現在のヨーロッパには、イギリス・フランス・ドイツ・イタリアなど多くの国があり、それぞれが独立した国家として成り立っています。
しかし、中世のヨーロッパを現在と同じような「国の集まり」として考えると、その姿をうまく理解することができません。
西ローマ帝国が滅亡したあと、西ヨーロッパにはさまざまな国や領主の支配する地域が生まれました。
国王は存在していましたが、現在の政府のように国全体を強い力でまとめていたわけではありません。
そんな政治的に分かれた西ヨーロッパの人々を、国や地域をこえて広く結びつけていたのがキリスト教でした。
中世西ヨーロッパを結びつけたカトリック教会
中世の西ヨーロッパで広く信仰されていたのが、カトリックです。
その頂点に立つローマ教皇は、単なる宗教上の指導者ではありませんでした。
キリスト教が人々の生活や価値観に深く関わっていたため、カトリック教会は政治・教育・文化などにも大きな影響を与え、ローマ教皇はときには国王にも影響を与えるほどの権威を持つようになります。
つまり中世西ヨーロッパでは、各地に国王や諸侯が存在する一方、その上を横につなぐようにカトリックという共通の信仰が広がっていたのです。
学問や文化も、こうしたキリスト教を中心とする世界観と深く結びついていました。
キリスト教には、人間はアダムとイブ以来の原罪を負った存在だという考えがあり、人間の生き方を考えるうえでも、神との関係や死後の救いが重要な意味を持っていました。
こうした神を中心として世界や人間を考える社会が、長く中世ヨーロッパの大きな特徴となっていたのです。
当時のヨーロッパは世界の中心だったわけではない
そして、もう一つ知っておきたいことがあります。
のちに世界各地へ進出し、近代の世界史を大きく動かすことになる西ヨーロッパも、中世にはまだ世界の中心ではありませんでした。
西ローマ帝国滅亡後の西ヨーロッパでは農業を中心とする封建社会が広がり、都市や交易も古代ローマの時代ほど活発ではなくなっていました。
一方、イスラーム世界ではバグダードなどの大都市が栄え、アジア・アフリカ・ヨーロッパを結ぶ交易が活発に行われ、数学・医学・天文学などの学問も発達していました。
東アジアでも、中国が高度な政治制度や都市文化を発達させていました。
ここで興味深いのが、古代ギリシャの学問がどのように受け継がれたのかです。
現在のヨーロッパ文明は古代ギリシャ・ローマから大きな影響を受けているため、その知識も西ヨーロッパへそのまま受け継がれたように思うかもしれません。
しかし実際には、古代ギリシャの数学・医学・哲学・天文学などの書物の多くがイスラーム世界でアラビア語に翻訳され、研究されました。イスラーム世界の学者たちはそれらを保存するだけでなく、さらに新しい研究を積み重ねていきます。
そして中世後期になると、こうした知識がラテン語に翻訳され、西ヨーロッパでも学ばれるようになりました。
つまり西ヨーロッパは、古代ギリシャで生まれた知識の一部を、イスラーム世界などで受け継がれ、さらに発展した成果とともに、いわば「逆輸入」したのです。
のちに近代世界の主役となっていく西ヨーロッパも、この時代にはむしろ、外の世界からさまざまな商品や知識を受け取りながら変化していく側にあったのです。
十字軍をきっかけにヨーロッパが外の世界へ
そんな中世ヨーロッパが大きく変化していくきっかけの一つとなったのが、11世紀末に始まった十字軍です。
ローマ教皇が、イスラーム勢力の支配下にあった聖地エルサレムを取り戻すよう呼びかけると、ヨーロッパ各地から諸侯や騎士が遠征し、その後は国王が参加する十字軍も行われました。
これは、当時のローマ教皇が持っていた大きな権威を象徴する出来事でもありました。
十字軍では激しい戦闘や略奪が行われ、多くの人々が犠牲になりました。そして、およそ200年にわたって遠征が繰り返されたものの、最終的に聖地をキリスト教勢力のもとに置き続けることはできませんでした。
そのため十字軍は、長い目で見ると教皇の権威が揺らいでいく一因にもなっていきます。
しかし一方で、多くの人々が地中海や東方へ向かったことで、西ヨーロッパと外の世界との接触が増えました。
東方との交易が活発になると、都市や商業が成長し、イスラーム世界などを通してさまざまな商品や知識もヨーロッパへ伝わっていきます。
こうして、農業と封建的な関係を中心としていた中世ヨーロッパの社会も、少しずつ変化し始めました。
豊かになったヨーロッパで新しい動きが始まる
都市と商業が発達し、外の世界との交流が広がると、人々のものの見方にも変化が現れます。
その代表がルネサンスです。
古代ギリシャ・ローマの文化が見直されるなかで、それまでの神を中心とする世界観だけでなく、人間そのものの価値や能力、現実の世界の美しさにも目を向けようとする考え方が広がっていきました。
また、商業が発達してヨーロッパが豊かになると、国王も税を集め、官僚や軍隊を整えながら、諸侯や領主をおさえて国内をまとめる力を強めていきます。
さらにヨーロッパ人は、新しい交易路や富を求めて海へ乗り出し、大航海時代を迎えました。
中世には世界の中心ではなかった西ヨーロッパが、しだいに外の世界へ積極的に進出する側へと変わっていくのです。
宗教改革で「カトリック一つ」の世界が崩れ始める
そして16世紀、中世ヨーロッパを支えてきた宗教のあり方にも大きな変化が起こります。
ローマ教会による贖宥状の販売などをルターが批判し、宗教改革が始まりました。
ルターは、ローマ教皇や教会の権威に従うことよりも、聖書と信仰を重視すべきだと主張します。
この考えに賛同する人々が各地に広がり、ルターの改革を支持する諸侯も現れました。
やがて、ローマ教皇を頂点とするカトリック教会から離れ、ルターなどの宗教改革から生まれた新しいキリスト教の諸派が「プロテスタント」と呼ばれるようになります。
ここで重要なのは、単に「ルターが教会の問題点を批判した」ということだけではありません。
それまで西ヨーロッパでは、カトリックが圧倒的な共通基盤でした。
ところがプロテスタントが誕生したことで、キリスト教徒でありながら、ローマ教皇に従わないという道が生まれたのです。
国王や諸侯のなかにもプロテスタントを支持し、ローマ教皇から距離を置く者が現れます。
それまでの西ヨーロッパでは、「キリスト教徒であること」と「ローマ教皇を頂点とするカトリック世界に属すること」が強く結びついていました。
宗教改革は、その関係を大きく変えました。
ここまで見てきたのは、中世ヨーロッパから宗教改革までの大きな流れです。
ここからは、キリスト教とカトリック教会はなぜ大きな力を持つようになったのか、十字軍はヨーロッパ社会をどう変えたのか、ルネサンスや大航海時代はなぜ始まったのか、そして宗教改革によって「教会の時代」はなぜ終わりへ向かったのかを、一つずつ詳しく見ていきましょう。
教科書では別々の用語として登場する出来事も、前後のつながりを意識して見ると、「教会の時代」から「国王の時代」へヨーロッパが変化していく一つの大きな物語として見えてきます。

第1章 ローマ帝国とキリスト教|迫害された宗教がヨーロッパへ広がる
中世ヨーロッパでキリスト教が大きな力を持つようになった理由を知るためには、その前のローマ帝国までさかのぼる必要があります。
古代のローマ帝国は、地中海を囲む広大な地域を支配した巨大な国家でした。
そのローマ帝国のなかで誕生し、広がっていったのがキリスト教です。
最初は迫害されることもあったキリスト教が、なぜヨーロッパ社会を支えるほど大きな存在になったのでしょうか。
ローマ帝国の支配下でキリスト教が誕生する
1世紀ごろ、ローマ帝国の支配下にあったパレスチナ地方でイエスが活動しました。
イエスの死後、その教えは弟子たちによって各地へ伝えられます。
なかでもパウロらの活動によって、キリスト教はユダヤ人だけではなく、ローマ帝国のさまざまな地域の人々へ広がっていきました。
当時のローマ帝国には多くの民族が暮らし、さまざまな神々が信仰されていました。
そのなかでキリスト教は唯一の神を信仰し、民族や身分をこえて人々に救いを説きました。
こうした教えは、しだいに多くの人々へ広がっていきます。
なぜキリスト教は迫害された?
しかし、キリスト教は最初からローマ帝国に認められていたわけではありません。
キリスト教徒は唯一の神を信仰したため、ローマの伝統的な神々をまつる儀礼や皇帝崇拝を拒むことがありました。
そのため、帝国の秩序を乱す存在とみなされ、キリスト教徒が迫害されることもありました。
その有名な例が、皇帝ネロの時代です。
64年、ローマで大火災が起こり、市街地の広い範囲が焼失しました。ネロ帝は、この大火の責任をキリスト教徒に負わせ、多くのキリスト教徒を処刑したと伝えられています。
ただし、この時点でローマ帝国全体がキリスト教徒を一斉に迫害していたわけではありません。その後も迫害の程度は時代や地域によって異なりました。
それでもキリスト教はなくならず、むしろ帝国各地へ信者を増やしていきます。
そして4世紀になると、ローマ帝国のキリスト教に対する政策は大きく変わりました。
313年、コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認
313年、ローマ皇帝コンスタンティヌス帝は、ミラノ勅令によってキリスト教を公認しました。
迫害されることもあったキリスト教が、帝国内で公に信仰できる宗教として認められたのです。
さらに4世紀末には、テオドシウス帝のもとでキリスト教が国教となりました。
こうしてキリスト教は、
迫害される宗教
↓
公認された宗教
↓
ローマ帝国の国教
へと大きく立場を変えていきます。
この変化によってキリスト教はローマ帝国の社会と深く結びつき、その後のヨーロッパへ大きな影響を与える土台がつくられました。
ゲルマン民族の大移動でローマ帝国が揺らぐ
しかし、キリスト教が国教となったころ、ローマ帝国そのものは大きく揺らいでいました。
4世紀後半になると、アジア方面から移動してきたフン族に押されるように、ゲルマン民族がローマ帝国の領内へ大規模に移動するようになります。
これがゲルマン民族の大移動です。
ローマ帝国はやがて東西に分かれ、西ローマ帝国では各地にゲルマン民族の国々がつくられていきました。
そして476年、西ローマ帝国が滅亡します。
長い間、西ヨーロッパの広い地域を支配してきた巨大な国家がなくなったのです。

西ローマ帝国のあと、西ヨーロッパはどうなった?
476年に西ローマ帝国が滅亡しても、ヨーロッパ全体からローマ帝国がなくなったわけではありません。
東側では、首都コンスタンティノープルを中心とする東ローマ帝国が、その後も約1000年にわたって続きました。
では、西ローマ帝国がなくなった西ヨーロッパはどうなったのでしょうか。
西ヨーロッパでは、一つの巨大な帝国に代わって、ゲルマン民族がつくったさまざまな国が並び立つようになります。
そのなかでも、後のヨーロッパ史に大きな影響を与えたのがフランク王国です。
ここで見逃しやすいのが、西ローマ帝国が滅亡しても、そこに暮らしていた人々やローマの文化まで消えてしまったわけではないということです。
西ローマ帝国が存在していたころは、ローマ皇帝を頂点とする政治のもとで、多くの人々がローマの法律や制度、文化の影響を受けながら暮らしていました。
ところが西ローマ帝国が滅亡すると、その地域の多くではゲルマン人が新しい支配者層となります。
しかし、支配者が変わったからといって、それまで暮らしていた旧ローマ帝国の住民がいなくなったわけではありません。
ゲルマン人がつくった国々では、多数の旧ローマ帝国住民が暮らし続け、ゲルマン人の支配者たちもローマ以来の法律・制度・言語・文化などを部分的に受け継ぎながら国を治めていきました。
つまり、
「ローマ人の世界がなくなって、ゲルマン人の世界に入れ替わった」
と考えるのは正確ではありません。
そして、もう一つ重要な役割を果たしたのがキリスト教です。
政治的には多くの国や地域に分かれても、西ローマ帝国時代に広がったキリスト教まで消えたわけではありません。
キリスト教会は各地に残り、さらにゲルマン民族の国々にもキリスト教が広がっていきました。
そして西ヨーロッパでは、ローマ教皇を中心とするカトリック教会が、国や地域をこえて人々を結びつける存在になっていきます。
こうして中世西ヨーロッパでは、
ゲルマン人
→ 新しい国や王国をつくる
ローマの伝統
→ 法律・制度・言語・文化などが受け継がれる
キリスト教
→ 国や民族をこえて人々を結びつける
という三つの要素が、しだいに結びついていきました。
つまり中世西ヨーロッパは、「ゲルマン人+ローマの伝統+キリスト教」が融合することで形づくられていった世界だったのです。
これは、中世ヨーロッパを理解するうえで非常に重要なポイントです。
東側には東ローマ帝国という大きな国家が残りましたが、西側では西ローマ帝国による政治的な統一が失われ、ゲルマン人の国々が並びながら、ローマ教皇とカトリック教会が国や地域をこえて影響力を持つという、東側とは異なる世界が形づくられていきました。
やがてフランク王国からは、現在のフランスやドイツにつながる地域的なまとまりが生まれ、ドイツを中心とする地域には、のちに神聖ローマ帝国が成立します。
イングランドでもゲルマン系の人々が国をつくり、後のイギリスへとつながっていきました。
イタリア半島でもさまざまな勢力が並び立ち、そのなかでローマ教皇は大きな政治的・宗教的影響力を持つようになります。
大きな流れを整理すると、
ローマ帝国が広い地域を政治的に統一
↓
476年 西ローマ帝国が滅亡
↓
ゲルマン人が各地で新しい支配者となる
↓
ローマの伝統や旧ローマ帝国の社会は残る
↓
キリスト教も受け継がれ、ゲルマン人にも広がる
↓
「ゲルマン人+ローマの伝統+キリスト教」が融合
↓
中世西ヨーロッパの世界が形成される
という変化が起こったのです。
そして、ここでもう一つ、このあとのヨーロッパ史を見るうえで覚えておきたい見方があります。
東ローマ帝国は、その後も約1000年続きました。
こう聞くと、「それなら、このあとのヨーロッパ史では東ローマ帝国が中心になるのでは?」と思うかもしれません。
ところが、中学歴史でこのあと学ぶ十字軍・ルネサンス・大航海時代・宗教改革・絶対王政・イギリス革命・フランス革命・産業革命などの舞台は、主に西ヨーロッパです。
いわば、「西ローマ帝国の跡地」が、このあとのヨーロッパ史の主役になっていくのです。
西ローマ帝国が滅亡して生まれた、一見すると複雑な西ヨーロッパの世界。
そこではゲルマン人が新しい国をつくりながらも、ローマの伝統とキリスト教を受け継ぎ、三つの要素が混ざり合うことで新しいヨーロッパ社会がつくられていきました。
そして、この三つの要素の結びつきを考えるうえで、最初の重要な存在となるのがフランク王国です。
次章では、フランク王国とキリスト教会がどのように結びつき、中世西ヨーロッパの土台をつくっていったのかを見ていきましょう。
第2章 フランク王国とキリスト教|国王と教会が結びつく
476年に西ローマ帝国が滅亡すると、西ヨーロッパにはゲルマン民族によるさまざまな国がつくられました。
そのなかから大きく成長したのがフランク王国です。
フランク王国がほかのゲルマン民族の国々と比べて長く発展できた理由の一つが、キリスト教会との結びつきでした。
ここから、国王と教会が互いに支え合う中世ヨーロッパの仕組みが形づくられていきます。
フランク王国がキリスト教を受け入れる
フランク王国を大きく発展させるきっかけをつくった人物が、5世紀末ごろの国王クローヴィスです。
クローヴィスはキリスト教に改宗しました。
しかも、当時西ヨーロッパで広がっていたローマ教会と同じ信仰を受け入れたため、フランク王国はローマ教会との関係を強めていきます。
これはフランク王国にとって大きな意味を持ちました。
ゲルマン民族であるフランク人が、かつてローマ帝国に暮らしていた人々と同じキリスト教を信仰することで、異なる人々を一つの国にまとめやすくなったからです。
一方、ローマ教会にとっても、強い軍事力を持つフランク王国との結びつきは重要でした。
こうして、
国王は教会から権威を得る
教会は国王から保護を受ける
という関係がつくられていきます。
なぜローマ教皇の存在が大きくなった?
西ローマ帝国が滅亡したあとも、かつて帝国の都だったローマにはキリスト教会が残りました。
そのなかで、ローマの教会を率いるローマ教皇は、西ヨーロッパのキリスト教世界でしだいに大きな権威を持つようになります。
政治的には多くの国に分かれていても、各地の人々が同じキリスト教を信仰している。
そのためキリスト教会は、国境をこえて人々を結びつけることのできる存在でした。
国王が支配する領域が変化しても、教会という組織は各地に残り続けます。
この国家をこえたキリスト教会のつながりが、中世ヨーロッパの大きな特徴となっていきました。
カール大帝が西ヨーロッパの広い地域を支配する
8世紀後半になると、フランク王国にカール大帝(シャルルマーニュ)が登場します。
カール大帝は領土を大きく広げ、現在のフランス・ドイツ・イタリア北部などにあたる西ヨーロッパの広い地域を支配しました。
そして800年、ローマ教皇はカール大帝に皇帝の冠を授けます。
これは単なる儀式ではありませんでした。
西ローマ帝国が滅亡してから300年以上がたった西ヨーロッパで、
ローマ帝国の伝統
キリスト教
ゲルマン民族の国家
という三つの要素が結びついたことを象徴する出来事だったのです。
中世ヨーロッパの社会や文化は、この三つの要素を受け継ぎながら形づくられていきました。
「国王」と「教皇」はどちらが上?
国王と教会は協力することで、互いに大きな力を得ました。
しかし、ここには後のヨーロッパ史につながる重要な問題もありました。
政治を支配する国王や皇帝とキリスト教世界で宗教的な権威を持つローマ教皇では、いったいどちらの権威が上なのでしょうか。
国王は「自分の国を治めるのは自分だ」と考えます。
一方、教皇はキリスト教世界に対して大きな宗教的権威を持っていました。
国王と教会が強く結びついたからこそ、やがて両者が「誰が大きな権限を持つのか」をめぐって対立するようになります。
その象徴的な出来事が、のちに起こるカノッサの屈辱です。
中世ヨーロッパの土台がつくられる
フランク王国とキリスト教会の結びつきによって、西ローマ帝国滅亡後のヨーロッパには新しい秩序が形づくられていきました。
大きく見ると、
西ローマ帝国が滅亡
↓
ゲルマン民族の国々が成立
↓
フランク王国がローマ教会と結びつく
↓
カール大帝が西ヨーロッパの広い地域を支配
↓
国王・皇帝とローマ教皇が大きな権威を持つ
という流れです。
しかし、カール大帝の死後、フランク王国はやがて分裂します。
ヨーロッパは再び多くの国や地域に分かれていきますが、そのなかでもキリスト教は人々を広く結びつけ続けました。
こうして、政治的には分かれていても、キリスト教によって結びついた中世ヨーロッパ世界が形づくられていくのです。
第3章 中世ヨーロッパと教会|なぜローマ教皇は大きな力を持った?
フランク王国が分裂したあと、西ヨーロッパには多くの国や領主が存在するようになりました。
現代のように、国家が人々の生活のすみずみまで統一的な制度で支える社会ではありません。
そんな中世ヨーロッパで、国や地域をこえて人々を結びつけていたのがキリスト教でした。
キリスト教会は信仰の場であるだけでなく、教育や文化、人々の日常生活にも深く関わっていました。
この時代のヨーロッパを理解するには、「教会は日曜日にお祈りをする場所」という現代的なイメージだけでは足りません。
人々の生活の中心にキリスト教があった
中世ヨーロッパでは、人々の人生とキリスト教は深く結びついていました。
誕生、結婚、死など人生の重要な場面には教会が関わり、人々はキリスト教の教えに基づいて世界や人生を理解していました。
各地には教会が建てられ、修道院も大きな役割を果たします。
そして教会や修道院は、信仰だけでなく、教育や文化を支える場所でもありました。
まだ学校が現在のように広く整備されていなかった時代、読み書きのできる聖職者たちは貴重な知識人でもありました。
修道院では聖書だけでなく、古代から伝わる書物も書き写され、保存されました。
そのため、キリスト教会は中世ヨーロッパの知識や文化を受け継ぐ重要な役割も担っていたのです。
土地を持つ教会は経済的にも大きな存在だった
教会が持っていたのは宗教的な影響力だけではありません。
教会や修道院は国王や貴族などから多くの土地を寄進され、大きな土地所有者にもなっていきました。
また、信者からは十分の一税なども集められました。
つまり中世の教会は、
宗教
教育・文化
土地・経済
など、社会のさまざまな部分に関わる巨大な組織だったのです。
しかもキリスト教会のつながりは、一つの国のなかだけに限られません。
国境をこえて広がる教会組織の頂点に立ったのが、ローマ教皇でした。
国王でも教会を無視できなかった
中世の国王や皇帝にとっても、キリスト教会の権威は重要でした。
国王がただ武力で土地を支配するだけでなく、キリスト教会から認められることは、その支配に大きな権威を与えました。
しかし、ここで問題が起こります。
国王や皇帝は、自分の国の聖職者を自分で選び、政治にも協力させたいと考えました。
一方、教会側からすれば、「教会の聖職者を決めるのは、国王ではなく教会であるべきだ」ということになります。
こうして、聖職者を任命する権利をめぐって、皇帝とローマ教皇が激しく対立するようになりました。
カノッサの屈辱|皇帝が教皇に許しを求める
この対立を象徴する出来事が、1077年のカノッサの屈辱です。
神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世は、聖職者を任命する権利などをめぐって対立しました。
教皇はハインリヒ4世を破門します。
破門とは、キリスト教会から追放することです。
現代の感覚では、「教会から追放されても、皇帝なら困らないのでは?」と思うかもしれません。
しかし、キリスト教が社会全体に大きな影響力を持っていた中世ヨーロッパでは、事情がまったく違いました。
皇帝が教会から破門されると、その権威そのものが揺らぎ、皇帝に反発する諸侯にも大きな口実を与えることになります。
追い詰められたハインリヒ4世は、教皇のいたカノッサ城を訪れ、許しを求めました。
これがカノッサの屈辱です。
カノッサの屈辱が示す「教会の時代」
もちろん、カノッサの屈辱によって「教皇が皇帝に完全に勝利し、その後ずっと皇帝より強くなった」というわけではありません。
その後も皇帝と教皇の対立は続きました。
それでも、この出来事には大きな意味があります。
ヨーロッパ最大級の政治権力を持つ皇帝でさえ、ローマ教皇の宗教的権威を無視できなかった。
これほどキリスト教会が大きな影響力を持っていたことを、カノッサの屈辱は象徴しているのです。
このころ、ローマ教皇の権威は大きく高まっていました。
そして11世紀末になると、ローマ教皇の呼びかけによって、西ヨーロッパ各地から多くの人々が遠く離れた聖地エルサレムを目指すことになります。
それが十字軍です。
キリスト教によって結びついた中世ヨーロッパが、大きく外の世界へ動き出すことになるのです。
第4章 十字軍|教会の力がヨーロッパを外の世界へ動かした
11世紀末、ローマ教皇の呼びかけによって、西ヨーロッパから多くの人々が聖地エルサレムを目指しました。
これが十字軍です。
十字軍は、キリスト教を中心にまとまった中世ヨーロッパを象徴する出来事でした。
しかし長い目で見ると、十字軍にはもう一つ重要な意味があります。
キリスト教世界を守ろうとして始まった十字軍が、結果としてヨーロッパとイスラーム世界などとの交流を活発にし、それまでの中世ヨーロッパ社会を変化させるきっかけの一つにもなったのです。
なぜ十字軍は始まった?
キリスト教・イスラーム教・ユダヤ教にとって重要な都市であるエルサレムは、7世紀にイスラーム勢力の支配下に入りました。
その後11世紀になると、イスラーム勢力のセルジューク朝が勢力を拡大します。
圧迫を受けた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、西ヨーロッパへ援助を求めました。
これを受けて1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に聖地エルサレムを取り戻すための遠征を呼びかけます。
翌1096年から始まったのが十字軍です。
西ヨーロッパ各地から、諸侯や騎士など多くの人々が参加しました。
一つの国の国王が命令したのではなく、ローマ教皇の呼びかけによってヨーロッパ各地から人々が集まったことは、当時の教会が持っていた大きな影響力をよく表しています。
最初はエルサレムを占領した
第1回十字軍は1099年にエルサレムを占領することに成功しました。
しかし、その後イスラーム勢力が巻き返し、エルサレムは再びイスラーム側の支配下に入ります。
ヨーロッパ側はその後も繰り返し十字軍を送りましたが、聖地を安定して支配することはできませんでした。
十字軍は約200年にわたって何度も行われましたが、最終的には聖地をキリスト教側の支配下に置き続けるという目的を達成できませんでした。
そのため、十字軍を呼びかけたローマ教皇の権威も、長期的にはしだいに揺らいでいくことになります。
戦争によって東西の交流が活発になる
しかし、十字軍の影響は戦争の勝敗だけではありませんでした。
十字軍によって、多くのヨーロッパ人が地中海東部へ移動しました。
その結果、西ヨーロッパとイスラーム世界や東方との人や物の交流が活発になります。
ヨーロッパでは、香辛料・絹織物など東方の商品への需要が高まりました。
これらの商品を運ぶ地中海貿易で大きく発展したのが、ヴェネツィアやジェノヴァなどイタリアの都市です。
商業が活発になると都市が成長し、商人たちも経済力を持つようになっていきました。
農業を中心とした中世ヨーロッパの社会に、商業と都市という新しい力が大きくなっていったのです。
イスラーム世界から多くの知識が伝わる
ヨーロッパが接触したイスラーム世界は、当時、高度な学問や文化を発展させていました。
イスラーム世界では、数学・医学・天文学などの研究が進められていました。
また、古代ギリシャの哲学や科学の文献もアラビア語に翻訳され、研究されていました。
こうした知識は、イスラーム世界との交流などを通して西ヨーロッパにも伝えられていきます。
ヨーロッパの人々は、失われていた古代ギリシャ・ローマの知識の一部に改めて触れるようになりました。
ただし、こうした知識の交流が十字軍だけによって起きたわけではありません。
イスラーム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒などが暮らしたイベリア半島やシチリア島なども、イスラーム世界の学問が西ヨーロッパへ伝わる重要な窓口でした。
十字軍は、より大きな東西交流の一部だったと考えるとよいでしょう。
十字軍が中世ヨーロッパを変える一因となった
十字軍が長く続くと、遠征に参加した諸侯や騎士のなかには、戦争によって財産や力を失う者も現れました。
一方で、東方との貿易によって都市や商人が成長していきます。
その結果、中世ヨーロッパの社会を支えていた封建的な仕組みも少しずつ変化していきました。
そして、もう一つ重要なのがローマ教皇の権威の変化です。
十字軍は、ローマ教皇の呼びかけによってヨーロッパ各地から多くの人々が集まったことからも分かるように、教皇の大きな権威を象徴する出来事でした。
しかし、十字軍は長期間にわたって繰り返されたものの、最終的に聖地エルサレムをキリスト教勢力のもとに置き続けることはできませんでした。
さらに、本来の目的から外れて略奪が行われたり、第4回十字軍では同じキリスト教世界のコンスタンティノープルが攻撃されたりするなど、十字軍そのものにも矛盾が現れていきます。
もちろん、十字軍だけが原因で教皇の力が衰えたわけではありません。しかし、こうした十字軍の結果や、その後に国王が力を強めていったことなどが重なり、ローマ教皇の権威もしだいに揺らいでいくことになります。
つまり十字軍は、教皇の大きな権威によって始まり、ヨーロッパと外の世界との接触を広げ、東方との交易や都市の発達をうながし、封建社会を変化させる一因となる一方で、教皇の権威が揺らいでいくきっかけの一つにもなったのです。
「教会の時代」が少しずつ変わり始める
十字軍が始まった11世紀末は、ローマ教皇がヨーロッパ社会に大きな影響力を持っていた時代でした。
しかし、その教皇の呼びかけによって始まった十字軍が、結果としてヨーロッパを外の世界へ開く一つのきっかけになりました。
都市や商業が発達すると、人々の生活や社会のあり方も変わっていきます。
そして経済力を持つ商人や都市の存在が大きくなるにつれて、農業と土地を中心としていた中世社会も変化していきました。
こうした変化の先に登場するのが、ルネサンスです。
中世ヨーロッパで長く大きな影響を持ってきたキリスト教を否定するのではなく、古代ギリシャ・ローマの文化を見直し、人間そのものにも目を向けようとする新しい文化が花開いていくことになります。
第5章 ルネサンス|なぜ「人間中心」という考え方が画期的だった?
14世紀ごろから、イタリアを中心にルネサンスと呼ばれる新しい文化が広がりました。
ルネサンスは「再生」を意味し、古代ギリシャ・ローマの文化を見直そうとする動きです。
中学歴史では、「ルネサンス=人間中心の文化」と説明されることがよくあります。
しかし、これだけでは、「人間を中心に考えることの何がそんなに新しかったの?」と思うかもしれません。
その意味を理解するには、中世ヨーロッパの人々が人間をどのような存在として考えていたのかを見る必要があります。
中世ヨーロッパでは「神」が世界を理解する中心だった
中世ヨーロッパの人々にとって、キリスト教は単なる宗教の一つではありませんでした。
この世界は神によってつくられ、人間は神によって生み出された存在であり、死後の救いも神との関係のなかで考えられていました。
キリスト教には、アダムとエバが神に背いたことによって、人間は生まれながらに原罪を負っているという考えがあります。
人間は完全な存在ではなく、罪を抱え、神による救いを必要とする存在だと考えられたのです。
そのため、中世の学問や芸術でも、神や聖書、キリスト教の教えが非常に大きな位置を占めていました。
絵画や彫刻も、聖書の物語やキリスト、聖母マリア、聖人などを題材としたものが多くつくられました。
もちろん、中世にも人間の美しさや感情を表現した作品はあります。
しかし社会全体を大きく見ると、「人間とは何か」を考えるときにも、その中心には神がいたのです。
古代ギリシャ・ローマでは人間そのものにも目を向けた
一方、ルネサンスの人々が改めて注目した古代ギリシャ・ローマの文化には、少し違った人間の見方がありました。
古代ギリシャの彫刻を見ると、人間の身体が驚くほど生き生きと表現されています。
哲学者たちは、「人間とは何か」「よく生きるとはどういうことか」「社会や政治はどうあるべきか」といった問題について、人間の理性を使って考えました。
そこには、人間の身体・感情・理性・能力そのものに価値を見いだす文化がありました。
中世の人々が古代の文献や芸術に改めて触れたとき、「人間そのものにも、もっと目を向けていいのではないか」という新しい関心が強まっていきます。
これがルネサンスの重要な特徴である人文主義(ヒューマニズム)につながりました。
「人間中心」は「神を否定する」という意味ではない
ここは特に注意したいところです。
ルネサンスによって、「神を信じるのをやめて、人間だけを信じるようになった」わけではありません。
ルネサンスを代表する芸術家たちの多くもキリスト教徒でしたし、作品にもキリスト教を題材にしたものが数多くあります。
たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』も、ミケランジェロの『最後の審判』もキリスト教を題材とした作品です。
変わったのは、人間を見る視線でした。
神を信じながらも、人間の身体は美しい・人間には理性がある・人間には世界を知る力がある・人間の感情や個性も表現する価値があると、人間そのものを積極的に見つめるようになっていったのです。
これが「人間中心」という言葉の重要な意味です。
人間の身体をありのままに描こうとする
この変化は、ルネサンス美術を見ると分かりやすいでしょう。
ルネサンスの芸術家たちは、人間の身体をより自然で立体的に描こうとしました。
筋肉や骨格を観察し、人間の身体がどのような構造になっているのかを研究する芸術家も現れます。
レオナルド・ダ・ヴィンチは絵画だけでなく人体についても詳しく研究し、多くの解剖図を残しました。
ミケランジェロも、人間の肉体を力強く美しいものとして表現しました。
これは単に絵の描き方が上手になったという話ではありません。
人間の身体そのものを観察し、理解し、その美しさを表現する価値があるという人間への強い関心が、その背景にあったのです。
「自分の目で世界を見る」という姿勢へ
人間への関心が高まると、世界そのものを見る姿勢にも変化が生まれます。
古い権威や伝えられてきた知識だけに頼るのではなく、「実際にはどうなっているのだろう」と、自分の目で観察し、考えようとする姿勢が強くなっていきました。
もちろん、ルネサンスからすぐに近代科学が完成したわけではありません。
しかし、人間の理性や観察を重視する姿勢は、その後の科学革命にもつながっていきます。
さらに、「人間には自分で考える力がある」という考え方は、長い時間をかけて、政治や社会についても人間の理性で考えようとする近代ヨーロッパの思想へとつながっていきました。
ルネサンスは「神から人間へ」ではなく「人間を再発見した」
ルネサンスを、
中世=神中心
↓
ルネサンス=人間中心
と覚えると分かりやすい反面、「ヨーロッパの人々がキリスト教を捨てた」という誤解につながります。
そうではありません。
より正確に見るなら、
神を中心に世界を理解してきた中世ヨーロッパ
↓
古代ギリシャ・ローマ文化を見直す
↓
人間の身体・感情・理性・個性にも改めて価値を見いだす
という変化です。
ルネサンスとは、ある意味で「人間の再発見」だったのです。
そして、人間と世界に対する新しい関心が高まっていたころ、ヨーロッパ人の視線は地中海世界のさらに外へも向かい始めます。
香辛料などを求めて新しい航路を探し、ヨーロッパから世界の海へ進出する大航海時代が始まろうとしていました。
第6章 大航海時代|ヨーロッパはなぜ世界の海へ進出した?
15世紀末になると、ヨーロッパの人々は大西洋へ乗り出し、アジアへ向かう新しい航路を探し始めました。
大航海時代の始まりです。
中学歴史では、コロンブス、バスコ・ダ・ガマ、マゼランなどの名前を覚えることが中心になりがちです。
しかし、ここまでヨーロッパ史をたどってくると「なぜこの時代になって、ヨーロッパ人は世界の海へ進出したのか」という大きな流れが見えてきます。
大航海時代は、中世ヨーロッパで起きていたさまざまな変化が重なった結果だったのです。
ヨーロッパでは東方の商品が求められていた
十字軍などをきっかけに東方との交流が活発になると、ヨーロッパではアジアから運ばれてくる商品への需要が高まりました。
なかでも重要だったのが、香辛料です。
コショウなどの香辛料は料理に使われ、ヨーロッパでは価値の高い商品として取引されました。
しかし、アジアの商品をヨーロッパまで運ぶには長い交易路を通らなければなりません。
途中には多くの商人が入り、地中海貿易ではヴェネツィアなどの都市が大きな利益を得ていました。
そこでヨーロッパの国々は、「自分たちで直接アジアへ行く航路を見つけられないか」と考えるようになります。
オスマン帝国の拡大も新航路探しの背景に
15世紀には、イスラーム勢力のオスマン帝国が勢力を拡大していました。
1453年には、東ローマ帝国の都コンスタンティノープルを征服し、東ローマ帝国を滅ぼします。
オスマン帝国は東西交易の重要な地域を支配する大国となりました。
ここで、「オスマン帝国が交易路を完全に閉鎖したため、大航海時代が始まった」と考えるのは正確ではありません。
オスマン帝国成立後も、ヨーロッパとアジアの交易は続いていました。
ただし、アジアの商品を直接手に入れて利益を得たいというヨーロッパ側の思いは強く、新しい海上ルートを探す動機の一つとなりました。
航海技術の発達が大西洋への進出を可能にした
新しい航路を探したいと思っても、遠い海を安全に航海できなければ実現できません。
そこで重要になったのが航海技術の発達です。
方位磁針が航海に利用されるようになり、天体を観測して位置を知る技術や、遠洋航海に適した船も発達していきました。
こうした技術や知識には、イスラーム世界などを通してヨーロッパへ伝わったものもありました。
中世に外の世界との交流を通して取り入れてきた知識が、今度はヨーロッパ人自身がさらに遠い世界へ進出するために利用されていったのです。
ポルトガルがアフリカを回ってアジアを目指す
大航海時代の先頭を走った国の一つがポルトガルです。
ポルトガルはアフリカ西岸を南へ進み、アフリカを回ってインドへ向かう航路を探しました。
1488年、バルトロメウ・ディアスがアフリカ南端の喜望峰に到達します。
そして1498年、バスコ・ダ・ガマが喜望峰を回ってインドに到達しました。
これによってヨーロッパから海路でインドへ向かう航路が開かれます。
ヨーロッパとアジアが、海によって直接結ばれる時代が始まったのです。
コロンブスは西へ向かった
一方、スペインの援助を受けたコロンブスは、別の方法でアジアを目指しました。
地球が球体であるなら、「西へ進んでもアジアへ到達できるはずだ」と考えたのです。
1492年、コロンブスは大西洋を横断し、現在のカリブ海の島々に到達しました。
コロンブス自身はアジア周辺へ到達したと考えていましたが、ヨーロッパ人にとって未知だったアメリカ大陸へつながる航路を開くことになりました。
その後、スペインを中心にアメリカ大陸への進出が本格化していきます。
マゼランの船隊が世界一周を達成する
さらに1519年、スペインの支援を受けたマゼランの船隊が西回りでアジアを目指して出航しました。
マゼラン自身は航海の途中で亡くなりましたが、残った船員たちは航海を続け、1522年にスペインへ帰還します。
こうして、人類史上初めての世界一周が達成されました。
地球が一つの海でつながっていることが、実際の航海によって示されたのです。
大航海時代には「征服」という側面もあった
大航海時代は、「勇敢な探検家たちが未知の世界を発見した時代」として語られることがあります。
しかし、それだけではありません。
スペインやポルトガルなどのヨーロッパ諸国は、アメリカ・アジア・アフリカへ進出し、各地を支配していきました。
アメリカ大陸では、スペイン人によってアステカ帝国やインカ帝国が征服されました。
さらにヨーロッパから持ち込まれた感染症などによって、先住民社会は大きな被害を受けます。
アフリカから多くの人々が奴隷としてアメリカ大陸へ連れて行かれる大西洋奴隷貿易も拡大していきました。
つまり大航海時代は、世界各地の交流が急速に広がった時代であると同時に、ヨーロッパによる征服や植民地支配が世界へ広がり始めた時代でもあったのです。
ヨーロッパの視野が「世界」へ広がった
大航海時代によって、ヨーロッパ人が知る世界の範囲は一気に広がりました。
アメリカから大量の銀などがヨーロッパへ流れ込み、アジアの商品が海を越えて運ばれ、人・物・文化が世界規模で移動するようになります。
世界の各地域が、それまで以上に密接につながる時代が始まったのです。
そして大航海時代には、もう一つ重要な変化が見えています。
遠洋航海には、多額の資金や船、武器などが必要でした。
そのためポルトガルやスペインでは、国王が航海や海外進出を支援しました。
中世ヨーロッパで大きな権威を持っていた教会だけでなく、国王と国家が大規模な事業を進める力を持ち始めていたことが見えてきます。
しかしその一方で、キリスト教会そのものにも大きな変化が迫っていました。
16世紀、カトリック教会のあり方を批判するルターが登場します。
西ヨーロッパを長い間広く結びつけてきたキリスト教世界が大きく分裂する、宗教改革が始まるのです。
第7章 宗教改革|キリスト教世界の統一が揺らぐ
16世紀になると、中世ヨーロッパを長い間支えてきたキリスト教世界に大きな変化が起こります。
宗教改革です。
1517年、ドイツの神学者ルターがカトリック教会のあり方を批判しました。
そこから改革の動きはヨーロッパ各地へ広がり、カトリック教会から分かれたプロテスタントと呼ばれる新しい教派が生まれます。
宗教改革は、単にキリスト教の宗派が増えた出来事ではありません。
このシリーズの大きな流れで見ると、西ヨーロッパを広く結びつけてきたカトリック教会の権威と宗教的統一が大きく揺らいだ出来事だったのです。
ルターはなぜカトリック教会を批判した?
宗教改革のきっかけとして、中学歴史で特に重要なのが免罪符(贖宥状)です。
当時のカトリック教会では、罪に対する罰の軽減に関わる免罪符が発行されていました。
16世紀になると、サン=ピエトロ大聖堂の建設費などを集めることとも結びつき、免罪符の販売が広く行われるようになります。
これに強く反発したのがルターでした。
1517年、ルターは「95か条の論題」を発表し、免罪符の販売など教会のあり方を批判します。
ルターが重視したのは、「人は何によって救われるのか」という問題でした。
ルターは、教会にお金を支払ったり特定の行為をしたりすることによって救われるのではなく、神への信仰によって救われると考えました。
「聖書を自分で読む」という大きな変化
ルターは、教会の権威だけではなく聖書を重視しました。
しかし当時、西ヨーロッパの教会で使われる聖書は主にラテン語で書かれていました。
一般の人々が簡単に読めるものではありません。
そこでルターは、聖書をドイツ語に翻訳しました。
さらに、このころヨーロッパでは活版印刷が普及し始めていました。
印刷によって聖書やルターの主張が大量に広まり、多くの人々がそれに触れられるようになります。
それまで、教会や聖職者を通して教えを受けるという形が中心だったところに、自分たちの言葉で聖書を読み、信仰について考えるという新しい可能性が生まれたのです。
これは宗教だけでなく、その後のヨーロッパの文化や教育にも大きな影響を与えていきました。
宗教改革がヨーロッパ各地へ広がる
ルターの改革運動はドイツだけにとどまりませんでした。
スイスではカルヴァンが宗教改革を進め、その教えはフランス・オランダ・イギリスなどにも影響を与えました。
こうしてカトリック教会から分かれた新しいキリスト教の諸派を、まとめてプロテスタントと呼びます。
またイギリスでは、国王ヘンリ8世がローマ教皇と対立し、ローマ教皇から独立したイギリス国教会を成立させました。
ここには、宗教改革が単なる信仰上の問題だけではなかったことがよく表れています。
「自分の国の教会を、外国にいるローマ教皇が支配するのか。それとも国王が支配するのか」という、政治権力をめぐる問題とも結びついていたのです。
カトリック教会も改革を進める
宗教改革に対して、カトリック教会も何もしなかったわけではありません。
教会内部の問題を見直し、規律を立て直す改革を進めました。
また、イエズス会などが各地でカトリックの布教活動を行います。
イエズス会の宣教師はヨーロッパだけでなく、アジアやアメリカ大陸にも進出しました。
日本へキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルも、イエズス会の宣教師です。
1549年にザビエルが日本へやって来た背景にも、こうしたヨーロッパでの宗教改革とカトリック側の動きがあったのです。
日本史で突然登場するザビエルも、世界史の流れのなかに置くと意味が見えてきます。
宗教の違いが戦争にもつながった
宗教改革によってヨーロッパがカトリックとプロテスタントに分かれると、各地で激しい対立が起こりました。
ただし、その争いは「どの宗派を信じるか」という宗教だけの問題ではありません。
国王や諸侯が自らの政治的な利益や独立を求める動きとも複雑に結びついていました。
17世紀には、こうした宗教対立や国家間の争いが重なって三十年戦争が起こります。
そして1648年に結ばれたウェストファリア条約は、その後のヨーロッパで、それぞれの国家が自らの領域を支配するという考え方が強まっていく重要な節目となりました。
ここからヨーロッパは、国境をこえる教会の権威だけでなく、それぞれの国家と国王が大きな力を持つ世界へとさらに進んでいきます。
「教会の時代」から「国王の時代」へ
ここまで第1部の流れを振り返ってみましょう。
ローマ帝国でキリスト教が広がる
↓
西ローマ帝国が滅亡してもキリスト教会は残る
↓
フランク王国とローマ教会が結びつく
↓
ローマ教皇が大きな権威を持つ
↓
十字軍を通して外の世界との交流が拡大
↓
都市・商業が発達する
↓
ルネサンスで人間や古代文化への関心が高まる
↓
大航海時代にヨーロッパが世界へ進出
↓
宗教改革によって西ヨーロッパの宗教的統一が揺らぐ
この長い変化によって、中世ヨーロッパを特徴づけていた社会のあり方は大きく変わりました。
もちろん、宗教改革後もキリスト教はヨーロッパ社会に強い影響を与え続けます。
「教会の時代が終わって、キリスト教の影響がなくなった」という意味ではありません。
しかし、国境をこえて大きな権威を持っていたローマ教皇に対して、各国の国王や国家の力が以前より強くなっていったことは重要です。
そして次の時代には、国王が軍隊や官僚制度を整え、国内の権力を自らのもとへ集めていきます。
ヨーロッパ史の中心となる問いは、「教皇と皇帝のどちらが強いのか」から、「国王はどこまで大きな権力を持つことができるのか」へと変わっていきます。
ここから、第2部「国王の時代」――絶対王政からフランス革命までへと進んでいくのです。

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