ヨーロッパ史の第1部では、ローマ帝国でキリスト教が広がったところから、中世ヨーロッパ、十字軍、ルネサンス、大航海時代、そして宗教改革までを見てきました。
中世ヨーロッパでは、キリスト教が人々を広く結びつけ、教会やローマ教皇が政治・教育・文化などにも大きな影響を与えていました。
しかし、十字軍による東方との交流、都市や商業の発達、ルネサンス、大航海時代などを経て、ヨーロッパ社会は少しずつ変化します。
そして16世紀の宗教改革によって、西ヨーロッパを広く結びつけていた宗教的な統一も大きく揺らぎました。
こうした変化のなかで、しだいに存在感を強めていったのが国王と国家です。
今回の第2部では、ヨーロッパ史を、「教会の時代」から「国王の時代」へという大きな変化から見ていきます。

なぜ国王は強くなったのか?
中世ヨーロッパでは、現在のように国王が国内のすべてを直接支配していたわけではありません。
各地には大きな土地と軍事力を持つ諸侯がおり、教会も国境をこえて強い権威を持っていました。
しかし、中世の終わりから近世にかけて、この関係が変わっていきます。
都市や商業が発達すると、国王は税を集めて財政力を高め、常備軍や官僚制度を整えるようになります。
一方、封建社会を支えてきた諸侯の力や、ローマ教皇が各国の政治に及ぼす影響力は相対的に低下していきました。
さらに宗教改革によってキリスト教世界が分裂すると、各国の国王は自分の領域を自ら支配しようとするようになります。
こうして、「キリスト教世界の一員」というまとまりだけではなく、「フランス」「イギリス」など一つの国家というまとまりが、しだいに重要になっていきました。
国王に権力を集めた「絶対王政」
国王の力が強まった先に登場したのが絶対王政です。
絶対王政のもとでは、国王が官僚や常備軍を使い、国内の政治を強く支配しました。
その代表として知られるのが、フランス国王ルイ14世です。
ルイ14世の時代、フランスはヨーロッパでも有力な国家となりました。
ここまでを見ると、教会の権威が弱まり、国王が強くなったという単純な交代のようにも見えます。
しかし、ヨーロッパの歴史はここで終わりません。
今度は、強大になった国王の権力そのものに疑問が向けられるようになります。
「なぜ国王が国民を支配するのか?」
国王が大きな権力を持つようになると、新しい問いが生まれました。
「そもそも、なぜ国王には国民を支配する権利があるのか?」という問いです。
国王の権力は神から与えられたものだとする王権神授説も唱えられました。
しかし一方で、人間の理性を使って政治や社会の仕組みを考えようとする人々も現れます。
その代表が、ロック・モンテスキュー・ルソーなどの啓蒙思想家です。
彼らは、人間には生まれながらに権利がある・政治権力にも限界が必要である・政治の力は国民に基づくべきであるといった新しい考え方を示しました。
こうした思想は、やがて実際の政治を大きく動かすことになります。
イギリスからアメリカ、そしてフランスへ
国王の権力に限界を設けようとする動きが早くから進んだのがイギリスです。
17世紀には清教徒革命と名誉革命が起こり、1689年には権利章典が定められました。国王であっても、議会を無視して自由に政治を行うことはできない。そうした政治の仕組みが形づくられていきます。
そして18世紀になると、その考え方は大西洋を越えます。
1776年、北アメリカの13植民地がアメリカ独立宣言を発表しました。
さらに1789年には、絶対王政の代表的な国だったフランスでフランス革命が始まります。
ここでついに、「国家は国王のものなのか、それとも国民のものなのか」という問題が真正面から問われることになります。
「教会 → 国王 → 国民」の真ん中を見る
第2部で見ていくのは、
教会の権威が相対的に低下する
↓
国王と国家が力を強める
↓
絶対王政が成立する
↓
科学や啓蒙思想が発達する
↓
国王の権力そのものが問われる
↓
イギリス革命
↓
アメリカ独立革命
↓
フランス革命
という大きな流れです。
ここで大切なのは、一つひとつの出来事を覚えるだけでなく、それによってヨーロッパ社会がどう変化したのかを理解することです。
ルイ14世、ロック、モンテスキュー、ルソー、アメリカ独立宣言、フランス革命――。
これらはすべて、「誰が国家を支配するのか」という大きな問いのなかでつながっています。
第1部では、国境をこえたキリスト教会が大きな影響力を持つ世界を見てきました。
第2部では、そこから力を強めた国王と国家、そしてその国王の権力に人々がどのような疑問を投げかけていったのかを見ていきます。
その先に待っているのが、「国王の国家」から「国民の国家」へという、ヨーロッパ史のさらに大きな転換です。

第1章 国王の力が強くなる|中世から主権国家の時代へ
中世ヨーロッパでは、国王が国全体を自由に支配していたわけではありません。
国内には広い土地や軍事力を持つ諸侯がおり、さらにローマ教皇も国境をこえて大きな権威を持っていました。
ところが、中世の終わりから近世にかけて、この力関係が少しずつ変わっていきます。
都市や商業が発達し、教会の権威が相対的に低下する一方で、国王は税を集め、軍隊や官僚制度を整えていきました。
こうしてヨーロッパは、国王を中心とする国家の時代へと進んでいきます。
中世の国王は何でもできたわけではない
「国王」と聞くと、国中に命令を出し、すべてを自由に決められる人物を想像するかもしれません。
しかし、中世ヨーロッパの国王は必ずしもそれほど強い存在ではありませんでした。
中世の社会では、国王から土地を与えられた諸侯や騎士が、それぞれの土地を支配していました。大きな諸侯になると、自分の軍隊を持ち、国王に対抗できるほどの力を持つこともありました。
さらに、キリスト教会も多くの土地を所有し、ローマ教皇は国境をこえて宗教的な権威を持っていました。つまり中世ヨーロッパには、国王・諸侯・教会など、さまざまな力を持つ存在が並び立っていたのです。
都市と商業の発達が社会を変えた
この仕組みを変える一つの力となったのが、都市と商業の発達です。
十字軍などを通して東方との交流が活発になると、ヨーロッパ各地で商業が発達しました。都市には商人や手工業者が集まり、貨幣を使った経済も広がっていきます。
これは、土地と農業を中心としていた中世の社会を少しずつ変えていきました。
国王にとっても、商業の発達は重要でした。商人や都市から税を集めることができれば、そのお金を使って国王自身の力を強くすることができるからです。
国王はしだいに、土地を持つ諸侯だけに頼らず、お金によって国家を動かす力を持つようになっていきました。
国王は常備軍と官僚を持つようになる
財政力を高めた国王は、常備軍を整えるようになります。中世には、戦争のたびに諸侯や騎士の軍事力を頼ることがありました。
しかし、自分自身の軍隊を持てば、国王は諸侯への依存を減らすことができます。
さらに、税を集めたり法律を運用したりする官僚も整えられていきました。
国王の命令を各地へ届け、それを実際に実行する仕組みがつくられていったのです。
こうして、
税を集める
↓
常備軍や官僚を持つ
↓
国王の命令を国内に広げる
↓
さらに国王の力が強くなる
という変化が進んでいきました。
火器の発達も騎士や諸侯の力を変えた
軍事技術の変化も重要でした。中世の戦争では、重い鎧を身につけた騎士や、諸侯が持つ城が大きな力を持っていました。
しかし、火薬を使った鉄砲や大砲が広がると、戦争のあり方が変化します。大砲は、それまで強固だった城壁を破壊する力を持っていました。
また、大規模な軍隊を維持し、新しい武器をそろえるには多額のお金が必要です。
そのため、豊かな財政を持つ国王や国家が軍事面でも有利になっていきました。
「強い騎士をたくさん従えている領主が強い」という中世的な軍事のあり方から、「多くの税を集め、大規模な軍隊を維持できる国家が強い」という時代へ変わり始めたのです。
宗教改革でキリスト教世界の統一が揺らぐ
そして、第1部の最後で見た宗教改革も大きな転換でした。
ルターやカルヴァンなどの宗教改革によってプロテスタントが広がると、西ヨーロッパは宗教的にも分裂します。
イギリスでは国王ヘンリ8世がローマ教皇から離れ、イギリス国教会を成立させました。
国王が自国の宗教にも大きく関わるようになったのです。
その後、宗教対立と国家間の争いが複雑に絡み合った三十年戦争を経て、1648年にウェストファリア条約が結ばれます。
ヨーロッパでは、ローマ教皇などが全体をまとめるというよりも、それぞれの国家が自らの領域を治めるという考え方がより重要になっていきました。
「キリスト教世界」から「国家」が並び立つヨーロッパへ
ここまでの変化を大きく見ると、ヨーロッパ社会の姿がかなり変わってきたことが分かります。
中世には、「キリスト教世界のなかに多くの国や領主が存在する」という性格が強くありました。
それが、
都市・商業の発達
↓
国王の財政力が高まる
↓
常備軍・官僚制度の整備
↓
諸侯の力が相対的に低下
↓
宗教改革によって宗教的統一が揺らぐ
↓
それぞれの国家が自らの領域を支配する
という方向へ変化していきます。
もちろん、これは一気に起きた変化ではありません。国によって事情も大きく異なりました。
しかし、ヨーロッパ史を長い目で見ると、国王と国家が以前よりはるかに大きな力を持つようになったことは重要です。
そして17世紀になると、その国王の権力を極めるような政治が登場します。
絶対王政です。
その代表として知られるのが、「太陽王」と呼ばれたフランス国王ルイ14世でした。
第2章 絶対王政|なぜ国王はこれほど強くなった?
中世ヨーロッパでは、国王が現在の政府のように国内のすべてを直接支配していたわけではありません。
各地の諸侯や領主が土地や軍事力を持ち、それぞれの地域を治めていました。また、国や地域をこえて人々を結びつけるカトリック教会の力も強く、ローマ教皇は国王にも大きな影響を与える存在でした。
しかし、中世の終わりから近世にかけて、このような社会の仕組みは大きく変わっていきます。
都市や商業が発達し、貨幣を使った経済が広がると、国王は税を集め、そのお金で官僚や軍隊を持てるようになりました。
さらに宗教改革によってローマ教皇の権威が揺らぐと、国王が国内の政治や宗教をまとめる力も強まっていきます。
こうして16〜17世紀ごろのヨーロッパでは、国王が大きな権力を持って国を治める絶対王政が発達しました。
国王が国全体を直接動かす
絶対王政の大きな特徴は、国王が国内を中央から動かす仕組みを整えていったことです。
中世の国王は、戦争をするときにも各地の諸侯や騎士の力に頼る部分が大きく、国内のすべての地域へ自分の命令を直接行き届かせることも簡単ではありませんでした。
しかし商業が発達して貨幣が広く使われるようになると、国王は国内から税を集め、そのお金を使って自分に仕える官僚を置くようになります。
官僚は国王の命令を各地に伝え、税を集め、国を治める仕事を担いました。
さらに国王は、戦争のたびに諸侯から兵士を集めるのではなく、国家が継続して維持する常備軍を持つようになります。
つまり、国王が税・官僚・常備軍を握ることで、諸侯の力に頼らず、国家を中央から動かす力が強くなっていったのです。
現在では、一つの政府が全国から税を集め、行政組織を通して政策を実行し、国家として軍隊を持つことは珍しくありません。
しかし、多くの諸侯や領主がそれぞれの地域で力を持っていた中世ヨーロッパから考えると、これは非常に大きな変化でした。
なぜ国王の力が強くなった?
では、なぜこの時代になって国王はこれほど大きな力を持てるようになったのでしょうか。
その理由は一つではありません。
中世後期になると、都市や商業が発達して貨幣経済が広がり、国王は税を集めやすくなりました。税収が増えれば、官僚を雇ったり常備軍を維持したりすることができます。
一方、中世社会で大きな力を持っていた諸侯や騎士のあり方も変化していきます。戦争の方法が変わり、国王が火器を備えた軍隊などを維持できるようになると、地方の諸侯が持つ軍事力だけに頼る必要も小さくなっていきました。
そしてもう一つ重要なのが、ローマ教皇との関係です。
第1部で見たように、中世ヨーロッパではカトリック教会が国や地域をこえて大きな影響力を持っていました。
しかし十字軍の時代以降、教皇の権威はしだいに揺らぎ、16世紀の宗教改革によってプロテスタントが誕生すると、「キリスト教徒であればローマ教皇に従う」という中世以来の仕組みも崩れていきました。
その一方で、国王は自分が治める領域の政治や制度をまとめる力を強めていきます。
つまり、都市と商業の発達、貨幣経済の広がり、諸侯の力の変化、教皇権の相対的な低下などが重なって、国王を中心とする国家が形成されていったのです。
「国王の権力は神から与えられた」
国王の力が強くなると、その大きな権力を正当化する考え方も登場します。
それが王権神授説です。
王権神授説とは、「国王の権力は神から与えられたものである」という考え方です。
国王の権力が神から与えられたものなら、人々が勝手に国王を選んだり、その権力を奪ったりすることはできないと考えられます。
こうした考え方は、国王が強い権力を持つことを正当化するために使われました。
ここで面白いのは、「教会の時代」が終わりへ向かったからといって、キリスト教そのものの影響がなくなったわけではないことです。
ローマ教皇の政治的な影響力が以前ほど絶対的ではなくなっていく一方、国王は「神から権力を与えられた」という考え方を利用して、自らの権力を正当化しました。
宗教の権威そのものが消えたのではなく、その権威と政治権力との結びつき方が変化していったと考えると分かりやすいでしょう。
ルイ14世|フランス絶対王政の最盛期
絶対王政を代表する人物が、フランス国王ルイ14世です。
ルイ14世は1643年に即位し、1715年まで70年以上にわたってフランス国王の地位にありました。
「太陽王」と呼ばれたルイ14世は、国王のもとへ権力を集中させ、フランス絶対王政の最盛期を築きます。
その象徴となったのが、パリ郊外につくられた豪華なベルサイユ宮殿です。
ベルサイユ宮殿というと、「国王がぜいたくな暮らしをするためにつくった巨大な宮殿」という印象を持つかもしれません。
しかし、政治的にも重要な意味がありました。
ルイ14世は有力な貴族たちをベルサイユの宮廷に集め、国王を中心とする宮廷生活に組み込みました。
地方で大きな力を持つ貴族たちを国王の近くに置き、地位や名誉を国王から与えられる仕組みに取り込むことで、貴族を統制しやすくしたのです。
ベルサイユ宮殿は、「フランスという国家の中心には国王がいる」ことを目に見える形で示す巨大な舞台でもありました。
強い国家をつくるには「お金」が必要だった
しかし、国王が強い権力を持つだけでは絶対王政を維持できません。
官僚を雇い、常備軍を維持し、外国との戦争を行うには、莫大なお金が必要です。
そこで絶対王政の国々では、国家が産業や貿易に積極的に関わり、国の富を増やそうとする重商主義政策が進められました。
フランスでは、ルイ14世に仕えたコルベールが国内産業を保護し、輸出を増やして国の富を蓄えようとしました。
さらにヨーロッパ諸国は海外へ進出し、植民地や貿易をめぐって競争するようになります。
ここで、第1部で見た大航海時代とのつながりが見えてきます。
大航海時代にヨーロッパ人が世界各地へ進出すると、海外から莫大な富や商品がヨーロッパへ流れ込み、世界規模の交易が広がりました。
そして国王を中心とする国家が強くなるにつれて、海外進出も個々の航海者や商人だけの活動ではなく、国家同士が富や植民地を争う動きへと発展していきます。
強い国家を維持するために富を求め、その富を求めてさらに海外へ進出する――。
絶対王政の発達は、ヨーロッパ諸国が世界へ進出していく動きとも深く結びついていたのです。
絶対王政は「近代国家」への一歩でもあった
絶対王政という言葉から、「国王が国民を好き勝手に支配する政治」という印象を持つかもしれません。
もちろん、現在の民主政治とは大きく異なり、人々が政治に参加する権利も十分には認められていませんでした。
しかし、歴史を大きな流れで見ると、絶対王政にはもう一つ重要な意味があります。
国王のもとで全国から税を集め、官僚が行政を行い、国家が常備軍を維持し、国内の制度を統一していく仕組みが発達したことです。
それまでのヨーロッパでは、多くの諸侯や領主がそれぞれの地域で大きな力を持っていました。
そこから、一つの国家が国内をまとめて動かす社会へと変化していったのです。
もちろん、絶対王政の国家と現在の近代国家は同じものではありません。
それでも、中央政府が税・行政・軍事などをまとめて動かす仕組みが発達したという点では、その後の近代国家につながる重要な段階だったといえます。
イギリスでも絶対王政は発達した
では、ヨーロッパの国々はすべてフランスと同じ道を進んだのでしょうか。
ここで重要になるのがイギリスです。
イギリスでも16世紀には王権が強まり、ヘンリ8世やエリザベス1世の時代には絶対王政が発達しました。
特にヘンリ8世は、ローマ教皇と対立すると、1534年の首長法によってイギリスの教会をローマ教皇から切り離し、国王をその頂点に置きました。
これは、第1部で見た宗教改革と国王の力の強まりを考えるうえでも象徴的な出来事です。
中世にはローマ教皇が国境をこえて大きな宗教的権威を持っていましたが、今度は国王が自分の国内の教会まで統制するようになったのです。
しかし、イギリスにはフランスとは異なる特徴もありました。
中世から議会が発達し、国王が税を集める場合などには、議会との関係を無視することができませんでした。
そのため17世紀になると、さらに権力を強めようとする国王と、それを制限しようとする議会との対立が激しくなっていきます。
1642年には清教徒革命が始まり、1649年には国王チャールズ1世が処刑されるという、ヨーロッパでも衝撃的な事態へ発展しました。
さらに1688年の名誉革命、1689年の権利章典を経て、イギリスは国王の権力を議会と法律によって制限する方向へ進んでいきます。
つまり、フランスとイギリスはともに国王の力が強くなる時代を経験しながら、その後は異なる道を進んだのです。
フランスでは国王の権力をさらに集中させる絶対王政が最盛期を迎え、イギリスでは国王の権力に限界を設ける立憲政治へと転換していきました。
なぜイギリスでは、このような大きな転換が起こったのでしょうか。
次章では、清教徒革命と名誉革命を中心に、イギリスが絶対王政から立憲政治へと進んでいく過程を詳しく見ていきましょう。
第3章 イギリス革命|国王の権力に限界をつくる
前章で見たように、イギリスでも16世紀には国王の力が強まり、絶対王政が発達しました。
しかし、フランスでルイ14世が国王のもとに権力を集中させていったのに対し、17世紀のイギリスは別の道を進むことになります。
イギリスでは国王と議会が激しく対立し、ついには国王が処刑されました。
ところが、その後に国王をなくしてみても政治は安定せず、再び王政を復活させます。それでも国王と議会の対立は終わりませんでした。
こうした試行錯誤の末にイギリスがたどり着いたのが、「国王をなくすのではなく、国王の権力を議会と法律によって制限する」という政治の形でした。
この大きな転換を、清教徒革命と名誉革命を中心に見ていきましょう。
イギリスには国王の権力を制限する伝統があった
イギリスで国王の権力に限界を設けようとする動きは、17世紀になって突然始まったものではありません。
その重要な出発点の一つが、1215年のマグナ・カルタ(大憲章)です。
当時のイングランド国王ジョンは、外国との戦争などで多額のお金を必要とし、貴族たちに重い負担を求めていました。
これに反発した貴族たちは国王に要求を突きつけ、ジョン王にマグナ・カルタを認めさせます。
もちろん、マグナ・カルタは現在の憲法のように、すべての国民に民主的な権利を保障したものではありません。
それでも、「国王であっても、好き勝手に政治をしてよいわけではない」という考えにつながっていった点が重要です。
その後、イギリスでは議会も発達していきました。
国王が税を集める場合などには議会との関係が重要になり、国王と議会がともに政治に関わる伝統が形成されていきます。
この議会の存在が、フランスとは異なるイギリスの歴史をつくる大きな要因となりました。
国王と議会の対立が激しくなる
16世紀のイギリスでは、ヘンリ8世やエリザベス1世のもとで王権が強まりました。
しかし、1603年にエリザベス1世が亡くなるとテューダー朝が終わり、ステュアート朝が始まります。
ステュアート朝の国王たちは、国王の権力は神から与えられたものだとする王権神授説を重視しました。
そのため、議会との対立がしだいに深まっていきます。
特にチャールズ1世は、議会の同意を得ずに税を集めようとするなど、議会を軽視した政治を進めました。
これに対して議会は、1628年に権利の請願を提出します。
議会の同意なしに税を課さないことなどを国王に求めたものでした。
チャールズ1世はいったんこれを認めますが、その後も議会との対立を続けます。
税をめぐる問題だけでなく宗教をめぐる対立も加わり、国王と議会の関係はついに修復できないところまで悪化していきました。
1642年、清教徒革命が始まる
1642年、国王側と議会側の対立はついに内戦へ発展しました。
これが清教徒革命(ピューリタン革命)です。
議会側で大きな力を持つようになったのがクロムウェルでした。
クロムウェルは清教徒を中心とする軍隊を率い、国王軍を破っていきます。
そして内戦に敗れたチャールズ1世は裁判にかけられ、1649年に処刑されました。
これは当時のヨーロッパにとって衝撃的な出来事でした。
絶対王政の時代には、国王の権力は神から与えられたものだという王権神授説も唱えられていました。
ところがイギリスでは、その国王を人間が裁判にかけ、処刑したのです。
ここには、「国王であっても無制限の権力を持つわけではない」という考え方が、非常に激しい形で現れていました。
チャールズ1世の処刑後、イギリスでは王政が廃止され、共和政が始まります。
国王をなくしても、うまくいかなかった
では、国王をなくしたことで自由で安定した政治が実現したのでしょうか。
実際には、そう単純ではありませんでした。
共和政のもとで大きな権力を握ったクロムウェルは、1653年に護国卿となります。
クロムウェルは軍事力を背景に強い権力を持ち、議会を解散することもありました。
また、アイルランドを厳しく征服し、多くの犠牲者を出しています。
国王の強い権力に反対して革命を起こしたにもかかわらず、その後のクロムウェルの政治も強権的なものになっていったのです。
「国王を倒せば、自由な政治が実現する」わけではなかった。
イギリスはここで、難しい問題に直面することになります。
クロムウェルが1658年に死去すると政治は混乱し、共和政を維持することが難しくなりました。
そこでイギリスは、再び国王を置くことを選びます。
1660年、王政が復活する
1660年、処刑されたチャールズ1世の息子チャールズ2世が国王となり、イギリスで王政が復活しました。
これを王政復古といいます。
清教徒革命で国王を処刑してから、わずか11年後のことです。
「国王の権力が強すぎる」という問題から国王を処刑したにもかかわらず、今度は国王のいない政治もうまく安定しなかったため、再び王政へ戻ったのです。
しかし、これは清教徒革命以前の政治へそのまま戻ったことを意味しません。
「国王を置くとしても、その権力をどこまで認めるのか」という問題は残ったままでした。
チャールズ2世のあと、1685年に弟のジェームズ2世が即位すると、国王と議会の対立は再び深まっていきます。
1688年、名誉革命が起こる
ジェームズ2世はカトリックを信仰し、議会を無視して自らの権力を強めようとしたため、議会から強く警戒されました。
そこで議会の有力者たちは、ジェームズ2世の娘メアリと、その夫でオランダの統治者だったウィリアムをイギリスへ招きます。
1688年、ウィリアムが軍を率いてイギリスへ上陸すると、ジェームズ2世はフランスへ逃れました。これが名誉革命です。
清教徒革命のような大規模な内戦をともなわずに国王が交代したことから、この名前で呼ばれています。
そして議会は、ウィリアム3世とメアリ2世を新しい国王として迎えました。
新しい国王には、議会の権利を認め、そのルールのもとで政治を行うことを求めたのです。
1689年、権利章典が成立する
1689年、ウィリアム3世とメアリ2世は議会の示した権利の宣言を受け入れ、それをもとに権利章典が成立しました。
権利章典では、国王が議会の同意なしに法律の効力を停止したり、勝手に税を課したりすることなどが制限されました。
清教徒革命では、国王の強い権力に対して「国王そのものをなくす」という方法がとられました。
しかし、その後の共和政も安定しませんでした。
そこで名誉革命後のイギリスがたどり着いたのは、「国王は存在する。しかし、国王も議会と法律に従わなければならない。」という政治の形でした。
こうしてイギリスでは、国王の権力を法律によって制限し、議会を中心に政治を行う立憲政治が発達していきます。
現在のイギリスにも国王がいますが、国王が自由に政治を決める絶対王政の国ではありません。
その政治の原型が、17世紀の革命を通してつくられていったのです。
フランスとイギリスは正反対の方向へ進んだ
ここで、前章のフランスと比べてみましょう。
17世紀後半のフランスでは、ルイ14世が国王のもとに権力を集中させ、絶対王政の最盛期を迎えていました。
一方、ほぼ同じ時代のイギリスでは、国王と議会の対立を経験し、国王の権力を制限する仕組みがつくられていきます。
つまり、同じように国王の力が強くなった西ヨーロッパでも、その先には異なる道がありました。
フランスでは、国王に権力を集中する方向へ。
イギリスでは、国王の権力を議会と法律によって制限する方向へ。
そしてイギリスが経験した流れも、一直線ではありませんでした。
清教徒革命で国王を処刑し、共和政をつくったものの、クロムウェルの政治も強権的になり、王政を復活させます。それでも国王と議会の対立が再び起こり、名誉革命を経て、ようやく「国王は残すが、その権力には限界を設ける」という政治の形にたどり着いたのです。
ロック|「政治は誰のためにあるのか」
名誉革命のころ、イギリスの思想家ロックは、政治について重要な考え方を示しました。
ロックは、人間には生まれながらにして生命・自由・財産などを守られる権利があると考えました。
これを自然権といいます。
そして、政府は国王のために存在するのではなく、人々の権利を守るために存在すると考えます。
もし政府が人々の権利を守らず、権力を乱用するのであれば、人々にはその政府に抵抗し、政治のあり方を変える権利があるとしました。
これは、王権神授説とは大きく異なる考え方です。
王権神授説では、「国王は神から権力を与えられているから支配できる」と考えたのに対し、ロックは、「政府は人々の権利を守るために存在する」と考えました。
政治を見る視点そのものが、国王から人間へと移り始めていることが分かります。
そして18世紀になると、モンテスキューやルソーなどの思想家たちも、政治や社会を人間の理性によって考え直そうとします。
次章では、こうした啓蒙思想がどのように広がり、やがてアメリカ独立やフランス革命へとつながっていったのかを見ていきましょう。
第4章 科学革命と啓蒙思想|国王の支配を「理性」で問い直す
17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパでは政治や社会についての考え方にも大きな変化が起こりました。
その背景にあったのが、科学革命と啓蒙思想です。
ルネサンス以降、ヨーロッパでは古代の知識を学ぶだけでなく、「自分で観察し、自分の理性で考える」という姿勢が強まっていました。
その姿勢は、まず自然界の理解を大きく変えていきます。
そして、「自然界に法則があるのなら、人間の社会や政治にも、理性によって考えられる仕組みがあるのではないか」という発想へとつながっていきました。
ここから、国王の権力や政治のあり方そのものが問い直されるようになります。
「昔からそう言われている」ではなく、自分で確かめる
中世ヨーロッパの学問では、キリスト教の教えや古代の権威ある学者の考えが大きな影響を持っていました。
しかし、ルネサンスを経て、人間自身の理性や観察を重視する姿勢が強まります。
その大きな転換を象徴する一人がコペルニクスです。
当時は、地球が宇宙の中心にあるという天動説が広く受け入れられていました。
これに対してコペルニクスは、地球などの惑星が太陽の周りを回るという地動説を唱えました。
その後、ガリレオ・ガリレイは望遠鏡による天体観測などを通して地動説を支持します。
重要なのは、単に「天動説が地動説に変わった」ということだけではありません。
権威ある考えであっても、観察や理性によって確かめることができる。
そんな新しい学問の姿勢が広がっていったことです。
ニュートンが「宇宙にも法則がある」ことを示す
17世紀には、イギリスのニュートンが万有引力の法則などを示しました。
地上で物が落ちる現象と、月や惑星が動く現象。
一見まったく違うように見える現象が、同じ自然の法則によって説明できると考えたのです。
これは当時の人々に大きな影響を与えました。
複雑に見える自然界も、一定の法則に従って動いており、人間は理性を使うことでその法則を理解できる。
そう考えられるようになったからです。
すると、この考え方は自然科学だけでは終わりません。
「人間の社会や政治も、昔からの慣習や国王の命令だけでなく、理性によって考え直せるのではないか」
という問いが生まれてきます。
「国王だから支配できる」は本当に正しいのか
絶対王政では、国王の権力は神から与えられたものだとする王権神授説が唱えられました。
しかし、理性によって世界を考えようとする人々からすれば、「なぜ神が国王に権力を与えたと言えるのか?」「なぜ一人の国王が大きな権力を持ってよいのか?」という疑問が生まれます。
政治や社会についても、人間の理性を使ってよりよい仕組みを考えようとする思想が広がりました。
これが啓蒙思想です。
「啓蒙」には、人々を無知や迷信から解放し、理性によって物事を考えられるようにするという意味があります。
ロック|人間には生まれながらの権利がある
イギリスの思想家ロックは、人間には生まれながらに持っている権利があると考えました。
これを自然権といいます。
生命・自由・財産などは、国王から与えてもらうものではありません。
人間である以上、もともと持っている権利だと考えたのです。
そして政府は、人々の権利を守るためにつくられるものだとしました。
もし政府が人々の権利を奪うのであれば、人々にはその政府を変える権利があると考えます。
これは王権神授説とは大きく異なる政治の考え方でした。
国王がいるから国民が存在するのではなく、国民の権利を守るために政府が存在する。
政治を見る方向が逆転し始めたのです。
モンテスキュー|権力を一か所に集めてはいけない
フランスの思想家モンテスキューは、政治権力が一人や一つの機関に集中することを危険だと考えました。
そこで、立法・行政・司法という三つの権力を分け、互いに抑制し合う仕組みを唱えました。
これが三権分立です。
国王が法律をつくり、それを実行し、さらに裁判まで自由に行えるなら、その権力を止めるものがありません。
だからこそ、権力そのものを分ける必要がある。
この考え方は、後のアメリカ合衆国の政治制度をはじめ、近代国家の仕組みに大きな影響を与えます。
ルソー|国の主人は誰なのか
そしてフランスの思想家ルソーは、さらに根本的な問題を考えました。
「国家を動かす最終的な権力は、いったい誰のものなのか?」
という問題です。
ルソーは、その権力は国王ではなく人民にあると考えました。
これが人民主権の考え方です。
中世以来のヨーロッパでは、国王や皇帝が国家を支配することが当然のように考えられてきました。
しかし、国家の主人は国王ではなく人民であると考えるなら、政治の仕組みそのものが大きく変わります。
ここに、第3部で扱う「国民の時代」につながる考え方が、すでに現れ始めています。
科学から政治へ|「自分で考える」時代へ
ここまでの長いヨーロッパ史を振り返ると、興味深いつながりが見えてきます。
ルネサンスでは、古代ギリシャ・ローマ文化を見直し、人間の理性や能力にも改めて目が向けられました。
科学革命では、自然界を観察と理性によって理解しようとしました。
そして啓蒙思想では、その理性によって政治や社会そのものを考え直そうとしたのです。
大きく見ると、
神や伝統的な権威を中心に世界を理解する
↓
人間自身が観察し、理性を使って世界を理解する
↓
政治や社会も人間の理性によってつくり直せると考える
という変化が起きていました。
もちろん、これによってヨーロッパの人々が宗教を捨てたわけではありません。
ニュートンをはじめ、科学革命を担った人々のなかにも強い信仰を持つ人はいました。
重要なのは、宗教を信じることと、自然や社会を人間の理性によって考えることが、しだいに両立するようになったことです。
そして啓蒙思想は、思想の世界だけでは終わりませんでした。
やがて、「人間には生まれながらの権利がある」という考えを、本当に政治の仕組みにしようとする人々が現れます。
その最初の大きな舞台となったのが、ヨーロッパの外側にあったイギリスの13植民地です。
1776年、彼らはイギリスからの独立を宣言します。
アメリカ独立革命です。
第5章 アメリカ独立革命|啓蒙思想が現実の政治を動かした
18世紀、ロックやモンテスキュー、ルソーなどの啓蒙思想家たちは、政治について新しい考えを示しました。
人間には生まれながらに権利がある。
政府の権力には限界が必要である。
政治は国王だけのためにあるのではない。
こうした考えは、最初は思想家たちが本や文章のなかで論じたものでした。
しかし18世紀後半になると、その思想を実際の政治に結びつけようとする大きな動きが起こります。
その舞台となったのが、北アメリカにあったイギリスの13植民地でした。
なぜアメリカの植民地はイギリスに反発した?
17世紀以降、多くのヨーロッパ人が北アメリカへ移住し、イギリスは大西洋岸に13の植民地を築いていました。
植民地にはそれぞれ議会があり、ある程度の自治も行われていました。
ところが18世紀になると、イギリス政府は植民地への統制を強めます。
大きなきっかけとなったのが、フランスなどとの戦争でした。
イギリスは戦争によって大きな財政負担を抱え、その費用の一部を北アメリカの植民地にも負担させようとします。
そこで、さまざまな税を植民地に課しました。
これに植民地の人々が反発します。
彼らが掲げた有名な言葉が、「代表なくして課税なし」です。
植民地からイギリス議会へ代表を送ることができないのに、なぜその議会が自分たちに税を課すことができるのか。
これは単なる「税金を払いたくない」という問題ではありませんでした。
「自分たちの同意なしに、政府は自分たちを支配してよいのか」
という政治の根本に関わる問題だったのです。
ボストン茶会事件から独立戦争へ
イギリスと植民地の対立はしだいに激しくなります。
1773年には、植民地の人々がイギリス東インド会社の茶を海へ投げ捨てるボストン茶会事件が起こりました。
イギリス政府はこれに対して厳しい措置をとります。
すると植民地側の反発はさらに強まり、1775年にはイギリス軍と植民地側の武力衝突が始まりました。
アメリカ独立戦争です。
植民地側の軍を率いたのがジョージ・ワシントンでした。
しかし、世界最強クラスの軍事力を持つイギリスに対して、植民地側が独力で戦うのは簡単ではありません。
ここで、ヨーロッパの国際関係も大きく関わってきます。
フランスがアメリカを支援した理由
植民地側を支援した代表的な国がフランスです。
ここだけを見ると、「絶対王政のフランスが、自由を求めるアメリカを助けた」という少し不思議な構図に見えます。
しかし、フランス国王が自由や民主主義を広めるためにアメリカを支援したわけではありません。
当時のフランスとイギリスは、植民地や貿易をめぐって世界各地で争う強力なライバルでした。
フランスは、以前の戦争でイギリスに敗れて北アメリカの植民地の多くを失っていました。
そのため、「イギリスの植民地が独立すれば、ライバルであるイギリスを弱らせることができる」という国際政治上の狙いから、アメリカ側を支援したのです。
フランスは武器や資金を提供し、のちには軍隊も派遣しました。
この支援はアメリカ側にとって大きな力となりました。
しかし、この判断はのちにフランス自身へ思わぬ形で返ってくることになります。
アメリカ独立戦争への多額の支出によって、すでに苦しかったフランス王室の財政がさらに悪化したからです。
1776年、アメリカ独立宣言
戦争の途中である1776年7月4日、13植民地はアメリカ独立宣言を発表しました。
起草の中心となったのがトマス・ジェファソンです。
独立宣言では、人間は平等につくられ、生命や自由などの権利を持つという考えが示されました。
そして政府は、人々の権利を守るために存在すると考えます。
ここには、ロックなどの啓蒙思想の強い影響を見ることができます。
つまり、啓蒙思想家が考えた「人間の権利」が、独立宣言という政治的な文書として現実の世界に登場したのです。
これは世界史上、大きな意味を持つ出来事でした。
アメリカ合衆国が誕生する
フランスなどの支援も受けた植民地側は戦争を続け、最終的にイギリスに勝利しました。
1783年、イギリスはアメリカの独立を認めます。
こうしてアメリカ合衆国が誕生しました。
その後、1787年にはアメリカ合衆国憲法が制定されます。
ここでは、モンテスキューが唱えた三権分立の考え方も取り入れられました。
立法・行政・司法という権力を分け、一つの場所に権力が集中することを防ごうとしたのです。
そしてワシントンが初代大統領となりました。
ヨーロッパの思想家たちが考えてきた政治思想が、大西洋を越えた新しい国家の制度に組み込まれていったのです。
ただし「すべての人が平等」だったわけではない
アメリカ独立宣言は、人間の自由や平等を掲げました。
しかし、当時のアメリカ社会がその理念をすべて実現していたわけではありません。
アフリカ系の人々に対する奴隷制度は残りました。
先住民も、新しい国家の政治に平等に参加できたわけではありません。
女性にも選挙権はありませんでした。
つまり、「すべての人には権利がある」という理念が示されても、その「すべての人」に実際には誰が含まれるのかという問題は残っていたのです。
自由や平等という理念と現実との間には、大きな隔たりがありました。
この問題は、その後のアメリカ史でも長く問われ続けることになります。
アメリカ独立革命がフランスへ与えた衝撃
それでも、アメリカ独立革命の成功はヨーロッパに大きな影響を与えました。
それまで思想家たちが語っていた、
自然権
国民主権につながる考え方
権力を制限する政治
といった思想が、単なる理想ではなく、実際の国家をつくる原理になり得ることを示したからです。
さらに、アメリカ独立戦争には多くのフランス人も関わりました。
彼らは自由や権利を掲げるアメリカの革命を目の当たりにし、その考えをフランスへ持ち帰ります。
一方、フランス政府はアメリカを支援するために多額の資金を投入し、財政をさらに悪化させていました。
つまりアメリカ独立革命はフランスに、自由や権利という「思想」と、深刻な財政難という「現実」の両方をもたらしたのです。
そして1789年、絶対王政を代表する国だったフランスで人々が立ち上がり、フランス革命が始まりました。
ここで、「国王の時代」は大きな転換点を迎えることになります。
第6章 フランス革命|「国王の国家」から「国民の国家」へ
1789年、フランスでフランス革命が始まりました。
フランス革命というと、
バスティーユ牢獄の襲撃
「自由・平等」を求める人々
国王ルイ16世の処刑
といった場面がよく知られています。
しかし、このシリーズの大きな流れから見ると、さらに重要な意味があります。
それまでのヨーロッパでは、国王が国家を支配することが当然のように考えられてきました。
フランス革命は、その考え方そのものを大きく揺さぶり、「国家の主人は国王ではなく、国民なのではないか」という新しい時代への扉を開いたのです。
フランスは深刻な財政難に陥っていた
18世紀後半のフランスでは、ルイ16世が国王でした。
フランスはヨーロッパ有数の大国でしたが、政府の財政は深刻な状態にありました。
その背景には、長年にわたる戦争や宮廷にかかる費用などがありました。
さらにフランスは、イギリスを弱めるためにアメリカ独立戦争を支援し、多額の資金を投入しました。
その結果、財政難はいっそう深刻になります。
そこで政府は税制を改革し、より広い層から税を集めようとしました。
しかし、ここでフランス社会が抱えていた大きな問題が表面化します。
「平等」とはほど遠かった身分制度
当時のフランス社会は、大きく三つの身分に分けられていました。
第一身分:聖職者
第二身分:貴族
第三身分:平民
人口の大部分を占めていたのは第三身分でした。
農民・都市の労働者だけでなく、商人や法律家など経済力や知識を持つ市民(ブルジョワジー)も第三身分に含まれます。
しかし、聖職者や貴族にはさまざまな特権があり、税の負担にも大きな不公平がありました。
一方で、啓蒙思想によって、
「人間には生まれながらに権利がある」
「政治は国民のためにあるべきだ」
という考えが広がっています。
さらにアメリカでは、その考えを掲げて独立革命が成功していました。
人々が、「なぜ生まれた身分によって特権が決まるのか?」と疑問を持つ条件がそろっていたのです。
三部会から国民議会へ
財政難を解決するため、ルイ16世は1789年に三部会を開きました。三部会は、聖職者・貴族・第三身分の代表が集まる身分制の議会です。
しかし、議決方法などをめぐって第三身分と国王側の対立が起こります。
第三身分の代表たちは、自分たちこそ国民の大多数を代表しているとして国民議会をつくりました。
ここには非常に重要な変化があります。
それまで政治の基本となっていたのは、聖職者・貴族・平民という「身分」でした。
それに対して、「私たちは身分ではなく、フランス国民を代表する」という考え方が登場したのです。
「国民」が政治の主人公として姿を現し始めました。
1789年7月14日、バスティーユ牢獄襲撃
国王が軍隊を集めると、パリの人々の間では、「国王が武力で国民議会をつぶすのではないか」という不安が高まりました。
1789年7月14日、パリの民衆は武器を求めてバスティーユ牢獄を襲撃します。バスティーユ牢獄は、国王の強い権力を象徴する存在とみなされていました。
この事件をきっかけに革命はフランス各地へ広がっていきます。
現在のフランスでは、7月14日が国民的な祝日となっています。それほどフランス革命を象徴する出来事なのです。
人権宣言|人間は自由で平等である
1789年8月、国民議会は人権宣言(フランス人権宣言)を採択しました。
そこでは、人間は生まれながらに自由で平等な権利を持つことや、主権のもとになるものは国民にあるという考えが示されました。
ここまで学んできた思想とのつながりを見ると、その意味がよく分かります。
ロックの自然権
モンテスキューの権力分立
ルソーの人民主権
アメリカ独立宣言
など、17〜18世紀に広がった新しい政治思想が、フランス革命にも大きな影響を与えていたのです。
思想として語られてきた自由・平等・国民の権利が、ヨーロッパの大国フランスで政治を動かし始めました。
ついに国王が処刑される
革命はそこで終わりませんでした。
フランスでは1791年に憲法が制定され、国王の権力を制限する立憲君主制が始まります。
しかし革命が進むなかで、国王ルイ16世に対する不信は強まっていきました。
さらに、フランス革命が自国にも広がることを恐れたオーストリアやプロイセンなどとの戦争も始まります。
革命は国内だけの問題ではなく、ヨーロッパ全体を巻き込む出来事になっていきました。
1792年、フランスでは王政が廃止され、共和政が成立します。
そして1793年、ルイ16世が処刑されました。
かつて「神から権力を与えられた」と考えられていた国王が、国民によって裁かれ、処刑されたのです。
「国王の時代」が大きく揺らいだことを象徴する出来事でした。
革命は理想どおりには進まなかった
しかし、自由と平等を掲げれば、すぐに理想的な社会が完成するわけではありません。
外国との戦争や国内の反乱が続くなか、革命政府は反対派を厳しく取り締まるようになります。
ロベスピエールらによる恐怖政治では、多くの人々が処刑されました。
革命を守るために強い力を使ううちに、革命そのものが暴力を拡大していった側面もあったのです。
フランス革命は、「自由と平等を掲げた美しい革命」だけでも、「国王を殺して混乱した革命」だけでもありません。
理想と現実、自由と暴力が入り混じった複雑な出来事でした。
それでも世界は革命以前には戻らなかった
フランス革命はその後も混乱を続けます。
しかし、一度広がった考え方まで消すことはできませんでした。
人間は生まれながらに権利を持つ
身分による特権は当然ではない
国家の主権は国民にある
という考えが、政治の現実のなかに登場したからです。
ここまで第2部で見てきた歴史は、
国王が力を強める
↓
絶対王政
↓
国王の権力への疑問
↓
イギリス革命
↓
啓蒙思想
↓
アメリカ独立革命
↓
フランス革命
という一本の流れとして見ることができます。
しかし、フランス革命で「国民の時代」が完成したわけではありません。
むしろ、ここが始まりです。
革命によって生まれたフランスは、周囲の君主国との戦争を続けることになります。
その戦争のなかで、「国王のためではなく、自分たちの国を守るために戦う国民」が大きな力を発揮します。
そして、その国民軍から一人の軍人が急速に頭角を現しました。
ナポレオン・ボナパルトです。
フランス革命によって生まれた自由・平等という理念と、国民が国家を支えるという新しい力は、ナポレオン戦争を通してヨーロッパ全体へ広がっていくことになります。
終章 「教会の時代」から「国王の時代」へ|主権国家はどう生まれた?
ここまで、ヨーロッパが「教会の時代」から「国王の時代」へと変化していく流れを見てきました。
十字軍、宗教改革、大航海時代、絶対王政、イギリス革命――。
一つひとつを見ると、まったく別の出来事のように思えるかもしれません。
しかし、ここで少し視点を高くしてヨーロッパ史全体を眺めてみると、これらの出来事の背後に、ある大きな変化があったことが見えてきます。
それが、現在の世界では当たり前になっている主権国家が形成されていくことです。
主権国家とは、一定の領域と国民を持ち、国内では最高の権力を持つとともに、外国から支配されず独立して政治を行う国家のことです。
この「国内では最高の権力を持ち、国外に対しては独立している」という点が、主権国家を理解するうえで重要です。
では、なぜこのような国家が生まれたのでしょうか。
中世ヨーロッパまでさかのぼって考えてみましょう。
中世ヨーロッパでは権力が重なり合っていた
現在の日本では、日本の法律や税金について外国の国王が決めることはありません。
外国の宗教指導者が日本政府より上に立ち、日本国内の政治について最終的な決定を下すこともありません。
「日本という領域の政治は、日本自身が決める」
私たちは、この仕組みをほとんど当たり前のものとして受け止めています。
しかし、中世ヨーロッパの政治はそれほど単純ではありませんでした。
各地には国王がいましたが、その国内には大きな土地や軍事力を持つ諸侯がいて、国王の命令が国の隅々まで直接届いていたわけではありません。
さらに西ヨーロッパのキリスト教世界には、国境をこえて大きな権威を持つローマ教皇がいました。
そして、神聖ローマ皇帝のように、現在の一つの国の枠には簡単に収まらない権威も存在しました。
つまり中世ヨーロッパでは、国王・諸侯・ローマ教皇・皇帝などの権力が重なり合っていたのです。
現在のように、「ここからここまでが一つの国家で、その内部について最終的に決めるのはこの国家である」という境界は、まだそれほど明確ではありませんでした。
主権国家を「箱」として考えてみよう
ここで、現在の国家を一つの「箱」として考えてみましょう。
箱には一定の領域があり、その内側の政治について最終的に決定する権力があります。
この、一定の領域の中で政治について最終的に決定する権力を主権といいます。
そして、そのような主権を持つ国家が主権国家です。
主権国家には、二つの重要な特徴があります。
一つは、内側をまとめることです。
国内の諸侯などがそれぞれ勝手に政治をするのではなく、中央の政治権力が国内をまとめて治めます。
もう一つは、外側の権力から自立することです。
ローマ教皇や皇帝、外国の君主などが、その国家の政治について最終的な決定を下すことはできません。
つまり、「この箱の中のことは、この箱の中の政治権力が最終的に決める」という考え方です。
もちろん、こうした仕組みがある日突然できあがったわけではありません。
中世の終わりから近世にかけて、長い時間をかけて少しずつ形づくられていきました。
この部分なら、こう書き替えたい。
宗教改革から宗教戦争へ|主権国家の形成につながる
宗教改革というと、中学歴史では、ルターがローマ教会による贖宥状の販売などを批判した出来事として学ぶことが多いでしょう。
そのため、「腐敗していたカトリック教会をルターが批判し、教会を改革した」というイメージを持っている人も多いかもしれません。
もちろん、教会のあり方や信仰をめぐる問題は、宗教改革を理解するうえで重要です。
しかし、ヨーロッパ史全体の大きな流れを考えると、宗教改革の影響はそれだけではありません。
この記事で特に注目したいのは、宗教改革によって西ヨーロッパのキリスト教世界が分裂し、その後の宗教戦争を経て、主権国家が形成されていく流れにつながったことです。
それまでの西ヨーロッパでは、カトリック教会とローマ教皇が国や地域をこえて大きな権威を持っていました。
ところが宗教改革によってプロテスタントが誕生すると、「西ヨーロッパのキリスト教徒はカトリック」という、それまでの大きなまとまりが崩れていきます。
そして国王や各地域の支配者も、カトリックにとどまるのか、プロテスタントを受け入れるのかを選ぶようになっていきました。
その結果、ヨーロッパ各地ではカトリックとプロテスタントの対立が激しくなり、宗教戦争が繰り返されます。
しかし、戦争が長期化するにつれて、争いは単純な「カトリック対プロテスタント」だけでは説明できなくなっていきます。
宗教の違いだけでなく、国王や諸侯が自らの領域をどう支配するのか、国家同士がどのような関係を築くのかという政治的な問題も大きく絡むようになったからです。
そして、その行き着く先の一つが1618〜1648年の三十年戦争と、その講和となった1648年のウェストファリア条約でした。
大きな流れで見ると、
ローマ教皇を頂点とするカトリック世界
↓
宗教改革でプロテスタントが誕生
↓
西ヨーロッパのキリスト教世界が分裂
↓
各地で宗教戦争が起こる
↓
宗教だけでなく国家・君主の利害が前面に出る
↓
三十年戦争
↓
ウェストファリア条約
↓
それぞれの政治権力が自らの領域を治める主権国家を基本とする秩序へ
と捉えることができます。
つまり宗教改革は、単に「教会の問題をルターが批判した出来事」として終わったのではありません。
結果として、国境をこえてローマ教皇のもとに結びついていた中世的なキリスト教世界が変化し、それぞれの国家や政治権力が自らの領域を治める世界へ向かう大きな転換の一つになったのです。
国王は「箱」の内側もまとめていった
一方、国家の内側でも大きな変化が進みました。
都市や商業が発達して貨幣経済が広がると、国王は税を集め、そのお金で官僚や常備軍を持つことができるようになります。
国王は地方の諸侯の力だけに頼らず、自らの命令を国内へ行き届かせる仕組みを整えていきました。
つまり国王は、外側ではローマ教皇などの権威から自立し、内側では諸侯を抑えて国内をまとめる方向へ進んでいったのです。
ここから、フランスのルイ14世に代表される絶対王政が発達していきます。
中世のようにさまざまな権力が重なり合う社会から、国王を中心として一つの領域をまとめる国家へ。
主権国家という「箱」の輪郭が、少しずつはっきりしてきました。
1648年、ウェストファリア条約が大きな節目となる
主権国家が形成されていく流れを考えるうえで、大きな節目となったのが1648年のウェストファリア条約です。
17世紀前半のヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントの対立に、各国の政治的な利害も絡んだ三十年戦争が起こりました。
長期間にわたった戦争の末、1648年に結ばれた一連の講和条約がウェストファリア条約です。
この条約を一つのきっかけとして、それぞれの政治権力が自らの領域を治め、複数の国家が並び立つ国際秩序がさらに形成されていきます。
そのためウェストファリア条約は、主権国家を基本とするヨーロッパの国際秩序が形成されていく重要な節目として知られています。
ただし、1648年のある日を境に、現在と同じ主権国家が突然完成したわけではありません。
主権国家は、中世の終わりから近世にかけて長い時間をかけて形成されていったものです。
ウェストファリア条約は、その長い変化を理解するうえでの大きな目印と考えるとよいでしょう。
最初に「国家という箱」の中心にいたのは国王だった
ここまで来ると、絶対王政についても少し違った見方ができるようになります。
絶対王政というと、「強い国王が国民を好き勝手に支配した古い政治」という印象を持つかもしれません。
もちろん、現在の民主政治とは大きく異なり、国民が政治の主人だったわけでもありません。
しかし、長い歴史の流れで見ると、絶対王政にはもう一つの側面があります。
国王は国内から税を集め、官僚を置き、常備軍を整え、諸侯の力を抑えながら、一つの国家を中央から動かす仕組みを発達させました。
つまり絶対王政は、国王に大きな権力が集中した政治であると同時に、後の国民主権国家にもつながる「国家という箱」を形づくっていく重要な段階でもあったのです。
絶対王政を単なる「民主主義以前の悪い政治」として見るだけでは、近代国家が成立していく歴史の半分しか見えてきません。
次に問われたのは「その国家は誰のものか?」
ところが、国家という「箱」がはっきりしてくると、今度は別の問題が生まれます。
「その国家を最終的に動かす権利は、なぜ国王が持っているのか?」
という問いです。
イギリスでは、清教徒革命や名誉革命を経て、国王の権力を議会と法律によって制限する立憲政治が発達しました。
さらにロックなどの思想家は、政治は国王のためではなく、人々の権利を守るために存在すると考えます。
こうした考えは啓蒙思想へとつながり、アメリカ独立にも大きな影響を与えました。
そして1789年のフランス革命では、ついに絶対王政を代表する国だったフランスで人々が立ち上がります。
ここで問われたのは、国家という「箱」をなくすことではありません。
「その箱の主人は、国王なのか。それとも国民なのか」
ということでした。
主権国家という箱を引き継ぎながら、その主人を国王から国民へ変えていく。
ここから、次の「国民の時代」が始まります。
もう一度「教会の時代」と「国王の時代」を振り返ってみよう
ここまで理解したうえで、第1部「教会の時代」と第2部「国王の時代」をもう一度振り返ってみると、最初に読んだときとは少し違って見えるはずです。
十字軍、宗教改革、大航海時代、絶対王政、イギリス革命といった出来事が、ばらばらの暗記事項ではなくなります。
教会が国境をこえて大きな権威を持つ世界から、国王を中心とする主権国家が並び立つ世界へ。
ヨーロッパ社会そのものが大きく変化していく過程の中に、それぞれの出来事を置いて考えられるようになるからです。
現在の私たちにとって、世界がいくつもの国に分かれ、それぞれの国が自分たちの政治を決めることは当たり前に見えます。
しかし、その「当たり前の国家」にも、それがつくられるまでの長い歴史があります。
ここまで理解できれば、人物や年号を覚えるだけではなく、ヨーロッパ史をかなり大局的につかめているといってよいでしょう。
そして歴史は、ここで終わりません。
国家という「箱」ができたあと、人々は「その国家の主人は誰なのか」を問い始めました。
教会の時代から国王の時代へ。そして、国王の時代から国民の時代へ。
次の記事では、フランス革命から始まる「国民の時代」を見ていきましょう。

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