薩長同盟は、1866年に薩摩藩と長州藩の間で結ばれた同盟です。
薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允(桂小五郎)らが話し合い、坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介によって成立しました。
高校入試では、
- 1866年に成立
- 薩摩藩と長州藩が同盟
- 坂本龍馬らが仲介
- 西郷隆盛と木戸孝允が中心
といったポイントを押さえておけばよいでしょう。
しかし、薩長同盟の重要性を理解するには、これだけでは十分ではありません。
薩摩藩と長州藩は、もともと協力関係にあったわけではなく、薩長同盟のわずか2年ほど前には京都で実際に戦っていた敵同士でした。
それほど対立していた二つの藩が、なぜ手を結ぶことになったのでしょうか。
その背景には、幕府と長州藩の対立、薩摩藩の立場の変化、そして両者を結びつけた坂本龍馬や中岡慎太郎らの働きがありました。
さらに薩長同盟の成立は、その後の第二次長州征討、倒幕、明治維新へと続く大きな流れにもつながっていきます。
この記事では、薩摩と長州がなぜ対立していたのかというところから、薩長同盟が成立した理由、坂本龍馬らの役割、そして同盟がその後の歴史に与えた影響まで、流れに沿ってわかりやすく見ていきます。
第1章 薩長同盟とは?|1866年、薩摩と長州が手を結ぶ
薩長同盟とは、1866年に薩摩藩と長州藩の間で結ばれた政治的な同盟です。
薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允(桂小五郎)らが中心となって話し合い、坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介によって成立しました。
薩摩藩と長州藩は幕末を代表する有力藩だった
幕末の日本では、江戸幕府の力がしだいに弱まり、「これから日本をどのような国にしていくのか」をめぐって政治が大きく動いていました。
そのなかで大きな力を持っていたのが、薩摩藩(現在の鹿児島県)と長州藩(現在の山口県)です。
どちらも幕末を代表する有力な藩でしたが、はじめから協力していたわけではありません。
むしろ京都の政治をめぐって激しく対立し、1864年の禁門の変では、薩摩藩は会津藩などとともに長州藩と戦っています。
つまり、薩長同盟とは、つい最近まで敵として戦っていた二つの有力藩が手を結んだ出来事だったのです。
坂本龍馬らの仲介で同盟が成立
薩摩藩と長州藩は対立していましたが、幕末の政治情勢が変化するなかで、しだいに両藩の利害が近づいていきます。
そこで両藩の間を取り持ったのが、土佐藩出身の坂本龍馬や中岡慎太郎らでした。
1866年、京都で西郷隆盛や木戸孝允らによる話し合いが行われ、薩長同盟が成立します。
ただし、薩長同盟が結ばれた時点で、薩摩藩と長州藩が「力を合わせて幕府を倒そう」と約束したわけではありません。
当時、幕府は長州藩を再び攻撃しようとしていました。薩長同盟では、長州藩が幕府から攻撃された場合には薩摩藩が支援することなどが取り決められ、両藩が協力して幕府に対抗する関係がつくられました。
その後、薩摩藩と長州藩はさらに幕府との対立を深め、やがて倒幕を目指して協力する関係へと進んでいきます。
薩長同盟が倒幕への大きな転換点になる
薩長同盟が結ばれた1866年、幕府は長州藩を再び攻撃する第二次長州征討を行います。
しかし、薩摩藩は幕府に協力しませんでした。
そして長州藩は幕府軍を退け、幕府の力が以前ほど強くないことが明らかになっていきます。
その後、薩摩藩と長州藩はさらに倒幕へと進み、江戸幕府の終わりと明治維新につながっていきました。
そのため薩長同盟は、幕府に対抗する勢力が大きくまとまり、倒幕への流れが加速する重要な転換点として位置づけられています。
では、なぜそれほど仲の悪かった薩摩藩と長州藩が手を結ぶことができたのでしょうか。
次章では、薩長同盟が成立する前の両藩の対立から見ていきましょう。
第2章 薩摩と長州はなぜ対立していた?|同盟の2年前には戦っていた
薩長同盟という名前からは、薩摩藩と長州藩が幕府に対抗する仲間だったように思えるかもしれません。
しかし、実際にはその逆です。
薩長同盟が結ばれる少し前まで、薩摩藩と長州藩は京都の政治をめぐって激しく対立していました。
しかも、その対立は政治上の意見の違いだけでは終わりません。1864年には、両藩が実際に武器を持って戦うことになります。
長州藩が京都で勢力を伸ばす
幕末になると、朝廷のある京都が政治の重要な舞台となりました。
この京都で勢力を伸ばしたのが長州藩です。
長州藩は尊王攘夷を強く主張し、三条実美ら尊王攘夷派の公家と結びついて、朝廷の政治に大きな影響を与えるようになりました。
一方、薩摩藩はこのころ、朝廷と幕府が協力して政治を行う公武合体を進めようとしていました。
薩摩藩と長州藩は、京都の政治をめぐって対立するようになっていったのです。
八月十八日の政変|薩摩と会津が長州を京都から追い出す
1863年、八月十八日の政変が起こります。
薩摩藩は会津藩などと協力し、長州藩と尊王攘夷派の公家たちを京都の政治の中心から追い出しました。
三条実美ら7人の公家も京都を離れ、長州へ向かいます。これが七卿落ちです。
長州藩から見れば、薩摩藩は自分たちの政治的な立場を奪った相手です。
ここから両藩の対立はさらに深まっていきました。
長州藩はなぜ「朝敵」になった?
ここで少し不思議なことが起こります。
長州藩は、「尊王」(天皇を尊ぶこと)を強く主張していた藩です。
それなのに、その後、長州藩は朝廷の敵である「朝敵」とされます。
なぜなのでしょうか。
八月十八日の政変によって京都から追い出された長州藩は、自分たちの立場を回復しようとしました。
そして1864年、長州藩の軍勢が京都へ進みます。
これが禁門の変(蛤御門の変)です。
長州藩は会津藩や薩摩藩などと戦いましたが敗北しました。戦闘は京都御所の周辺にまで及びます。
つまり長州藩は、尊王という考え方を捨てたから朝敵になったのではありません。
朝廷の命令に反して軍勢を京都へ進め、御所周辺で戦ったため、朝廷の敵とみなされたのです。
ここで覚えておきたいのは、「尊王攘夷を主張する長州藩=当時の朝廷そのもの」ではないということです。
朝廷の内部にもさまざまな考えを持つ公家がおり、孝明天皇も長州藩の行動を支持していたわけではありません。
そのため、天皇を尊ぶ「尊王」を掲げていた長州藩が「朝敵」になるという、一見すると矛盾するようなことが起こったのです。
禁門の変から長州征討へ
禁門の変によって朝敵となった長州藩に対して、幕府は処罰のための軍を送ります。
これが第一次長州征討です。
さらに長州藩は、下関で外国船を砲撃した報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四か国艦隊からも攻撃を受けました。
長州藩は、国内では幕府から攻撃され、国外では欧米列強の軍事力を見せつけられるという厳しい状況に追い込まれます。
一時は幕府に従おうとする勢力が藩内で主導権を握りました。
しかし、その状況を大きく変えたのが高杉晋作らです。
高杉らは藩内で主導権を握り、長州藩は再び幕府に対抗する方向へ進んでいきました。
こうして長州藩と幕府の対立は決定的になっていきます。
ところが、このころ薩摩藩でも幕府に対する考え方が変わり始めていました。
長州を京都から追い出し、禁門の変では長州と戦った薩摩が、なぜ今度は長州と手を結ぼうとしたのでしょうか。
次章では、薩摩と長州それぞれの事情から、薩長同盟が成立した理由を見ていきます。
第3章 なぜ敵同士の薩摩と長州が手を結んだのか?
禁門の変では敵として戦った薩摩藩と長州藩。
それほど対立していた両藩が、なぜわずか2年ほどで手を結ぶことになったのでしょうか。
もちろん、坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介は重要でした。
しかし、仲介する人物がいるだけでは同盟は成立しません。
幕末の政治情勢が大きく変化するなかで、薩摩と長州の双方に「相手と協力する理由」が生まれていたのです。
長州藩|幕府との対立が決定的になる
禁門の変で敗れ、朝敵となった長州藩は、第一次長州征討によって幕府から厳しく追及されました。
しかし、その後、高杉晋作らが藩内で主導権を握ると、長州藩は再び幕府に対抗する方向へ進みます。
幕府もこうした長州藩の動きを認めず、再び長州を攻撃しようとしました。
長州藩にとって、幕府との新たな戦いに備えることは大きな課題となります。
ところが、長州藩には大きな問題がありました。
朝敵とされていた長州藩は、外国との武器取引も自由には行いにくい立場にあったのです。
そこで重要な役割を果たしたのが、薩摩藩と坂本龍馬らでした。
薩摩藩|幕府を支える立場から距離を置き始める
一方の薩摩藩も、政治的な立場を変化させていました。
八月十八日の政変や禁門の変では、薩摩藩は会津藩などと協力して長州藩を排除する側に立っています。
しかし、薩摩藩が目指していたのは、幕府の命令にただ従い続けることではありませんでした。
薩摩藩は朝廷を中心とした政治のなかで自らの発言力を強めようとしており、幕府が長州藩を徹底的に攻撃することにも、しだいに距離を置くようになります。
さらに薩摩藩には、長州藩と幕府が争って双方が弱体化すれば、日本全体が不安定になるという懸念もありました。
こうして薩摩藩でも、長州を敵として排除し続けるより、協力関係をつくった方がよいのではないかという考えが強まっていきます。
武器購入を通して薩摩と長州が近づく
とはいえ、禁門の変で戦ったばかりの両藩が、いきなり同盟を結べるわけではありません。
両藩の関係を近づけるきっかけの一つとなったのが、武器の購入でした。
幕府との戦いに備えたい長州藩は、新式の銃や軍艦などを必要としていました。
そこで坂本龍馬らが関わり、薩摩藩の名義を利用して長州藩が武器を購入する取引が進められます。
一方、長州藩から薩摩藩へ米を送るなどの協力も行われました。
政治的には激しく対立していた薩摩と長州が、こうした実際の取引を通して少しずつ協力関係を築いていったのです。
「共通の敵」が両藩を近づけた
薩摩と長州が突然仲良くなったわけではありません。
長州藩には、再び幕府から攻撃される危険がありました。
薩摩藩もまた、幕府中心の政治からしだいに距離を置くようになっていました。
つまり、両藩の関係を大きく変えたのは、友情ではなく政治情勢の変化と利害の一致だったのです。
そして、この二つの有力藩の間を行き来し、実際に結びつけていったのが坂本龍馬や中岡慎太郎らでした。
しかし、長州藩には薩摩藩への強い不信感が残っていました。
何しろ、長州を京都から追い出し、禁門の変で敵として戦った相手です。
その壁をどのように乗り越え、薩長同盟は成立したのでしょうか。
次章では、坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介と、薩長同盟が成立するまでの動きを詳しく見ていきます。
第4章 坂本龍馬は何をした?|薩長同盟成立までの道のり
薩摩藩と長州藩には、互いに協力する理由が生まれていました。
しかし、条件が整ったからといって、すぐに手を結べたわけではありません。
わずか数年前まで激しく対立し、禁門の変では実際に戦った相手です。特に長州藩には、薩摩藩に対する強い不信感が残っていました。
そこで重要な役割を果たしたのが、坂本龍馬や中岡慎太郎らでした。
坂本龍馬はなぜ薩摩と長州の間に入れたのか
坂本龍馬は土佐藩の出身です。
薩摩藩士でも長州藩士でもなかったため、両藩の間を比較的自由に動ける立場にありました。
そして龍馬の考え方に大きな影響を与えた人物の一人が、幕臣の勝海舟です。
勝海舟は、欧米列強が東アジアへ進出するなかで、それぞれの藩が争っているだけでは日本を守ることはできないと考えていました。
龍馬は勝海舟のもとで学び、神戸海軍操練所にも参加します。
こうした経験を通して龍馬も、薩摩や長州、土佐といった藩の枠をこえて、日本全体を考えるようになっていきました。
その龍馬にとって、薩摩と長州が争い続ける状況は望ましいものではありませんでした。
中岡慎太郎も薩長を結びつけるために動いた
薩長同盟の仲介者として、高校入試では坂本龍馬が特に重要です。
ただし、実際に両藩を結びつけるために動いたのは龍馬だけではありません。
同じ土佐藩出身の中岡慎太郎も、薩摩藩と長州藩の間を行き来し、両藩の関係改善に力を尽くしました。
龍馬や中岡のように、薩摩・長州のどちらにも直接属さない人物が間に入ったことは、対立していた両藩が接近するうえで大きな意味を持っていました。
すぐにはまとまらなかった薩長の話し合い
両藩の接近が進み、1866年、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)が京都を訪れ、薩摩藩の西郷隆盛らとの話し合いが行われました。
しかし、長年の対立による不信感は簡単には消えません。
長州側には、朝敵とされた自分たちから薩摩に協力を求めることへの抵抗がありました。一方の薩摩側にも、すぐに話をまとめられない事情がありました。
両者の間には、協力する必要性を感じながらも、自分たちからは簡単に歩み寄れないという難しさがあったのです。
ここで龍馬らの仲介が重要になります。
両藩の間に入り、互いの考えを伝えながら話し合いを進めたことで、薩摩と長州はようやく協力関係を築くことになります。
1866年、薩長同盟が成立
こうして1866年、薩摩藩と長州藩の間に薩長同盟が成立しました。
同盟では、幕府と長州藩が戦争になった場合の薩摩藩の対応や、長州藩の立場を回復するために朝廷へ働きかけることなどが確認されました。
ここで注意したいのは、薩長同盟の時点で、「薩摩と長州が協力して幕府を倒そう」と直接約束したわけではないことです。
薩長同盟によって成立したのは、まず幕府に対して薩摩と長州が協力できる関係でした。
しかし、それまで幕府側に立って長州と戦った薩摩が、今度は長州を支える側へ回ったことには大きな意味があります。
龍馬は同盟の内容を確認する役割も果たした
薩長同盟については、もう一つ坂本龍馬を象徴する史料が残っています。
同盟成立後、木戸孝允は話し合いの内容を書き記し、それが間違っていないか龍馬に確認を求めました。
龍馬はその文書の裏に、内容に間違いがないことを確認する文章を書いています。
つまり龍馬は、両藩の間を取り持っただけでなく、薩摩と長州の間で交わされた約束の証人ともいえる役割を果たしたのです。
高校入試では「薩長同盟を仲介した坂本龍馬」と覚えることが重要です。
しかし、その背景まで見ていくと、龍馬一人が突然二つの藩を仲直りさせたわけではないことが分かります。
薩摩と長州の利害が近づき、龍馬や中岡慎太郎らが両者をつなぐことで、ようやく薩長同盟は実現したのです。
そして、この同盟が成立した1866年、幕府は再び長州藩を攻撃します。
次章では、薩長同盟が第二次長州征討とその後の倒幕にどのような影響を与えたのかを見ていきましょう。
第5章 薩長同盟は何を変えた?|第二次長州征討から倒幕へ
1866年に薩長同盟が成立すると、薩摩藩と長州藩の関係は大きく変わりました。
それまで長州藩を敵としていた薩摩藩が、今度は長州藩を支える側に回ったのです。
そして同じ1866年、幕府は長州藩を再び攻撃します。
第二次長州征討です。
この戦いは、薩長同盟がその後の歴史に与えた影響を考えるうえで重要な出来事となりました。
第二次長州征討|薩摩藩は幕府に協力しなかった
幕府は長州藩を処罰するため、諸藩に出兵を命じました。
しかし、薩摩藩はこれに協力しませんでした。
第一次長州征討のころとは、状況が大きく変わっていたのです。
薩摩藩という有力藩の協力を得られなかったことは、幕府にとって大きな痛手でした。
一方の長州藩では、高杉晋作らによる藩政改革が進み、奇兵隊などの部隊が活躍します。
さらに長州藩は新式の銃などを取り入れ、軍備の近代化を進めていました。
こうした長州軍を相手に、幕府軍は各地で苦戦します。
幕府の権威が大きく揺らぐ
江戸幕府は全国の大名を従える政治の中心でした。
その幕府が大軍を動員しながら、一つの藩である長州藩を十分におさえることができなかったのです。
さらに戦いの途中で、14代将軍徳川家茂が大坂城で亡くなりました。
その後、長州征討は事実上中止されます。
第二次長州征討の失敗によって、
「幕府には、もう全国の大名を思い通りに動かすだけの力がないのではないか」
という見方が強まっていきました。
幕府の権威は大きく低下していったのです。
薩長同盟から「倒幕」へ
ここで、第1章で触れた薩長同盟の性格をもう一度確認しておきましょう。
1866年の薩長同盟は、薩摩と長州がその場で「一緒に幕府を倒す」ことを約束したものではありません。
しかし、薩長同盟によって両藩が協力できる関係が生まれ、第二次長州征討では幕府の弱体化がはっきりしました。
こうした状況の変化を受けて、薩摩藩と長州藩はさらに幕府との対立を深めていきます。
そして1867年には、薩摩藩と長州藩を中心に武力による倒幕を目指す動きが具体化していきました。
つまり、
薩長同盟 → 第二次長州征討 → 幕府の権威低下 → 倒幕へ
という流れで考えると分かりやすいでしょう。
大政奉還でも幕府をめぐる争いは終わらなかった
一方、幕府側でも大きな動きが起こります。
15代将軍徳川慶喜は1867年、政権を朝廷に返す大政奉還を行いました。
これによって江戸幕府は終わりへ向かいますが、徳川家の政治的な影響力まで一気になくなったわけではありません。
そこで薩摩藩や長州藩などは、徳川家を新しい政治の中心から外そうとします。
同年には王政復古の大号令が出され、新政府がつくられていきました。
さらに旧幕府側と新政府側の対立は、1868年から始まる戊辰戦争へと発展します。
新政府軍の中心となったのも、薩摩藩と長州藩でした。
敵同士だった二藩が新政府の中心へ
わずか数年前まで、薩摩藩と長州藩は京都で敵として戦っていました。
その二藩が薩長同盟をきっかけに協力関係を築き、やがて倒幕を進め、明治新政府の中心となっていきます。
薩長同盟の重要性は、1866年に一つの約束が交わされたことだけにあるのではありません。
幕府を支えていた薩摩と、幕府から攻撃されていた長州が手を結んだことで、幕末の政治の勢力関係そのものが大きく変わったことにあります。
薩長同盟は、江戸幕府の終わりと明治維新へ向かう流れを大きく加速させた出来事だったのです。

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