大久保利通は、幕末から明治時代にかけて日本の近代化を進めた政治家です。
同じ薩摩藩出身の西郷隆盛とは幼なじみで、ともに江戸幕府を倒し、明治維新を成功へ導きました。しかし、その後は日本の進むべき道をめぐって対立し、二人は別々の道を歩むことになります。
豪快で人情に厚い西郷隆盛に対し、大久保利通は国の発展を最優先に考え、ときには厳しい決断も下しました。そのため、後世には「冷血漢」と評されることもありました。
幕末には薩英戦争を経験し、さらに岩倉使節団の一員として欧米を視察したことで、日本と欧米列強との大きな国力の差を痛感します。その経験から、「まず国内を豊かで強い国にしなければならない」と考えるようになりました。
明治政府では、廃藩置県や地租改正を進めるとともに、殖産興業による産業の発展や、富国強兵による近代国家づくりを主導します。また、日本初の本格的な機械製糸工場である富岡製糸場の建設も進め、日本の工業化を支えました。
一方で、征韓論をめぐって西郷隆盛と対立し、西郷は政府を去ります。その後、西郷は西南戦争で自決し、その翌年の1878年、大久保利通も紀尾井坂の変で暗殺されました。

第1章 大久保利通が活躍した時代
大久保利通が活躍したのは、江戸時代の終わり(幕末)から明治時代のはじめにかけてです。
このころの日本は、約260年間続いた江戸幕府の政治が大きく揺らぎ、新しい時代へと変わろうとしていました。

黒船の来航で日本は大きく変わる
1853年、アメリカのペリーが黒船を率いて来航し、日本に開国を求めました。
翌年、江戸幕府は日米和親条約を結び、日本は長く続いた鎖国を終えることになります。
しかし、外国との力の差が明らかになると、日本では「どうすれば国を守れるのか」が大きな課題となりました。
薩摩藩で西郷隆盛とともに活躍
大久保利通は、薩摩藩で西郷隆盛とともに政治改革に取り組み、藩の中心人物として活躍するようになります。
1863年には薩英戦争を経験し、欧米の軍事力や技術力の高さを目の当たりにしました。
この経験は、大久保が「外国に対抗するには、日本全体を近代化しなければならない」と考えるきっかけになったといわれています。

明治維新から近代国家づくりへ
その後、大久保利通は西郷隆盛らと協力して倒幕を進め、明治維新を実現します。
しかし、明治政府が誕生すると、大久保の役割は「幕府を倒すこと」から、「新しい日本をつくること」へと変わりました。
欧米に追いつくために、産業や軍隊、教育などを整え、近代国家を築くことが大久保の最大の仕事になったのです。
つまり、大久保利通は、明治維新を成功させただけでなく、その後の日本の土台をつくった人物だったのです。

第2章 大久保利通は何をした?|活躍を時系列で見てみよう
大久保利通は、幕末から明治時代にかけて、日本の近代国家づくりを進めた政治家です。
西郷隆盛とともに江戸幕府を倒して明治維新を成功させましたが、その後は新しい日本をつくることに力を注ぎました。
ここでは、大久保利通がどのような人物と関わりながら活躍したのかを、時系列で見ていきましょう。
① 薩摩藩で活躍する
大久保利通は、現在の鹿児島県にあたる薩摩藩の下級武士として生まれました。
幼なじみである西郷隆盛とともに藩政改革に携わり、藩主・島津久光に才能を認められ、藩の中心人物として活躍するようになります。
1863年には薩英戦争を経験し、欧米の軍事力や技術力の高さを目の当たりにしました。
② 西郷隆盛らと協力し、薩長同盟・明治維新を進める
当時、薩摩藩と長州藩は敵対していました。
しかし、大久保利通は西郷隆盛や坂本龍馬らと協力し、長州藩との関係改善を進めます。
長州藩では木戸孝允らが倒幕を進めており、1866年には薩長同盟が成立しました。
その後、江戸幕府を倒して新しい政府をつくる明治維新が実現します。
③ 岩倉使節団として欧米を視察する
1871年、大久保利通は岩倉使節団の副使として欧米へ渡りました。
アメリカやヨーロッパ各国を視察し、日本との国力や技術力の大きな差を実感します。
この経験から、「外国と戦う前に、日本を豊かで強い国にしなければならない」と考えるようになりました。
④ 日本の近代化を進める
帰国後の大久保利通は、日本の近代化を進める中心人物となります。
廃藩置県によって中央集権国家をつくり、地租改正によって国の財政を安定させました。
また、殖産興業を進め、富岡製糸場などの官営工場を建設し、日本の工業を発展させます。
さらに、近代的な軍隊を整える富国強兵も進め、日本を欧米列強に負けない国へと成長させようとしました。
⑤ 西郷隆盛と対立し、紀尾井坂の変で暗殺される
1873年、朝鮮との外交問題をめぐる征韓論で、西郷隆盛と意見が対立します。
大久保利通は国内の近代化を優先すべきだと主張し、西郷隆盛は政府を去りました。
その後、1877年には西郷隆盛が西南戦争で敗れて自決します。
しかし、その翌年の1878年、大久保利通も紀尾井坂の変で不平士族に暗殺され、その生涯を終えました。

大久保利通の活躍まとめ
| 年 | 主な出来事 |
|---|---|
| 幕末 | 薩摩藩で活躍し、薩英戦争を経験する |
| 1866年 | 西郷隆盛・坂本龍馬・木戸孝允らと協力し、薩長同盟の成立を支える |
| 1868年 | 明治維新に参加し、新政府の中心人物となる |
| 1871〜1873年 | 岩倉使節団の副使として欧米を視察する |
| 明治時代 | 廃藩置県・地租改正・殖産興業・富国強兵を進める |
| 1873年 | 征韓論で西郷隆盛と対立(明治六年の政変) |
| 1878年 | 紀尾井坂の変で暗殺される |
大久保利通は、江戸幕府を倒すだけでなく、その後の日本を近代国家へと発展させる改革を進めました。
西郷隆盛が「維新を成功させた人物」なら、大久保利通は「維新後の日本の土台をつくった人物」として覚えると、二人の違いが理解しやすくなります。
第3章 高校入試で覚えておきたいポイント
大久保利通は、明治維新を成功へ導いただけでなく、その後の日本の近代化を進めた重要人物です。
高校入試では、人物そのものについて細かく問われることもありますが、それ以上に大久保利通が進めた政策や関わった出来事がよく出題されます。
まずは、「大久保利通といえばこれ!」という4つのポイントを押さえましょう。
① 明治政府の中心人物
大久保利通は、西郷隆盛や木戸孝允らとともに明治政府の中心となり、日本の近代国家づくりを進めました。
江戸幕府を倒すだけでなく、その後の新しい国づくりを主導した人物として覚えておきましょう。
② 岩倉使節団に参加し、欧米との違いを学んだ
1871年、大久保利通は岩倉使節団の副使として欧米を訪れました。
そこで工業や軍事、政治制度などを視察し、日本との国力の差を実感します。
この経験から、「まずは日本を豊かで強い国にしなければならない」と考えるようになり、その後の近代化政策へとつながりました。
③ 殖産興業・富国強兵などの改革を進めた
帰国後、大久保利通は日本の近代化を進める中心人物として活躍します。
殖産興業によって工業を発展させ、富国強兵によって近代的な軍隊を整えました。
また、廃藩置県や地租改正を行い、富岡製糸場などの官営工場を建設するなど、日本の近代国家づくりを支えました。
④ 征韓論で西郷隆盛と対立した
1873年、朝鮮との外交方針をめぐる征韓論で、西郷隆盛と意見が対立しました。
大久保利通は国内の近代化を優先すべきだと考え、その意見が採用されます。
その後、西郷隆盛は政府を去り、西南戦争へとつながっていきました。
高校入試ではここをチェック!
- 薩摩藩出身の人物
- 岩倉使節団の副使として欧米を視察した
- 殖産興業・富国強兵を進めた
- 廃藩置県・地租改正を行った
- 富岡製糸場などの官営工場を建設した
- 征韓論で西郷隆盛と対立した
- 紀尾井坂の変で暗殺された
大久保利通は、人物そのものよりも、「どの政策を進めた人物なのか」が高校入試では特によく問われます。
そのため、「大久保利通=岩倉使節団・殖産興業・富国強兵・廃藩置県・地租改正・征韓論」というように、政策や出来事とセットで覚えるのがおすすめです。
第4章 大久保利通と関係する人物・出来事
大久保利通を学ぶときは、関係する人物や出来事も一緒に覚えると、明治維新から近代国家づくりまでの流れが理解しやすくなります。
西郷隆盛
大久保利通と同じ薩摩藩の出身で、幼なじみでもあった人物です。
幕末には協力して江戸幕府を倒し、明治維新を成功へ導きました。
しかし、明治政府では征韓論をめぐって意見が対立し、それぞれ別の道を歩むことになります。
岩倉使節団
1871年、岩倉具視を大使として欧米へ派遣された使節団です。
大久保利通は副使として参加し、欧米の工業や軍事、政治制度を視察しました。
この経験は、その後に進めた殖産興業や富国強兵などの近代化政策につながりました。
殖産興業
明治政府が進めた、工業や産業を発展させる政策です。
大久保利通は、日本を欧米列強に負けない国にするため、富岡製糸場などの官営工場を建設し、日本の近代化を進めました。
征韓論
朝鮮との外交方針をめぐって起こった政治問題です。
大久保利通は国内の近代化を優先すべきだと考え、征韓論に反対しました。
この対立がきっかけで、西郷隆盛は政府を去ることになります。
紀尾井坂の変
1878年に起こった、大久保利通が暗殺された事件です。
西南戦争後も改革を進めていた大久保利通は、不平士族に襲われて命を落としました。
大久保利通の死後も、彼が進めた近代化政策は日本の発展へと受け継がれていきました。
第5章 一問一答で理解をチェック!
ここまで学んだ内容を、一問一答で確認してみましょう。
定期テストや高校入試では、「人物名」と「政策・出来事」を結び付けて覚えているかがよく問われます。間違えた問題は、第1章〜第4章を読み返して復習しましょう。
問題
- 大久保利通は、現在の何県にあたる藩の出身ですか。
- 大久保利通が活躍した藩の名前は何ですか。
- 大久保利通が西郷隆盛らと協力して結んだ同盟を何といいますか。
- 大久保利通が副使として参加し、欧米を視察した使節団を何といいますか。
- 大久保利通が日本の産業を発展させるために進めた政策を何といいますか。
- 大久保利通が近代的な軍隊を整えるために進めた政策を何といいますか。
- 大久保利通が西郷隆盛と対立するきっかけとなった政治問題を何といいますか。
- 大久保利通が工業の発展を目指して建設した代表的な官営工場を何といいますか。
- 大久保利通が暗殺された事件を何といいますか。
- 大久保利通が行った、藩を廃止して県を設置した改革を何といいますか。
解答
- 鹿児島県(当時の薩摩藩)
- 薩摩藩
- 薩長同盟
- 岩倉使節団
- 殖産興業
- 富国強兵
- 征韓論
- 富岡製糸場
- 紀尾井坂の変
- 廃藩置県
この10問に答えられれば、大久保利通についての基本事項はしっかり身についています。
次の章では、「殖産興業とはどのような政策だったのか」を詳しく見ながら、大久保利通が目指した近代国家づくりについて学んでいきましょう。
第6章 もっと詳しく学ぶ|殖産興業とは?大久保利通が目指した近代国家
明治維新によって新しい政府が誕生しましたが、日本はまだ欧米諸国に比べると、工業や軍事力で大きく遅れていました。
大久保利通は、欧米を視察した岩倉使節団でその差を目の当たりにし、「日本を豊かで強い国にしなければならない」と考えます。
そこで進められたのが、殖産興業(しょくさんこうぎょう)です。
殖産興業とは?
殖産興業とは、工業や産業を発展させ、日本を豊かな国にする政策です。
当時の日本には大きな工場がほとんどなかったため、政府が中心となって新しい産業を育てていきました。
富岡製糸場を建設する
殖産興業の代表例が、1872年に建設された富岡製糸場です。
当時、日本の重要な輸出品だった生糸を大量に生産するため、政府はフランスの技術を取り入れた最新の製糸工場を建設しました。
富岡製糸場は、日本の近代工業の出発点となり、現在は世界遺産にも登録されています。
官営工場をつくる
政府は富岡製糸場だけでなく、造船所や鉱山など、さまざまな官営工場をつくりました。
民間だけでは新しい産業を育てることが難しかったため、まず政府がお手本となる工場を運営したのです。
その後、産業が発展すると、多くの工場は民間へ払い下げられ、日本の企業の成長につながっていきました。
鉄道や通信を整える
産業を発展させるためには、人や物を早く運ぶ仕組みも必要です。
そこで政府は、1872年に新橋〜横浜間に日本初の鉄道を開通させました。
また、電信などの通信網も整備され、日本全国で人や物、情報が移動しやすくなりました。
富国強兵も進める
大久保利通は、国が豊かになるだけでは十分ではないと考えました。
欧米列強に負けない国になるためには、近代的な軍隊も必要だったのです。
そこで進められたのが富国強兵です。
「豊かな国(富国)をつくり、その力で強い軍隊(強兵)を整える」という考え方で、殖産興業と並ぶ明治政府の重要な政策となりました。
欧米との差を縮め、日本の近代化を進めた
大久保利通が目指したのは、単に工場を増やすことではありませんでした。
欧米諸国との国力の差を縮め、日本が外国に支配されない近代国家になることが最大の目的だったのです。
殖産興業や富国強兵によって日本は急速に近代化し、その後の日清戦争や日露戦争を戦えるだけの国へと成長していきました。

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