学制とは、1872年(明治5年)に明治政府が公布した、近代的な学校制度を整えるための基本方針です。
明治政府は学制によって全国に学校を設け、広く人々が教育を受けられる仕組みをつくろうとしました。
では、なぜ明治政府は、全国に学校をつくり、教育を広めることを重視したのでしょうか。
その背景には、欧米諸国に追いつくために新しい知識や技術を広めるだけでなく、全国の人々を一つの国家の「国民」としてまとめていくという目的もありました。
江戸時代にも寺子屋や藩校などがあり、多くの人々が教育を受けていました。しかし、現在のように国が全国共通の制度として整えた学校教育ではありませんでした。
明治政府は、全国に共通する教育制度を整えることで、近代国家を支える人々を育てようとしたのです。
この記事では、学制がつくられた目的や内容、当時の人々の反応、その後の教育制度への影響まで、歴史の流れに沿ってわかりやすく解説します。
第1章 学制とは?|全国に学校をつくる教育制度が始まる
学制とは、1872年(明治5年)に明治政府が公布した、近代的な学校制度を整えるための基本方針です。
明治政府は学制によって、全国に学校を設け、広く人々が教育を受けられる仕組みをつくろうとしました。
江戸時代にも教育は行われていた
もちろん、学制が公布されるまで日本に学校がなかったわけではありません。
江戸時代には、武士が学ぶ藩校や、庶民の子どもたちが読み・書き・そろばんなどを学ぶ寺子屋が各地にありました。
そのため、日本では明治維新以前から多くの人々が教育を受けていました。
しかし、藩校や寺子屋は、それぞれの藩や地域などによって運営されていたもので、現在のように国が全国共通の制度として整えた学校ではありませんでした。
明治政府が全国共通の学校制度をつくる
明治維新によって新しい政府が成立すると、それまで藩ごとに分かれていた日本を、一つの政府のもとにまとめる改革が進められます。
1871年の廃藩置県によって藩が廃止されると、明治政府は全国を直接治める中央集権国家づくりを進めました。
そして翌1872年に公布されたのが学制です。
学制では、全国を学区に分けて学校を設置し、身分や男女の違いにかかわらず、広く人々が教育を受けることを目指しました。
つまり学制は、それまで地域や身分などによって異なっていた教育から、国が全国規模で教育制度を整えていく大きな転換点だったのです。
「1872年・学制」は必ず覚えよう
中学歴史では、学制が公布された年と、その内容をセットで覚えておきましょう。
1872年 学制を公布
→ 全国に学校をつくり、近代的な教育制度を整えようとした
そして学制は、明治政府が進めた一連の改革のなかに位置づけると理解しやすくなります。
1871年 廃藩置県
↓
1872年 学制
↓
1873年 徴兵令・地租改正
明治政府は、地方の仕組みだけでなく、教育・軍事・税などを全国共通の制度へと変えることで、近代国家の土台をつくっていったのです。
第2章 なぜ学制をつくった?|近代国家を支える国民を育てる
明治政府が学制を公布した目的は、単に全国に学校を増やすことだけではありませんでした。
明治維新を迎えた日本は、欧米諸国に対抗できる近代国家をつくるという大きな課題を抱えていました。
そのためには、政治や軍事の制度を変えるだけでなく、新しい国家を支える人々を育てる必要がありました。
そこで重要になったのが教育です。
近代化には新しい知識を持つ人材が必要だった
明治政府は、欧米諸国の制度や技術を積極的に取り入れ、日本の近代化を進めようとしました。
しかし、新しい制度や産業を取り入れても、それを理解し、実際に動かすことのできる人がいなければ社会に広げることはできません。
読み書きや計算をはじめ、近代的な知識を身につけた人々を全国で育てることは、産業や行政などを発展させていくうえでも重要でした。
明治政府にとって教育制度を整えることは、日本の近代化を支える人材を育てるための重要な政策だったのです。
国民国家をつくるうえでも教育は重要だった
教育には、もう一つ大きな役割がありました。
それは、全国の人々を一つの国家を構成する「国民」としてまとめていくことです。
江戸時代の日本では幕府のほかに多くの藩があり、人々はそれぞれの藩や地域との強いつながりを持って生活していました。
しかし明治政府は廃藩置県によって藩をなくし、日本全国を一つの政府が治める国家へと変えていきます。
そこで必要になったのが、地域や身分をこえて、全国の人々が共通する知識や価値観を身につける仕組みでした。
全国に学校をつくり、共通する教育を広げることは、人々を「藩の人」から「日本という国家の国民」へとまとめていくことにもつながっていったのです。
教育・徴兵・税が全国共通の制度になる
明治政府の改革を見ると、学制だけが単独で行われたわけではないことが分かります。
1872年には学制が公布され、1873年には徴兵令と地租改正が始まりました。
教育 → 全国の人々が共通の教育を受ける
軍事 → 全国から兵士を集める
税 → 全国共通の仕組みで税を集める
このように明治政府は、それまで地域や身分によって異なっていたさまざまな仕組みを、全国共通の制度へと変えていきました。
学制もその一つであり、中央集権国家、そして近代的な国民国家をつくっていくための重要な改革だったのです。
近代国家をつくるうえで、学校教育には読み書きや計算を教えるだけではない役割がありました。
そのなかでも重要だったのが、歴史や国語などの教育です。
国民国家とは、単に同じ政府の支配下に人々が暮らしているだけの国家ではありません。多くの人々が「自分たちは同じ国の一員である」という意識を持つことも、その大きな特徴です。
しかし、明治維新を迎えたころの日本では、地域によって話される言葉には大きな違いがあり、人々はそれぞれの藩や地域との強いつながりを持っていました。
そこで全国に学校をつくり、共通する教育を行うことが重要になります。
たとえば、歴史を学ぶことで、日本の過去について共通する知識を持つようになります。
また、国語を学ぶことは、地域によって異なる言葉を使っていた人々に、全国で通じる共通の言葉を広めていくことにもつながりました。
つまり、
同じ国の歴史を学ぶ
+
共通する言葉を学ぶ
↓
「自分たちは同じ国の国民である」という意識が育つ
という関係があります。
こうした教育の役割は、日本だけに見られたものではありません。
近代のヨーロッパでも国民国家が形成されていくなかで、学校教育を通して共通の言語や歴史を広め、国民としての意識を育てることが重視されました。
明治政府が全国に学校教育を広げていった背景には、近代化に必要な知識を持つ人材を育てるだけでなく、全国の人々を一つの「国民」としてまとめていくという意味もあったのです。
第3章 学制はすぐに広まった?|学校に通えない子どもたちもいた
1872年に学制が公布されると、明治政府は全国に学校をつくり、広く子どもたちが教育を受けられるようにしようとしました。
しかし、学制を公布したからといって、すぐにすべての子どもが学校へ通うようになったわけではありません。
新しい学校制度は、当時の人々の生活に大きな負担をもたらすこともありました。
全国各地に小学校がつくられる
学制の公布後、全国各地で小学校の設置が進められました。
学校の建物には、新しく建てられたものだけでなく、それまで地域にあった寺子屋や寺院、民家などを利用したものもありました。
学校では、読み書きや計算などに加えて、近代的な知識を取り入れた教育が行われるようになります。
こうして、それまで地域ごとに行われていた教育から、国が制度を整えた学校教育へと少しずつ変わっていきました。
学校に通わせることは家庭の負担にもなった
しかし、当時の家庭にとって、子どもを学校へ通わせることは簡単なことではありませんでした。
初期の学校教育では、学校を運営するための費用を地域や家庭が負担する部分が大きく、授業料も必要でした。
さらに、当時の農村では子どもも大切な働き手でした。
農作業や家の仕事を手伝っていた子どもが毎日学校へ通えば、その分だけ家庭の働き手が減ってしまいます。
そのため、「授業料を払わなければならない」「子どもが家の仕事を手伝えなくなる」といった理由から、子どもを学校へ通わせることに抵抗を感じる家庭もありました。
学制に反対する人々もいた
新しい学校制度への負担が大きかった地域では、学制に対する反発も起こりました。
明治初期には新しい政策への不満から各地で農民一揆が起こり、そのなかでは学校が襲われたり、焼かれたりすることもありました。
現在では「学校に通えること」は当然のように感じられますが、当時の人々にとって学校制度は、政府によって突然導入された新しい仕組みでもあったのです。
就学率は少しずつ上昇していった
学制が始まったころは、すべての子どもが学校へ通っていたわけではなく、特に女子の就学率は男子より低い状態でした。
しかし、その後、政府は教育制度を何度も見直しながら学校の整備を進めます。
学校教育が社会に定着していくにつれて就学率も上昇し、明治時代の後半には、多くの子どもたちが小学校へ通うようになっていきました。
1872年に学制が公布されたことで、すぐに現在のような学校教育が完成したわけではありません。
さまざまな反発や制度の見直しを経験しながら、日本に学校教育が少しずつ定着していったのです。
第4章 学制のその後|義務教育はどのように定着した?
1872年に学制が公布され、日本の近代的な学校制度づくりが始まりました。
しかし、前章で見たように、授業料の負担や子どもが働き手だったことなどから、最初からすべての子どもが学校に通ったわけではありません。
明治政府はその後も制度を見直しながら、全国に学校教育を定着させていきます。
学制から教育令へ
1879年、政府は学制を廃止し、新たに教育令を公布しました。
学制では全国を細かく学区に分け、政府が統一的な学校制度をつくろうとしていましたが、実際の地域の状況に合わない部分もありました。
そこで教育令では、地方の実情に合わせて学校を運営できるよう、制度の見直しが行われます。
ただし、その後も教育制度は何度か改正されました。
明治政府は試行錯誤を重ねながら、日本に合った学校制度を整えていったのです。
小学校令で義務教育の仕組みを整える
1886年には、初代文部大臣となった森有礼のもとで小学校令が公布されました。
これによって小学校教育の制度が改めて整えられ、子どもたちが一定期間学校教育を受ける仕組みが明確になっていきます。
また、師範学校など教師を育てる制度も整備され、全国で一定水準の教育を行うための基盤がつくられていきました。
義務教育が無償になり就学率も上昇
学校制度が整えられても、家庭にとって授業料は大きな負担でした。
そこで1900年、小学校の授業料は原則として無償となります。
家庭の負担が軽くなったことなどによって就学率はさらに上昇し、明治時代後半には多くの子どもたちが学校へ通うようになりました。
さらに1907年には、義務教育の期間が4年から6年へ延長されます。
こうして日本では、全国の子どもたちが学校で教育を受ける仕組みが定着していきました。
学制は現在につながる学校教育の出発点
1872年の学制によって、現在と同じ学校制度が一度に完成したわけではありません。
1872年 学制
↓
1879年 教育令
↓
1886年 小学校令
↓
1900年 小学校の授業料を原則無償化
↓
1907年 義務教育を6年に延長
このように、明治政府は制度を何度も見直しながら学校教育を全国へ広げていきました。
学制は、その長い過程の最初に位置する、日本の近代的な学校教育の出発点だったのです。

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