか2年ほどで停止されました。
第1章 なぜ大日本帝国憲法が作られたのか
明治政府は、江戸幕府に代わる新しい国づくりを進めていました。しかし、近代国家として発展するためには、政治の仕組みを明確にした憲法が必要でした。
また、国内では自由民権運動が広がり、「国民の意見を政治に反映させてほしい」という声が高まります。一方で、海外では欧米諸国と対等な関係を築くためにも、近代的な憲法を整えることが重要だと考えられていました。
大日本帝国憲法は、こうした国内外の課題を解決するために制定されたのです。
岩倉使節団が見た欧米の近代国家
1871年、明治政府は岩倉使節団を欧米へ派遣しました。
岩倉具視をはじめ、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文など、明治政府の中心人物が参加し、欧米各国の政治や産業、教育などを視察しました。
使節団は、不平等条約の改正も目指しましたが、この段階では実現できませんでした。一方で、欧米の近代国家を実際に見ることで、日本が欧米諸国と対等になるためには、産業を発展させるだけでなく、法律や政治の仕組みを整える必要があることも認識されていきます。
その後、日本では近代国家づくりが進められ、憲法や国会といった政治制度も整えられていくことになります。
岩倉使節団は大日本帝国憲法を直接作るために派遣されたわけではありませんが、明治政府が欧米の近代国家を学び、日本の政治制度を整えていく大きな流れの一つとして重要な出来事だったのです。

自由民権運動で憲法を求める声が高まった
明治政府では、政治の中心となる人物の多くが薩摩藩や長州藩の出身者で占められていました。このような政治は藩閥政治(はんばつせいじ)と呼ばれ、政府のやり方に不満をもつ人々も少なくありませんでした。
そこで、板垣退助らは自由民権運動を進め、国民が政治に参加できる国会の開設や憲法の制定を求めます。
こうした運動が全国へ広がったことも、大日本帝国憲法が作られる大きなきっかけとなりました。

欧米と対等な国になるためにも憲法が必要だった
明治時代の日本には、欧米諸国と結んだ不平等条約が残っていました。
明治政府は条約改正を目指していましたが、欧米諸国からは「日本はまだ近代国家とはいえない」と見られていました。
そこで政府は、憲法や議会を整えた近代国家であることを示し、日本の国際的な信用を高めようと考えます。
このように、大日本帝国憲法は、国内では国民の政治参加への期待に応え、国外では欧米諸国と対等な関係を築くために制定された、日本の近代化を象徴する憲法だったのです。

第2章 大日本帝国憲法はどのように作られたのか
大日本帝国憲法は、短期間で作られたわけではありません。
明治政府は、欧米のさまざまな国の憲法を調べ、日本に合った政治の仕組みを考えながら、長い時間をかけて憲法を完成させました。
その中心となった人物が、伊藤博文です。

伊藤博文がヨーロッパで憲法を学ぶ
1882年、政府は伊藤博文をヨーロッパへ派遣しました。
伊藤は、ドイツやオーストリアなどを訪れ、各国の憲法や政治制度を調査します。その中でも特に参考にしたのが、プロイセン憲法でした。
プロイセン憲法は、国王(君主)の権限が強く、議会も設けられているという特徴があります。
明治政府は、「急激に民主的な政治へ変えるよりも、天皇を中心とした安定した国づくりが日本にはふさわしい」と考え、この仕組みを取り入れることにしました。

1889年に発布、1890年に施行
こうして完成した大日本帝国憲法は、1889年(明治22年)2月11日に発布されました。
さらに翌年の1890年には施行され、日本では初めて憲法に基づく政治が始まります。
また、この年には第1回帝国議会も開かれ、日本は憲法と議会をもつ近代国家として新たな一歩を踏み出しました。
大日本帝国憲法は、その後1947年に日本国憲法が施行されるまで、およそ半世紀にわたって日本の政治の基本となりました。
大日本帝国憲法について勉強すると、
1889年に発布、1890年に施行
という2つの年が出てきます。
では、「発布」と「施行」は何が違うのでしょうか。
発布(はっぷ)とは、憲法などを正式に国民に知らせることです。
一方、施行(しこう)とは、その憲法を実際に効力のあるものとしてスタートさせることです。
大日本帝国憲法の場合は、
1889年2月11日 大日本帝国憲法を発布
↓
1890年11月29日 大日本帝国憲法を施行
という流れになります。
つまり、簡単にイメージすると、
発布=「この憲法でいきます」と正式に発表する
施行=「今日からこの憲法が実際に効力をもちます」とスタートする
という違いです。
高校入試では、特に「1889年=大日本帝国憲法の発布」をしっかり覚えておきましょう。
第3章 大日本帝国憲法の特徴
大日本帝国憲法は、日本で初めての近代憲法でした。しかし、現在の日本国憲法とは政治の仕組みが大きく異なります。
高校入試では、「天皇主権」「帝国議会」「臣民の権利」の3つが特によく問われるため、しっかり押さえておきましょう。
天皇が主権者だった
大日本帝国憲法では、天皇が国の主権者とされていました。
主権とは、国の政治を行う最高の権限のことです。
そのため、天皇は法律を公布したり、陸軍・海軍を統率する統帥権(とうすいけん)を持ったりするなど、国の政治や軍事について大きな権限を持っていました。こうした天皇の権限を天皇大権といいます。
現在の日本国憲法では、主権は国民にあるため、この点が最も大きな違いです。
大日本帝国憲法では、天皇は陸軍・海軍を統率する統帥権(とうすいけん)を持っていました。
この統帥権をめぐって、昭和時代になると大きな政治問題が起こります。
1930年、浜口雄幸内閣は、海軍の軍備を制限するロンドン海軍軍縮条約を結びました。
ところが、政府が海軍の兵力について国際条約を結んだことに対して、政党や海軍の一部などから、
「天皇の統帥権を政府が勝手に侵しているのではないか」
という批判が起こりました。
これを統帥権干犯問題(とうすいけんかんぱんもんだい)といいます。
この問題では、統帥権が政治的な攻撃に利用され、政府や政党政治を弱める要因の一つとなりました。その後、軍部は政治への影響力を強めていきます。
大日本帝国憲法で定められた政治の仕組みが、昭和時代の政治にも大きく関係していったことが分かります。
帝国議会が設けられた
大日本帝国憲法では、日本で初めて帝国議会が設けられました。
帝国議会は、衆議院と貴族院の二つの議院から成り立っていました。
- 衆議院…国民による選挙で選ばれた議員
- 貴族院…皇族や華族などから選ばれた議員
現在と同じ二院制ではありましたが、貴族院があることや、内閣が国会ではなく天皇に対して責任を負っていたことなど、現在の政治制度とは異なる点も多くありました。
国民は「臣民」とされ、権利には制限があった
大日本帝国憲法では、国民は臣民(しんみん)と呼ばれていました。
臣民には、言論や集会などの自由が認められていましたが、それらの権利は法律の範囲内で認められるものでした。
つまり、現在のように基本的人権が広く保障されていたわけではなく、状況によっては制限されることもありました。
このように、大日本帝国憲法は近代国家としての仕組みを整えた一方で、天皇の権限が強く、国民の権利には一定の制限があったことが大きな特徴です。
第4章 大日本帝国憲法と日本国憲法の違い
1947年、日本では日本国憲法が施行され、大日本帝国憲法に代わる新しい憲法が誕生しました。
大日本帝国憲法と日本国憲法は、どちらも国の基本となるルールですが、考え方や政治の仕組みには大きな違いがあります。
高校入試では、「主権」「天皇の立場」「国民の権利」の3つを比較して覚えておくことが大切です。
| 項目 | 大日本帝国憲法 | 日本国憲法 |
|---|---|---|
| 主権 | 天皇 | 国民 |
| 天皇の立場 | 国を統治する主権者 | 日本国・日本国民統合の象徴 |
| 国民 | 臣民 | 国民 |
| 人権 | 法律の範囲内で保障 | 基本的人権を尊重 |
| 戦争 | 軍隊をもち、天皇が統帥した | 戦争放棄(第9条) |
最も重要なのは「主権」の違い
高校入試で最もよく問われるのは、主権者が誰かという点です。
大日本帝国憲法では、天皇が主権者でした。一方、日本国憲法では、国民が主権者となっています。
この変化によって、日本の政治は国民の意思をより重視する仕組みへと変わりました。
天皇の役割も大きく変わった
大日本帝国憲法では、天皇は政治や軍隊に関する大きな権限を持っていました。
しかし、日本国憲法では、天皇は「日本国および日本国民統合の象徴」と定められ、政治を行う権限は持っていません。
このように、戦後の日本では、天皇の立場や政治の仕組みが大きく見直され、現在の民主的な政治制度へとつながっていきました。]
第5章 一問一答で理解をチェック!
ここまで学んだ大日本帝国憲法について、一問一答で確認してみましょう。
定期テストや高校入試では、「年代」「人物」「憲法の特徴」を組み合わせて問われることがあります。間違えた問題は、第1章〜第4章を読み返して復習しましょう。
問題
- 大日本帝国憲法の制定の中心となった人物は誰ですか。
- 伊藤博文が憲法を作る際、特に参考にしたのはどこの国の憲法ですか。
- 大日本帝国憲法が発布されたのは何年ですか。
- 大日本帝国憲法が施行されたのは何年ですか。
- 大日本帝国憲法では、主権は誰にあるとされていましたか。
- 大日本帝国憲法のもとで開かれた議会を何といいますか。
- 帝国議会を構成していた二つの議院を答えなさい。
- 大日本帝国憲法では、国民は何と呼ばれていましたか。
- 大日本帝国憲法で認められた国民の権利には、どのような特徴がありましたか。
- 日本国憲法では、主権は誰にあると定められていますか。
解答
- 伊藤博文
- プロイセン(ドイツ)の憲法
- 1889年
- 1890年
- 天皇
- 帝国議会
- 衆議院と貴族院
- 臣民(しんみん)
- 法律の範囲内で認められていた(法律によって制限されることがあった)
- 国民
第6章 もっと詳しく学ぶ|大日本帝国憲法で日本はどう変わった?
大日本帝国憲法について、「天皇主権の憲法」と覚えるだけでは、その歴史的な意味は十分に見えてきません。
重要なのは、憲法が制定されたことで、日本の政治にどのような変化が起こったのかです。
幕末から明治時代の大きな流れと一緒に見ていきましょう。
憲法にもとづいて政治を行う国になった
江戸時代には、現在のような憲法や国会はありませんでした。
明治維新によって新しい政府が成立すると、日本は欧米諸国を参考にしながら近代国家づくりを進めます。
その大きな到達点の一つが、1889年に発布された大日本帝国憲法でした。
憲法によって国の政治の基本的な仕組みが定められ、日本は憲法にもとづいて政治を行う近代国家としての制度を整えていったのです。
国民が政治に参加する道が開かれた
もう一つの大きな変化が、帝国議会の開設です。
自由民権運動では、板垣退助らが国会の開設を求めていました。
その後、政府は1881年に国会開設の勅諭を出し、1890年には第1回帝国議会が開かれました。
帝国議会の衆議院議員は選挙によって選ばれたため、限られた範囲ではありましたが、国民が政治に参加する仕組みが生まれたことになります。
ただし、最初の衆議院議員選挙で投票できたのは、一定額以上の直接国税を納める25歳以上の男子に限られていました。
現在のように、すべての成人が選挙に参加できたわけではありません。
「自由民権運動→憲法→国会」の流れをつかもう
大日本帝国憲法は、単独の出来事として覚えるよりも、明治時代の政治の流れとして理解することが大切です。
藩閥政治への不満
↓
自由民権運動が広がる
↓
国会開設を求める声が高まる
↓
1881年 国会開設の勅諭
↓
1889年 大日本帝国憲法発布
↓
1890年 第1回衆議院議員総選挙・第1回帝国議会
この流れを見ると、自由民権運動、大日本帝国憲法、帝国議会は、それぞれ別々の出来事ではなく、日本が近代的な政治制度を整えていく一連の流れだったことが分かります。
高校入試でも、出来事を単独で暗記するだけでなく、「なぜ憲法が作られ、その後何が始まったのか」までつなげて理解しておきましょう。

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