1868年、明治政府は新しい国づくりの基本方針として五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)を示しました。
五箇条の御誓文には、話し合いを重視することや、身分にとらわれず人々が活躍できる社会を目指すこと、西洋の知識を取り入れることなど、新しい時代の国づくりに向けた考えが示されています。
一方、同じころに明治政府が一般の人々に向けて示したのが五榜の掲示(ごぼうのけいじ)です。
五榜の掲示には江戸時代から引き継がれた内容もあり、二つを比べることで、明治維新によって何が変わり、何がまだ残っていたのかが見えてきます。
この記事では、五箇条の御誓文が出された背景や五つの内容とその意味、五榜の掲示との違い、その後の明治政府の改革との関係まで、中学生にも分かりやすく解説します。
第1章 五箇条の御誓文とは?|明治政府が示した新しい国づくりの方針
五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)とは、1868年に明治政府が示した、新しい国づくりの基本方針です。
江戸幕府が終わり、新しい政府がつくられたばかりの日本では、これからどのような国を目指していくのかを示す必要がありました。
そこで明治政府が示したのが、五つの方針からなる五箇条の御誓文です。
明治天皇が神々に誓う形で示された
五箇条の御誓文は、1868年3月14日(旧暦)、京都御所で明治天皇が神々に誓う形で示されました。
「御誓文」という名前も、この「誓う」形式に由来しています。
その内容には、広く意見を取り入れて政治を行うことや、身分にとらわれず人々が力を発揮すること、海外から知識を取り入れることなどが盛り込まれていました。
明治政府はこうした方針を示し、新しい国づくりを進めようとしたのです。
なぜ五箇条の御誓文が必要だった?
明治政府が成立したからといって、すぐに全国が一つにまとまったわけではありません。
当時はまだ戊辰戦争の最中で、旧幕府側との戦いが続いていました。
また、江戸時代には各藩がそれぞれの地域を治めていたため、新政府には全国の諸藩や人々をまとめていくという大きな課題もありました。
こうした状況のなかで、明治政府は新しい政治の方向性を示し、新政府のもとで国づくりを進めていく姿勢を明らかにしたのです。
「明治時代の改革」の出発点として覚えよう
五箇条の御誓文は、それだけで政治の仕組みを大きく変えた法律ではありません。
重要なのは、明治政府がこれからどのような国をつくろうとしているのかを示したことです。
その後、明治政府は版籍奉還や廃藩置県、学制、徴兵令、地租改正など、近代国家をつくるための改革を次々と進めていきます。
五箇条の御誓文は、こうした明治政府による新しい国づくりの出発点の一つとして理解しておきましょう。
第2章 五箇条の御誓文の内容と意味
五箇条の御誓文には、その名前のとおり五つの方針が示されています。
原文は現在とは異なる言葉づかいで書かれているため、そのまま読むと少し難しく感じるかもしれません。
ここでは、それぞれがどのような意味なのかを順番に見ていきましょう。
第1条|広く話し合って政治を行う
広く会議を興し、万機公論に決すべし
広く会議を開き、大切な政治については話し合って決めていこう、という意味です。
江戸時代には、幕府や各藩を中心に政治が行われていました。
これに対して明治政府は、広く意見を取り入れながら新しい政治を進めていく方針を示しました。
五箇条の御誓文のなかでも、特に覚えておきたい一文です。
第2条|身分をこえて国づくりに取り組む
上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし
身分や立場の違いをこえて心を一つにし、国の政治や経済を発展させていこう、という意味です。
明治政府には、新しい国をつくるために多くの人々の力をまとめていく必要がありました。
そのため、上に立つ者と一般の人々が協力して国づくりを進めることが示されています。
第3条|人々がそれぞれ力を発揮できる社会へ
官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
役人や武士だけでなく、庶民までそれぞれが自分の志を実現できるようにしよう、という内容です。
江戸時代には身分によって職業や生活にさまざまな制約がありました。
五箇条の御誓文では、そうした身分の違いをこえて、人々がそれぞれの力を発揮できる社会を目指す考えが示されました。
第4条|古い慣習を見直す
旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし
これまで続いてきた悪い習慣を改め、道理にかなった政治や社会をつくろう、という意味です。
明治政府は、江戸時代から続いてきた制度や慣習をそのまま残すのではなく、新しい時代に合うものへ変えていこうとしました。
その後に進められるさまざまな制度改革にもつながる考え方です。
第5条|世界から知識を取り入れる
智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし
世界から広く知識を取り入れ、日本の国づくりに役立てよう、という意味です。
明治政府は欧米諸国の制度や技術を積極的に学び、日本を近代国家へと変えていこうとしました。
その後の岩倉使節団の派遣や殖産興業、教育制度の整備などを考えるうえでも重要な内容です。
五つすべてを暗記する必要はある?
中学歴史では、五箇条の御誓文の五つの文章をすべて暗記する必要はありません。
それぞれがどのような内容なのか、大まかな意味を理解しておけばよいでしょう。
ただし、第1条の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」は重要です。
定期テストや高校入試では、この文章を資料として示し、「五箇条の御誓文」と答えさせる問題がよく出題されます。
そのため、
「広く会議を興し、万機公論に決すべし」
= 五箇条の御誓文
という組み合わせは、しっかり覚えておきましょう。
また、「万機公論に決すべし」が、政治上の重要なことは広く話し合って決めるという意味であることも理解しておくと、資料問題に対応しやすくなります。
第3章 なぜ五箇条の御誓文を出した?|明治政府が目指した国づくり
五箇条の御誓文には、話し合いを重視することや、世界から知識を取り入れることなど、新しい国づくりに向けた方針が示されていました。
では、なぜ明治政府はこのような方針を示す必要があったのでしょうか。
その背景には、幕末から明治維新にかけて、日本の政治や社会が大きく変化していたことがあります。
江戸幕府に代わる新しい政治をつくる必要があった
1867年、徳川慶喜は大政奉還を行い、政権を朝廷に返しました。
さらに同年の王政復古の大号令によって、幕府を中心とした政治体制に代わる新しい政治が始まります。
しかし、幕府がなくなったからといって、新しい国の仕組みがすぐに完成したわけではありません。
どのような政治を行い、どのような国を目指すのか。
新しく成立した政府には、その方向性を示す必要がありました。
そこで1868年に示されたのが五箇条の御誓文です。
国内をまとめることも大きな課題だった
当時の日本には、まだ多くの藩が存在していました。
それぞれの藩には大名がおり、独自に領地を治めていたため、現在のように中央政府が全国を直接治める仕組みにはなっていませんでした。
さらに、五箇条の御誓文が示された1868年には、旧幕府側と新政府側が戦う戊辰戦争も続いていました。
明治政府にとって、諸藩を新政府のもとにまとめ、全国を一つの国として治めていくことは大きな課題だったのです。
五箇条の御誓文の第2条で「上下心を一にして」と示された背景にも、こうした状況がありました。
欧米諸国に追いつく必要があった
もう一つ重要なのが、外国との関係です。
幕末の日本は欧米諸国と不平等条約を結び、外国との力の差を強く意識するようになっていました。
アジアでは清がアヘン戦争でイギリスに敗れるなど、欧米列強の進出も続いていました。
日本が独立を守っていくためには、政治・産業・軍事・教育などを整え、欧米諸国に対抗できる国をつくる必要がありました。
だからこそ五箇条の御誓文では、「智識を世界に求め」と、世界から積極的に知識を取り入れる方針が示されたのです。
五箇条の御誓文から明治政府の改革へ
五箇条の御誓文で示されたのは、具体的な制度ではなく、これからの国づくりの方向性でした。
明治政府はその後、版籍奉還・廃藩置県・学制・徴兵令・地租改正などの改革を進めていきます。
幕府に代わる新しい政府をつくり、全国をまとめ、欧米諸国に対抗できる近代国家を目指す。
五箇条の御誓文は、こうした明治政府による国づくりの方向性を示した重要なものだったのです。
第4章 五箇条の御誓文と五榜の掲示の違い
五箇条の御誓文とあわせて覚えておきたいのが、**五榜の掲示(ごぼうのけいじ)**です。
どちらも1868年に明治政府が示したものですが、その目的や内容には違いがありました。
五箇条の御誓文が新しい国づくりの基本方針を示したのに対し、五榜の掲示は一般の人々に守るべきことを示したものです。
五榜の掲示は人々に向けた決まり
五榜の掲示は、五箇条の御誓文が示された翌日の1868年3月15日(旧暦)に出されました。
「五榜」とは、五つの高札(こうさつ)のことです。
高札とは、政府からの命令や決まりなどを書いて、人々が見ることのできる場所に掲げた板のことです。
五榜の掲示では、親や年長者を敬うことなどの道徳を守るよう求めたほか、徒党・強訴・逃散の禁止、キリスト教の禁止などが示されました。
つまり、明治政府が一般の人々に対して「このような決まりを守りなさい」と知らせる役割を持っていたのです。
五箇条の御誓文とは何が違う?
二つの違いを整理すると、次のようになります。
| 五箇条の御誓文 | 五榜の掲示 | |
|---|---|---|
| 年 | 1868年 | 1868年 |
| 性格 | 新政府の基本方針 | 人々が守るべき決まり |
| 示し方 | 明治天皇が神々に誓う | 高札を掲げる |
| 主な内容 | 公議・人材の活用・世界から知識を取り入れるなど | 道徳、徒党・強訴の禁止、キリスト教禁止など |
テストでは、二つを混同しないことが大切です。
五箇条の御誓文=新しい国づくりの方針
五榜の掲示=一般の人々に示した決まり
と区別して覚えておくと分かりやすいでしょう。
明治政府にも江戸時代から続く部分があった
五榜の掲示で特に注目したいのが、キリスト教の禁止です。
江戸幕府はキリスト教を禁止していましたが、明治政府が成立したあとも、当初はその方針が引き継がれました。
五箇条の御誓文では「智識を世界に求め」と海外から知識を取り入れる姿勢を示す一方で、五榜の掲示ではキリスト教を禁止していたのです。
この二つを見ると、明治維新によって日本の政治が変わっても、江戸時代の制度や考え方が一度にすべてなくなったわけではないことが分かります。
その後、キリスト教禁止に対して欧米諸国から批判が強まり、明治政府は1873年にキリスト教禁止を示した高札を撤去しました。
新しい国づくりを進めながら、江戸時代から続く制度や考え方も少しずつ変えていった。
五箇条の御誓文と五榜の掲示を一緒に見ることで、明治維新直後の日本がどのような状況だったのかを、より深く理解することができます。
第5章 五箇条の御誓文から明治政府の改革へ
1868年に五箇条の御誓文を示した明治政府は、その後、新しい国をつくるためにさまざまな改革を進めていきました。
五箇条の御誓文そのものは法律ではなく、具体的な制度を定めたものでもありません。
しかし、そこに示された古い制度や慣習を見直し、世界から知識を取り入れながら新しい国をつくるという方向性は、その後の明治政府の国づくりにもつながっていきます。
藩をなくして中央集権国家へ
江戸時代には、幕府のほかに全国の藩がそれぞれの地域を治めていました。
明治政府はこの仕組みを改めるため、1869年に版籍奉還を行い、1871年には廃藩置県を実施します。
廃藩置県によって藩はなくなり、政府が任命した府知事や県令が地方を治めるようになりました。
こうして明治政府は、全国を一つの政府のもとにまとめる中央集権国家をつくっていきます。
教育・軍事・税の仕組みも全国で統一
全国を政府のもとにまとめると、社会のさまざまな仕組みも変えていきました。
1872年には学制を公布し、全国に近代的な学校制度を整えようとします。
1873年には徴兵令を出し、武士を中心とした軍隊から、国民を兵士として集める軍隊へと変えていきました。
さらに同じ1873年には地租改正を始め、土地の所有者が地価をもとに現金で税を納める仕組みを整えていきます。
教育・軍事・税といった国の基本となる制度を全国規模で整えることで、日本は近代国家へと変わっていきました。
世界から新しい制度や技術を学ぶ
五箇条の御誓文の第5条には、「智識を世界に求め」とあります。
明治政府は実際に、欧米諸国からさまざまな制度や技術を取り入れていきました。
1871年には岩倉使節団を欧米へ派遣し、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らが各国の政治制度や産業、教育などを視察しました。
また、外国人技術者や教師などのお雇い外国人を招き、鉄道・工業・教育など幅広い分野で西洋の知識や技術を取り入れます。
こうした取り組みを通して、日本は欧米諸国を参考にしながら近代化を進めていきました。
五箇条の御誓文は新しい国づくりの出発点
五箇条の御誓文が出された1868年の日本には、まだ藩があり、身分制度も江戸時代の仕組みが残っていました。
そこから明治政府は、廃藩置県をはじめとする改革を次々と進め、政治・教育・軍事・税などの仕組みを大きく変えていきます。
そのため五箇条の御誓文は、個々の改革を直接定めたものとしてではなく、明治政府がこれから進める新しい国づくりの基本的な方向性を示したものとして理解することが大切です。
五箇条の御誓文から、その後の明治政府による改革までを一つの流れとしてつかんでおきましょう。

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