ヨーロッパ史の第2部では、国王が大きな権力を持った絶対王政から、イギリス革命、啓蒙思想、アメリカ独立革命、そしてフランス革命までを見てきました。
その長い流れのなかで、政治についての考え方は大きく変化していきます。
かつては、「国王が国家を治める」ことが当然のように考えられていました。
しかし、フランス革命では、自由・平等・国民の権利が掲げられ、「国家の主人は国王ではなく、国民なのではないか」という考え方が政治の現実を大きく動かしました。
今回の第3部では、ここから始まる「国民の時代」を見ていきます。
「国民」が国家を支えるという新しい考え方
現在の私たちは、「フランス人がフランスという国をつくる」「ドイツ人がドイツという国をつくる」という考え方を、それほど不思議には感じないかもしれません。
しかし、これは昔から当たり前だったわけではありません。
中世ヨーロッパでは、同じキリスト教を信じることが人々を広く結びつけていました。
その後、国王の力が強くなり、国王を中心とする国家がつくられていきます。
そしてフランス革命を経て、「同じ国民が、自分たちの国家をつくり、自分たちの国家を支える」という考え方が大きな力を持つようになりました。
これが近代の国民国家につながっていきます。
なぜ「国民の国家」は強かったのか?
この変化は、政治の考え方だけの問題ではありませんでした。
国家そのものの力を大きく変えることになります。
絶対王政の時代、戦争は基本的に国王や王朝どうしの争いでした。
国王は税を集め、職業軍人などからなる軍隊を使って戦いました。
ところがフランス革命後、人々は、「国王のために戦う」のではなく、「自分たちの革命や祖国を守るために戦う」ようになります。
フランスでは大規模な徴兵が行われ、多くの国民が軍隊に参加しました。国家が国民全体の力を動員できるようになったのです。
これはヨーロッパの戦争のあり方を大きく変えました。
その巨大な力を使ってヨーロッパ各地を席巻した人物が、ナポレオンです。
ナポレオンが革命の理念をヨーロッパへ運ぶ
ナポレオンはフランス革命後の混乱のなかで頭角を現し、やがて皇帝となりました。
そのため、「革命で国王を倒したのに、また皇帝?」と不思議に思うかもしれません。
実際、ナポレオンは独裁的な政治を行い、ヨーロッパ各地へ軍事的に進出しました。
しかし一方で、ナポレオンの支配が広がった地域では、法の下の平等や身分的な特権の廃止など、フランス革命から生まれた考え方も広がっていきました。
ナポレオンが自由や平等を善意でヨーロッパへ広めようとした、という意味ではありません。
征服戦争の結果として、革命以前の社会の仕組みを揺さぶることになったのです。
そして、さらに興味深い変化が起こります。
フランスへの抵抗が「自分たちは何者か」を意識させた
ナポレオンによって支配された地域では、人々がフランスの支配に反発しました。
そのなかで、「自分たちはフランス人ではない」「自分たちはドイツ人だ」「自分たちはイタリア人だ」という意識も強くなっていきます。
自分たちと同じ言語・文化・歴史などを共有する人々を一つのまとまりとして考え、そのまとまりを大切にしようとするナショナリズム(国民主義・民族主義)が大きな力を持つようになったのです。
ナポレオンはフランス革命から生まれた国民国家の力を使ってヨーロッパを征服しました。
しかし、その支配に抵抗した人々にもまた、「自分たちの国を持ちたい」という意識を強めることになりました。
ナポレオンが敗れても、革命以前には戻れなかった
1815年、ナポレオンが最終的に敗れると、ヨーロッパ諸国はウィーン会議を開きました。
各国の支配者たちは、フランス革命以前の秩序をできるだけ取り戻そうとします。
しかし、時計を完全に巻き戻すことはできませんでした。
一度広がった自由・平等・国民主権・ナショナリズムといった考え方を消すことはできなかったからです。
19世紀のヨーロッパでは、自由を求める運動や、自分たちの国をつくろうとする運動が各地で起こります。
そしてその流れのなかから、イタリア統一やドイツ統一が実現していきます。
国民をつくるために「共通のもの」が必要になる
国民国家が成立すると、もう一つ重要な問題が生まれます。
「そもそも国民とは誰なのか?」という問題です。
一つの国家には、地域によって異なる言葉や文化を持つ人々が暮らしていることもあります。
そこで近代国家は、共通の言語・共通の歴史・共通の教育・国旗や国歌などを通して、人々に同じ国家の一員であるという意識を持たせていきました。
学校教育も大きな役割を果たします。
同じ言葉を学び、同じ国の歴史を学び、「私たちは同じ国民である」という意識を共有する。
こうして国民国家は、制度だけでなく、人々の意識の面でもつくられていったのです。
だからこそ、現在でも使われる「ナショナリズム」という言葉を理解するには、この時代のヨーロッパ史が重要になります。
国民国家は自由だけをもたらしたわけではない
国民国家の成立は、身分社会を乗り越え、国民が政治に参加していく大きな力になりました。
しかし、国民を強く一つにまとめる力には、別の側面もあります。
「自分たちの国」という意識が強くなれば、「ほかの国より強くなりたい」という競争にもつながります。
さらに19世紀には産業革命が進み、ヨーロッパ諸国はそれまでとは比べものにならないほど大きな経済力・軍事力を持つようになりました。
国民国家の力と産業革命による経済力・軍事力が結びついたとき、ヨーロッパ諸国はその力を世界へ向けていきます。
アジアやアフリカを植民地として支配しようとする帝国主義の時代です。
「教会 → 国王 → 国民」の最後の物語
このシリーズでは、ヨーロッパ史を、
教会 → 国王 → 国民
という大きな変化から見てきました。
第1部では、キリスト教が中世ヨーロッパの人々を広く結びつけた「教会の時代」。
第2部では、国家がまとまり、絶対王政が成立し、その国王の権力が革命によって問われた「国王の時代」。
そして第3部では、
フランス革命
↓
ナポレオン
↓
ナショナリズム
↓
国民国家
↓
産業革命
↓
帝国主義
という流れをたどります。
ここまで来ると、中学歴史で別々に登場するフランス革命・ナポレオン・ビスマルク・産業革命・帝国主義が、実は一つの大きな歴史のなかにあることが見えてきます。
そして、強大な国民国家となったヨーロッパ諸国が世界へ進出すると、その波はアジアにも押し寄せます。
アヘン戦争、ペリー来航、そして日本の明治維新。
中学歴史で詳しく学んできた日本史も、ここで世界史とつながります。
そして20世紀初め、強大になった国民国家どうしの対立は、ついに世界規模の戦争へと発展します。
1914年、第一次世界大戦。
この大事件が始まる直前までを、第3部では一本の流れとして見ていきましょう。
第1章 フランス革命と国民軍|なぜ「国民の国家」は強かった?
1789年に始まったフランス革命によって、「国家は誰のものなのか」という考え方が大きく変わりました。
それまでのフランスでは、国王を中心に国家が治められていました。
しかし革命によって、国家の主権は国王ではなく国民にあるという新しい考え方が広がっていきます。
そして、この変化は政治だけにとどまりませんでした。
戦争のあり方まで大きく変えることになります。
国民が国家の主人であるなら、その国家を守るのも国民である――。
フランス革命のなかから、近代の国民国家につながる強力な仕組みが姿を現していきます。
周囲の国々はフランス革命を警戒した
フランス革命によって、絶対王政は大きく揺らぎました。
1792年には王政が廃止され、翌1793年には国王ルイ16世が処刑されます。
この革命を警戒したのが、周囲のヨーロッパ諸国でした。
当時のヨーロッパには、オーストリアやプロイセンなど、国王や皇帝が支配する国々が数多くありました。
もし、「国王を倒して国民が政治の主人になる」という革命の考え方が自分たちの国にも広がれば、自分たちの支配まで危うくなるかもしれません。
さらにフランス革命政府も革命を守ろうとして周辺諸国との対立を深めます。
こうして革命後のフランスは、ヨーロッパの君主国との戦争に突入していきました。
革命によって生まれた国家を誰が守るのか?
ここでフランスは大きな問題に直面します。
ヨーロッパの強国を相手に戦わなければならないからです。
そこで革命政府は、多くの国民を戦争に動員するようになります。
1793年には、国家的な大規模動員である国民総動員(ルヴェ・アン・マス)が行われました。
ここで重要なのは、単に「兵士の人数が増えた」ということだけではありません。
それまでのヨーロッパでは、戦争は国王や王朝の利益をめぐって行われ、職業軍人や傭兵などが大きな役割を担っていました。
しかし革命後のフランスでは、「自分たちの革命を守る」「自分たちの祖国を守る」という意識のもとで、多くの国民が戦争に動員されました。
つまり、国王の戦争から、国民が参加する国家の戦争へと、戦争の性格そのものが変わり始めたのです。
国民全体を動員できる国家は強い
ここには、近代の国民国家が持つ非常に大きな力が隠れています。
絶対王政の国王も常備軍を持っていました。
しかし、軍隊を維持するには多額のお金が必要です。
それに対して、「この国は自分たちの国である」と国民が考えるようになれば、国家は国民に、税を納めてもらう・兵士として戦ってもらう・国家のために働いてもらうといった形で、社会全体の力を動員しやすくなります。
国民国家の強さは、単に国王が強いこととは違います。
何百万人という国民の力を国家の力としてまとめられることにあったのです。
革命後のフランスは、その力をヨーロッパに強烈に示すことになります。
「祖国を守る」という意識
革命期のフランスでは、祖国(パトリ)という考え方も強く意識されるようになりました。
国家は国王個人の所有物ではない。
国民みんなの祖国である。
そう考えるなら、外国軍からフランスを守ることは、国王を守ることではなく自分たち自身の国を守ることになります。
ここに、国民と国家が強く結びついていく近代的な考え方を見ることができます。
もちろん、当時のフランス国民全員が同じ熱意を持って戦争を支持していたわけではありません。
徴兵や革命政府に反発する人々もおり、国内では反乱も起きました。
「国民が一つになった」と単純化することはできません。
それでも、国家が国民全体に働きかけ、大規模な軍事動員を行う仕組みが登場したことには大きな意味がありました。
国家は「国民」をつくるようになる
そして国民国家には、もう一つ重要な特徴があります。
国家を支える国民を増やすためには、「自分たちは同じ国の仲間だ」と思ってもらう必要があります。
しかし当時のフランスでは、すべての人が現在のような標準フランス語を日常的に話していたわけではありません。
地域によって言葉や文化、生活習慣にも違いがありました。
そこで近代国家が発達していくと、学校教育などを通して、共通の言語を学ぶ・同じ国の歴史を学ぶ・国旗や国歌などを共有するといった仕組みが重要になっていきます。
つまり、国民が国家をつくるだけではなく、国家もまた教育や制度を通して「国民」をつくっていくという関係が生まれたのです。
これは、後に日本の明治政府が学校制度や徴兵制を整え、全国を一つの近代国家へまとめていく流れを理解するうえでも重要な視点です。
ナショナリズムとは何だろう?
ここから、現代でもよく耳にするナショナリズムという言葉の意味も見えてきます。
簡単にいえば、「自分たちは同じ国民・民族の仲間である」という意識を大切にし、そのまとまりや国家を重視する考え方です。
ただし、「国民」というまとまりは、家族のように全員がお互いを直接知っているわけではありません。
何百万人もの人々のほとんどは、一生会うことすらありません。
それでも、同じ言葉を使い・同じ歴史を学び・同じ国旗を見て・同じ国家の一員だと考える。
こうした共通の意識によって、「国民」という巨大なまとまりが成り立っています。
だからナショナリズムは、人々を強く結びつける大きな力になりました。
一方で、のちには「自分たち」と「ほかの国民」を分け、国家どうしの対立を強める力にもなっていきます。
この二つの側面は、第3部を通して見ていく重要なテーマです。
国民国家の力を使ったナポレオン
革命後のフランスは、周囲の君主国との戦争を続けました。
その戦争のなかから、一人の軍人が急速に頭角を現します。
ナポレオン・ボナパルトです。
ナポレオンは優れた軍事的才能を発揮しました。
しかし、ナポレオン軍の強さを一人の天才だけで説明することはできません。
その背後には、フランス革命によって生まれた国民を大規模に動員できる新しい国家の力がありました。
ナポレオンはその力を使って、ヨーロッパの広い地域を支配していきます。
そして皮肉なことに、ナポレオンによる征服は、フランス革命から生まれた新しい制度や考え方をヨーロッパ各地へ運ぶと同時に、支配された人々のナショナリズムを刺激することになります。
フランス革命から生まれた「国民」という力が、ヨーロッパ全体を動かし始めるのです。
第2章 ナポレオン|革命から生まれ、ヨーロッパを変えた皇帝
フランス革命後、フランスはヨーロッパの君主国との戦争を続けました。
そのなかで急速に頭角を現したのが、ナポレオン・ボナパルトです。
ナポレオンは軍人として活躍し、やがてフランスの政治権力を握り、1804年には皇帝となりました。
ここだけを見ると、「国王を倒した革命から、なぜまた皇帝が生まれたの?」と疑問に思うかもしれません。
しかし、ナポレオンがつくった国家は、単純に革命以前の絶対王政へ戻ったものではありませんでした。
ナポレオンは強大な権力を握る一方で、革命によって生まれた新しい制度の一部を受け継ぎました。
そしてフランスの軍事力によってヨーロッパ各地を支配した結果、フランス革命が生み出した変化までヨーロッパ各地へ広がっていくことになります。
革命の混乱からナポレオンが登場する
フランス革命では王政が倒され、共和政が成立しました。
しかし、その後のフランスがすぐに安定したわけではありません。
恐怖政治、その反動による政治の混乱、そして外国との戦争が続きました。
人々の間には、「革命の成果は守りたい。しかし、いつまでも混乱が続くのは困る」という思いも強まっていきます。
そうしたなかで人気を高めたのが、戦争で次々と勝利を収めていたナポレオンでした。
1799年、ナポレオンはクーデタによって政府を倒し、政治の実権を握ります。
そして国内の秩序を立て直しながら、自らに権力を集中させていきました。
ナポレオン法典|革命の成果を制度にする
ナポレオンの重要な業績として覚えておきたいのが、1804年に制定されたナポレオン法典(フランス民法典)です。
そこでは、法の前の平等や私有財産の保護など、フランス革命によって生まれた考え方の一部が法律として整えられました。
革命以前のフランスでは、生まれた身分によって権利や特権が異なる社会がありました。
それに対して、「貴族だから特別な権利を持つ」のではなく、「同じ法律のもとで人々を扱う」という方向へ社会が変化したのです。
ただし、ナポレオン法典を現代の完全な男女平等の法律だと考えてはいけません。
家族関係では男性の権限が強く、女性の権利には大きな制限がありました。
それでも、身分的特権を否定し、法のもとで社会を統一するという点では大きな意味を持っていました。
革命で王を倒したフランスに「皇帝」が誕生する
1804年、ナポレオンはフランス皇帝となります。
フランス革命からわずか十数年後のことです。
ここには大きな矛盾があるように見えます。
革命は絶対王政を倒したはずなのに、再び一人の人物に大きな権力が集中したからです。
実際、ナポレオンは言論や政治活動を制限するなど、独裁的な政治も行いました。
しかし、革命以前の社会へ完全に戻したわけでもありません。
身分的な特権を復活させて旧体制へ戻るのではなく、革命後につくられた社会を強力な国家権力によってまとめた。
ここにナポレオンという人物の複雑さがあります。
ナポレオンは、革命の成果を受け継いだ人物であると同時に、革命が掲げた自由を制限した独裁者でもあったのです。
国民国家の力でヨーロッパを席巻する
ナポレオンはその後、ヨーロッパ各国との戦争で次々と勝利しました。
その強さを支えたものの一つが、前章で見た国民を大規模に動員するフランスの軍事力でした。
フランス革命以前の戦争では、各国の君主が職業軍人や傭兵などを使って戦うことが一般的でした。
それに対して革命後のフランスでは、大量の国民を軍隊へ動員できるようになります。
そこへナポレオンの軍事的才能が加わりました。
フランス軍はヨーロッパ各地で勝利し、ナポレオンの支配地域は急速に広がっていきます。
1806年には、長く続いてきた神聖ローマ帝国も消滅しました。
中世以来のヨーロッパの政治秩序が、ナポレオンによって大きく揺さぶられたのです。
征服の「結果」として革命の影響が広がった
ナポレオンの支配が広がると、支配された地域では従来の社会制度が改革されることもありました。
身分的な特権や封建的な制度が見直され、ナポレオン法典の影響を受けた法律や行政制度も広がります。
そのためナポレオン戦争には、フランス革命の成果をヨーロッパへ広げたという側面があります。
ただし、ここは誤解しないようにしたいところです。
ナポレオンが、「自由と平等をヨーロッパの人々に届けよう」という善意だけで戦争をしたわけではありません。
ナポレオンはフランスの勢力を拡大し、自らの支配を広げるために戦いました。
しかし、征服した結果として、フランス革命によって生まれた制度や考え方がヨーロッパ各地へ伝わることになったのです。
歴史では、行動した人の「目的」と、そこから生まれた「結果」が一致するとは限りません。
ナポレオン戦争は、そのことがよく分かる例でもあります。
フランスに支配された人々にもナショナリズムが広がる
さらに、ナポレオンの征服は思わぬ結果を生みました。
フランスに支配された地域で、フランスへの反発が強まったのです。
たとえばドイツ語を話す地域では、「自分たちはフランス人ではない」「自分たちは同じドイツの文化や言語を持つ仲間ではないか」という意識が強まっていきます。
スペインなどでもフランス支配への激しい抵抗が起こりました。
つまりナポレオンは、フランスのナショナリズムによって強力になった国家の力を使ってヨーロッパを征服した一方で、その征服によって、支配された側のナショナリズムまで刺激したのです。
ここに世界史のおもしろい逆説があります。
ロシア遠征からナポレオンの没落へ
しかし、ナポレオンの支配は長くは続きませんでした。
大きな転機となったのが、1812年のロシア遠征です。
ナポレオンは大軍を率いてロシアへ侵攻しましたが、ロシア側は退却しながら物資などを残さない戦術をとりました。
フランス軍は補給に苦しみ、さらに厳しい冬も重なって壊滅的な被害を受けます。
これをきっかけにヨーロッパ各国は反撃を強めました。
ナポレオンは一度退位します。
その後、一時的に復帰しますが、1815年のワーテルローの戦いで敗北し、政治の舞台から完全に退きました。
ヨーロッパを席巻したナポレオンの時代は終わったのです。
ナポレオンが敗れても「革命」は消えなかった
ナポレオンが敗北すると、ヨーロッパの支配者たちは、「フランス革命以前の安定した秩序へ戻したい」と考えました。
しかし、それは簡単ではありませんでした。
フランス革命とナポレオン戦争を通して、法の下の平等・身分的特権への批判・国民主権・国民という意識・ナショナリズムなど、新しい考え方がすでにヨーロッパ各地へ広がっていたからです。
ナポレオンという一人の皇帝を倒すことはできても、その背後にあった時代の変化まで消すことはできなかったのです。
1814〜1815年、ヨーロッパ各国の代表が集まり、ナポレオン後の秩序について話し合いました。
これがウィーン会議です。
各国の支配者たちは革命以前の秩序を取り戻そうとします。
しかし、そのヨーロッパの足元ではすでに、「自由な政治を求めたい」「自分たちの民族の国をつくりたい」という二つの大きな力が動き始めていました。
自由主義とナショナリズムです。
19世紀のヨーロッパは、この二つの力によって再び大きく動いていくことになります。
第3章 ウィーン体制|革命前のヨーロッパに戻せるのか?
1815年、ナポレオンが最終的に敗れると、ヨーロッパの支配者たちは大きな問題に直面しました。
「ナポレオンによって大きく変えられたヨーロッパを、これからどうするのか?」
そこでヨーロッパ各国の代表が集まり、戦後の秩序について話し合いました。
これがウィーン会議です。
会議で中心的な役割を果たしたのが、オーストリアの外相メッテルニヒでした。
各国の支配者たちは、フランス革命とナポレオンによって広がった革命の動きを抑え、ヨーロッパに安定を取り戻そうとします。
しかし、ここには大きな問題がありました。
国境や国王を元に戻すことはできても、人々の考えまで革命以前に戻すことはできなかったのです。
ウィーン会議は何を目指した?
フランス革命からナポレオン戦争まで、ヨーロッパは20年以上にわたって大きく揺れ動きました。
王政が倒され、国王が処刑され、フランス軍がヨーロッパ各地へ進出しました。
そこでウィーン会議では、革命や戦争によって変えられた政治秩序を立て直そうとしました。
重要な考え方が正統主義です。
これは、革命やナポレオンによって追放された伝統的な王家を復活させ、革命以前の秩序をできるだけ取り戻そうとする考え方です。
フランスでもブルボン朝が復活しました。
さらに、どこか一つの国だけが強くなりすぎないようにする勢力均衡も重視されました。
ナポレオンのフランスのような国が再びヨーロッパを支配することを防ごうとしたのです。
こうして成立した国際秩序をウィーン体制といいます。
支配者たちが恐れた「革命」
メッテルニヒらが特に警戒したのが、フランス革命から広がった新しい思想でした。
その一つが自由主義です。
自由主義は、国王が何でも自由に決める政治ではなく、憲法によって権力を制限し、人々の自由や権利を守ろうとする考え方です。
そしてもう一つがナショナリズムでした。
ナショナリズムは、「同じ民族・言語・文化などを持つ人々が、自分たちの国家をつくりたい」という運動とも結びついていきます。
ウィーン体制をつくった支配者たちにとって、どちらも危険でした。
自由主義が広がれば、「国王の権力を憲法で制限しよう」という運動が起こります。
ナショナリズムが広がれば、「自分たちの民族だけで国をつくりたい」という運動が起こります。
どちらも、伝統的な王朝を中心につくられたヨーロッパの秩序を揺るがす可能性があったのです。
国境と「民族」は一致していなかった
なぜナショナリズムがそれほど大きな問題になったのでしょうか。
当時のヨーロッパの国境は、「同じ民族だから一つの国になった」という形でつくられていたわけではありません。
たとえばドイツ語を話す人々は、多くの国に分かれていました。
イタリア半島も複数の国に分裂しており、一部にはオーストリアの強い影響が及んでいました。
反対に、オーストリア帝国のように、一つの帝国のなかにドイツ人・ハンガリー人・チェコ人・イタリア人など、さまざまな人々が暮らしている場合もありました。
つまり、国家の国境と人々が感じる民族的なまとまりが一致していなかったのです。
だから、「自分たちの民族の国をつくりたい」というナショナリズムが広がれば、既存の国家そのものが分裂する可能性があります。
特に多くの民族を支配していたオーストリアにとって、ナショナリズムは非常に大きな問題でした。
ギリシャ独立|ナショナリズムが国境を変える
ウィーン体制のもとでも、ナショナリズムを完全に抑えることはできませんでした。
その代表例の一つがギリシャ独立です。
当時のギリシャは、イスラーム国家であるオスマン帝国の支配下にありました。
1821年、ギリシャ人は独立を求めて立ち上がります。
ヨーロッパでは古代ギリシャ文化への関心も高く、ギリシャ独立を支持する世論が広がりました。
最終的にイギリス・フランス・ロシアなども介入し、ギリシャは独立を実現します。
これは、民族の独立を求める運動が実際にヨーロッパの国境を変えた重要な例となりました。
フランスで再び革命が起こる
革命を抑えようとしたウィーン体制でしたが、革命の出発点となったフランスでも再び大きな動きが起こります。
1830年の七月革命です。
復活したブルボン朝の国王が自由を制限する政治を進めようとすると、パリの市民が蜂起しました。
国王は退位し、新しい王が迎えられます。
さらに1848年には二月革命が起こり、王政そのものが倒されて共和政が成立しました。
そして1848年の革命はフランスだけでは終わりません。
その動きはヨーロッパ各地へ広がりました。
これを1848年革命、あるいは「諸国民の春」と呼ぶことがあります。
1848年、「諸国民の春」
1848年、ドイツ・イタリア・オーストリア帝国などヨーロッパ各地で、自由や民族の独立・統一を求める運動が起こりました。
ウィーンでは革命によって、ウィーン体制を支えてきたメッテルニヒが失脚します。
ドイツでは、統一国家と憲法をつくろうとする動きが起こりました。
イタリアでも、オーストリアの影響から離れ、イタリア人による国家をつくろうとする運動が高まります。
しかし、これらの運動の多くはすぐには成功しませんでした。
支配者側が軍事力を使って反撃し、革命運動を抑え込んだからです。
それでも、「革命が失敗した=何も変わらなかった」わけではありません。
革命を抑えても、ナショナリズムは消えなかった
1848年革命によって、自由主義やナショナリズムの力がヨーロッパ各地に存在することがはっきりしました。
そしてここから、興味深い変化が起こります。
フランス革命以来、国民が下から立ち上がって国家を変えるという形で現れることの多かったナショナリズムを、今度は国家の指導者が利用するようになるのです。
その代表が、イタリアのカヴールとドイツのビスマルクでした。
彼らは、「同じ民族だから一つになろう」という人々のナショナリズムを利用しながら、外交や戦争によって国家統一を進めていきます。
つまり19世紀後半になると、ナショナリズムは単に支配者に反抗する思想ではなく、強力な国家をつくるための力にもなっていったのです。
そして1861年にはイタリア王国、1871年にはドイツ帝国が成立します。
「自分たちの民族の国家をつくりたい」という思いが、ついにヨーロッパの地図そのものを大きく塗り替えていくことになるのです。
第4章 イタリアとドイツの統一|ナショナリズムが国をつくる
19世紀前半のヨーロッパでは、フランス革命から広がったナショナリズムが大きな力を持つようになりました。
「同じ民族や言語、文化を持つ人々で、自分たちの国をつくりたい」という考えです。
しかし、1848年の「諸国民の春」では、こうした運動の多くがすぐには成功しませんでした。
そこで19世紀後半になると、国家統一の進め方にも変化が現れます。
民衆の革命だけで国をつくろうとするのではなく、既存の国家の指導者がナショナリズムを利用し、外交や戦争によって統一を実現するようになったのです。
その代表が、イタリア統一とドイツ統一でした。
かつて「イタリア」という国はなかった
現在の地図を見ると、イタリア半島には当然のように「イタリア」という国があります。
しかし19世紀前半まで、イタリア半島は複数の国や地域に分かれていました。
北部にはオーストリアの強い影響があり、中央部にはローマ教皇が治める教皇領、南部には両シチリア王国などがありました。
そのなかで、「イタリア人の国をつくろう」という統一運動が広がっていきます。
その思想を広めた人物の一人がマッツィーニです。
マッツィーニは「青年イタリア」を組織し、民衆の力によって統一された共和国をつくろうとしました。
しかし、その運動は簡単には成功しませんでした。
カヴール|外交によってイタリアを統一する
イタリア統一を実際に大きく進めたのが、北西部にあったサルデーニャ王国です。
その首相がカヴールでした。
カヴールは、民衆の革命だけではなく、外国との外交関係を利用して統一を進めようとします。
当時、北イタリアに強い影響力を持っていたオーストリアを追い出すため、フランスのナポレオン3世と協力しました。
そしてオーストリアとの戦争などを通して領土を広げていきます。
一方、南イタリアではガリバルディが義勇軍を率いて両シチリア王国を征服しました。
ガリバルディは征服した地域をサルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に引き渡します。
こうして1861年、イタリア王国が成立しました。
イタリア統一は一人の英雄が成し遂げたわけではない
イタリア統一では、何人もの人物が異なる役割を果たしました。
マッツィーニ
→ 「イタリア人による国家」という理念を広める
カヴール
→ 外交と国家の力を使って統一を進める
ガリバルディ
→ 義勇軍を率いて南イタリアを統一へ導く
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
→ 統一国家の国王となる
つまりイタリア統一は、思想・民衆運動・外交・戦争・既存国家の力が組み合わさって実現したのです。
その後、ヴェネツィアやローマも加わり、現在のイタリアに近い国家が形づくられていきました。
ドイツも多くの国に分かれていた
ドイツも同じような状況でした。
ナポレオン戦争後、ドイツ語を話す地域には多くの国が存在していました。
そのなかで特に大きな力を持っていたのが、オーストリアとプロイセンです。
「ドイツ人の統一国家をつくろう」というナショナリズムは1848年革命でも大きな力となりました。
しかし、民衆や議会を中心とした統一運動は成功しませんでした。
その後、ドイツ統一を進めたのがプロイセンでした。
そして、その中心人物となったのがビスマルクです。
ビスマルク|「鉄血政策」でドイツ統一へ
1862年、ビスマルクはプロイセンの首相となりました。
ビスマルクは軍備を強化し、外交と戦争を利用してドイツ統一を進めます。
その政治は鉄血政策と呼ばれます。
ビスマルクは、「ドイツを一つにしたい」というナショナリズムを利用しながら、プロイセンを中心とする統一国家をつくろうとしました。
まずデンマークとの戦争、続いてオーストリアとの戦争に勝利します。
これによって、ドイツ統一の主導権をプロイセンが握りました。
そして最後の大きな戦争となったのが、フランスとの普仏戦争です。
フランスとの戦争がドイツを一つにまとめる
1870年に始まった普仏戦争で、プロイセンを中心とするドイツ諸国はフランスと戦いました。
ここでも、「共通の敵と戦う」ことが、人々の「自分たちは同じドイツ人だ」という意識を強める力になりました。
プロイセン側がフランスに勝利すると、1871年、ドイツ帝国が成立します。
しかも、その成立が宣言された場所はフランスのベルサイユ宮殿でした。
ルイ14世が絶対王政の力を示すためにつくった宮殿で、今度はフランスに勝利したドイツ帝国の成立が宣言されたのです。
プロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝となりました。
こうして、ヨーロッパの中央に強力な統一国家ドイツが誕生します。
「国民が国家をつくる」から「国家が国民をまとめる」へ
イタリアとドイツの統一を見ると、ナショナリズムの性格が少し変わってきたことが分かります。
フランス革命では、国民が立ち上がって国王の国家を変えるという力として現れました。
19世紀前半には、民族が自分たちの国家を求めるという運動へ広がります。
そしてイタリアやドイツの統一では、国家の指導者がナショナリズムを利用して、より大きく強い国家をつくるという面が強くなりました。
特にドイツ統一は、自由な議会政治によって実現したのではなく、プロイセンの軍事力とビスマルクの外交によって進められました。
つまり、ナショナリズム=自由を求める思想とは限らなくなっていったのです。
国民国家は人々をさらに一つにまとめていく
統一国家ができても、それだけで全員が同じ「国民」になるわけではありません。
国家は学校教育、軍隊、行政制度などを通して、人々を一つの国家へまとめていきました。
学校では共通の言語や歴史を学びます。
軍隊では異なる地域から集められた若者たちが同じ国家の兵士として生活します。
新聞などの出版物も広がり、遠く離れた地域の人々が同じ出来事を知るようになります。
こうして、「自分はこの村の人間だ」という意識だけでなく、「自分はドイツ人だ」「自分はイタリア人だ」という、より大きな国民意識が育てられていきました。
国家が国民によってつくられると同時に、国家もまた国民をつくっていったのです。
強力な国民国家どうしが競争する時代へ
1871年にドイツ帝国が成立すると、ヨーロッパの勢力関係は大きく変わりました。
イギリス・フランス・ロシア・ドイツなど、強力な国家が互いに競争する時代になります。
しかも19世紀のヨーロッパでは、政治だけでなく経済にも巨大な変化が起きていました。
産業革命です。
蒸気機関を使った工場、大量生産、鉄道、蒸気船――。
国家は、それまでとは比較にならないほど大きな経済力を持つようになります。
そして、国民国家によって人々を動員する力と産業革命によって生まれた巨大な生産力が結びつきます。
この二つの力を持ったヨーロッパ諸国は、やがて競争の舞台をヨーロッパの外へ広げていきます。
しかし、その流れを理解するには、まず産業革命がなぜそれほど世界を変えたのかを見ておく必要があります。
第5章 産業革命|機械が国家と世界の力関係を変えた
18世紀後半、イギリスから産業革命が始まりました。
それまで人間の手仕事を中心につくられていた商品が、機械を使って大量につくられるようになります。
蒸気機関が改良され、工場が発達し、鉄道や蒸気船も登場しました。
中学歴史では、「イギリスで産業革命が始まった」「ワットが蒸気機関を改良した」と覚えることが多いでしょう。
もちろん、どちらも重要です。
しかし世界史全体から見ると、産業革命の本当のすごさはもっと大きなところにあります。
人間が使えるエネルギーの量を飛躍的に増やし、国家の経済力・輸送力・軍事力まで大きく変えたことです。
ここから、世界の力関係そのものが変わり始めます。
産業革命以前は、人や動物の力に頼っていた
産業革命以前にも、ヨーロッパにはさまざまな道具や機械がありました。
水車や風車も利用されていました。
それでも、生産や輸送の多くは、人間の力・馬などの動物の力・水や風など自然の力に大きく依存していました。
たとえば布をつくる場合も、糸をつむぎ、織物にするまで、多くの作業を人間が行います。
そのため、一人の人間が一日に生産できる量には限界がありました。
ところが産業革命によって、この限界が大きく変わります。
人間が自分の筋肉だけで働くのではなく、機械に大量の仕事をさせる時代が始まったのです。
なぜ産業革命はイギリスから始まった?
産業革命が最初に本格化したのはイギリスでした。
その背景には、いくつもの条件が重なっていました。
イギリスには、蒸気機関を動かす燃料となる石炭や、機械などに使う鉄が豊富にありました。
さらに海外貿易によって資本を蓄えた商人もいました。
農業の変化によって人口が増え、都市へ移動して工場で働く人々も増えていきます。
また、イギリスは海外に広い市場や植民地を持っていました。
商品を大量につくれば、それを売る場所もあったのです。
こうしたさまざまな条件が重なり、イギリスで産業革命が進んでいきました。
綿織物から工場制機械工業へ
産業革命が早く進んだ分野の一つが綿織物工業でした。
綿製品への需要が増えると、糸をつむぐ機械や布を織る機械が次々と改良されます。
それまで家庭や小さな作業場で行われていた生産が、大きな機械を置いた工場へ集められるようになりました。
そして機械を動かすために重要になったのが蒸気機関です。
18世紀後半、ワットが蒸気機関を改良すると、その利用範囲が大きく広がりました。
蒸気機関には重要な特徴があります。
水車なら川の近くでなければ十分な力を得られません。
しかし石炭を燃やして蒸気機関を動かせば、燃料を運べる場所なら大きな動力を利用できます。
工場をつくれる場所の自由度も高まり、大規模な機械生産がさらに広がっていったのです。
蒸気機関は「移動」まで変えた
蒸気機関が変えたのは工場だけではありません。
19世紀になると、蒸気機関を利用した蒸気機関車や蒸気船が発達します。
鉄道によって、大量の商品や人をそれまでより速く遠くまで運べるようになりました。
蒸気船は風だけに頼る帆船とは違い、より計画的に航海することができます。
つまり産業革命によって、大量につくるだけでなく、大量に運ぶことまで可能になったのです。
生産と輸送が同時に変化したことで、経済活動の規模は急速に大きくなりました。
工場が増え、都市に人々が集まる
工場が増えると、仕事を求めて多くの人々が都市へ移動しました。
こうして都市化が進みます。
しかし、急激に成長した都市の生活環境は決して良いものばかりではありませんでした。
工場では長時間労働が行われ、女性や子どもも低い賃金で働きました。
労働者が暮らす地域では住宅が不足し、衛生状態が悪い場所もありました。
産業革命によって社会全体が豊かになっていく一方で、「その豊かさを誰が受け取るのか」という新しい問題が生まれたのです。
工場や資本を持つ資本家と、賃金を受け取って働く労働者という関係も社会のなかで大きな意味を持つようになります。
こうした社会問題から、のちに社会主義などの新しい思想も生まれていきました。
「世界の工場」となったイギリス
産業革命をいち早く進めたイギリスは、圧倒的な工業生産力を持つようになりました。
大量の綿製品などを生産し、世界各地へ輸出します。
19世紀のイギリスが「世界の工場」と呼ばれたのはそのためです。
しかし、商品を大量につくれるようになると、新しい問題も生まれます。
工場を動かし続けるには、大量の原料が必要です。
そして大量につくった商品を、売る市場も必要になります。
そこでヨーロッパ諸国にとって、アジア・アフリカなど世界各地との関係がますます重要になっていきました。
工業力は軍事力にもなる
そして、ここが世界史を見るうえで非常に重要です。
産業革命によって生まれた工業力は、豊かな生活や商品だけを生み出したわけではありません。
工場では武器も大量につくることができます。
鉄鋼業が発達すれば、より強力な大砲や軍艦をつくれます。
鉄道があれば、多くの兵士や物資を短時間で移動できます。
蒸気船があれば、遠く離れた地域へ軍隊を送りやすくなります。
つまり、産業革命によって工業力・経済力・輸送力・軍事力が高まり、国家の力そのものが大きくなったのです。
19世紀のヨーロッパ諸国が世界各地へ進出できた背景には、この圧倒的な物質的な力があったのです。
中国とヨーロッパの力関係まで変わっていく
ここで、中学歴史で学ぶアジア史ともつながります。
18世紀までの中国の清は巨大な人口と経済を持つ大国で、ヨーロッパから見ても重要な存在でした。
イギリスは中国から茶などを大量に輸入していました。
しかし19世紀になると、産業革命を進めたイギリスは、それまでとは比べものにならない工業力と軍事力を持つようになります。
そして1840年、イギリスと清の間でアヘン戦争が始まりました。
清は敗北し、南京条約を結びます。
これは単に、「イギリスが中国との戦争に勝った」というだけの出来事ではありません。
産業革命によって力を急速に高めたヨーロッパが、アジアの大国に軍事的な圧力をかける時代が始まったことを象徴する出来事でもありました。
その衝撃は日本にも伝わります。
江戸幕府も、「あの清がイギリスに敗れた」という事実を知ることになります。
そして1853年には、アメリカのペリーが蒸気船を率いて日本へやって来ます。
日本の開国や明治維新も、産業革命によって世界の力関係が変化したことと無関係ではないのです。
「国民国家」と「産業革命」が結びついた
ここまで第3部では、フランス革命から国民国家が発達していく流れを見てきました。
国民国家は、教育・徴兵・税などを通して、多くの国民の力を国家へ集めることができます。
そこへ産業革命が加わりました。
すると国家は、国民を動員する力と機械によって大量に生産する力の両方を持つことになります。
この組み合わせは非常に強力でした。
19世紀後半になると、ヨーロッパではイギリスだけでなく、フランスや統一後のドイツなども工業化を進めます。
強力な国民国家どうしが、原料・市場・植民地を求めて世界規模で競争するようになっていきました。
ここから始まるのが帝国主義の時代です。
国民国家によって人々をまとめ、産業革命によって巨大な経済力と軍事力を手にしたヨーロッパ諸国が、今度はその力を世界へ向けていくことになります。
第6章 帝国主義|強くなった国民国家が世界へ進出する
19世紀後半になると、ヨーロッパ諸国はアジアやアフリカへの進出をさらに強めていきました。
軍事力や経済力を背景に他の地域を支配し、植民地や勢力圏を広げようとする動きを帝国主義といいます。
しかし、なぜこの時代になって帝国主義が急速に広がったのでしょうか。
ここまでヨーロッパ史を見てきた私たちなら、その背景が見えてきます。
フランス革命以降に発達した国民国家は、教育・徴兵・税などの制度を通して、多くの国民の力を国家へ集められるようになりました。
さらに産業革命によって、ヨーロッパ諸国は巨大な工業力・経済力・軍事力を手にします。
この二つが結びついたことで、19世紀のヨーロッパには、それまでの時代とは比較にならないほど強力な国家が登場したのです。
そして、その力が世界へ向けられていきました。
工業化した国には原料と市場が必要だった
産業革命によって、工場では大量の商品を生産できるようになりました。
しかし、工場を動かし続けるには綿花・ゴム・鉱産資源などの原料が必要です。
さらに、大量につくった商品を売る市場も求められました。
そこでヨーロッパ諸国は、アジアやアフリカとの貿易を拡大するだけでなく、その地域を政治的・軍事的に支配しようとするようになります。
また、余った資本を海外へ投資し、鉄道や鉱山などの事業から利益を得ようとする動きも広がりました。
帝国主義には、産業革命によって発達した資本主義経済が世界へ拡大していく側面もあったのです。
植民地の多さが「国家の強さ」を示すようになる
帝国主義を経済的な利益だけで説明することもできません。
19世紀にはナショナリズムが強まり、ヨーロッパ諸国の間で国家どうしの競争意識も高まっていました。
イギリスが植民地を広げれば、フランスも負けたくない。新しく統一されたドイツも、自国にふさわしい海外の領土を求める。
こうして植民地を持つこと自体が、「自分たちの国家は強い」ことを示すものとして考えられるようになります。
つまりナショナリズムは、もともと外国の支配から独立したり、自分たちの民族の国家をつくったりする力となった一方で、今度は国家どうしの競争を激しくする力にもなっていったのです。
「文明を広げる」という考えも利用された
ヨーロッパ諸国は、植民地支配を利益や国力のためだけに説明したわけではありません。
当時のヨーロッパでは、自分たちの文明や文化を他の地域へ広げることには意味がある、という考えも広がりました。
さらにダーウィンの進化論を人間社会に不適切に当てはめ、民族や国家にも「優れたものと劣ったものがある」と考える社会ダーウィニズムなども広がります。
こうした考えは、ヨーロッパによる植民地支配を正当化するためにも使われました。
しかし実際には、植民地とされた地域には当然、それ以前から社会や国家、文化、歴史がありました。
ヨーロッパ側が一方的に「文明を与える」と考えた背景には、当時の強い人種的・文化的な優越意識があったことにも注意が必要です。
アフリカがヨーロッパ諸国によって分割される
帝国主義を象徴する地域の一つがアフリカです。
19世紀後半になると、ヨーロッパ諸国はアフリカ内陸部への進出を急速に進めました。
特に1880年代以降、イギリス・フランス・ドイツ・ベルギーなどが次々と領土を獲得していきます。
その過程では、現地の民族や社会のまとまりを十分に考えず、ヨーロッパ諸国の都合によって境界線が引かれることもありました。
19世紀末までには、アフリカの大部分がヨーロッパ諸国によって植民地化されます。
ただし、エチオピアとリベリアなどは独立を維持しました。
なかでもエチオピアは1896年のアドワの戦いでイタリア軍を破り、独立を守ったことで知られています。
アジアにもヨーロッパの進出が広がる
帝国主義の波はアジアにも及びました。
イギリスはインドへの支配を強め、1857年に起きたインド大反乱の後、インドを直接支配するようになります。
東南アジアでは、フランスがベトナムなどを支配し、フランス領インドシナを形成しました。
オランダは現在のインドネシアにあたる地域を支配していました。
中国は植民地そのものにはなりませんでしたが、アヘン戦争以降、欧米諸国や日本によって港や鉄道などに関するさまざまな権益を求められます。
19世紀末になると、中国も列強によって勢力圏を分けられるような状態になっていきました。
なぜ日本は明治維新を急いだのか
ここで日本史とのつながりが、さらに明確になります。
1853年にペリーが来航したとき、日本の周囲ではすでに大きな変化が起きていました。
清はアヘン戦争でイギリスに敗れ、インドはイギリスの支配下に入り、東南アジアにもヨーロッパ諸国が進出していました。
日本にとって、「欧米諸国に対抗できる国家をつくらなければ、自分たちも支配されるかもしれない」という危機感は、決して想像上のものではありませんでした。
だから明治政府は、廃藩置県によって全国を一つの政府のもとにまとめ、徴兵令によって全国的な軍隊をつくり、学制によって教育制度を整え、殖産興業によって工業化を進めようとしました。
これまで日本史では別々に覚えてきた改革も、世界史の流れから見ると、欧米で成立した強力な近代国家の仕組みを急いで日本にもつくろうとした改革だったことが分かります。
日本も帝国主義の時代へ入っていく
日本は欧米諸国から支配されることを避けるため、急速に近代国家をつくりました。
しかし、やがて日本自身も周辺地域へ進出する側になっていきます。
1894年には日清戦争、1904年には日露戦争が起こりました。
さらに1910年には韓国併合を行います。
つまり近代日本は、欧米列強による帝国主義の圧力を受けながら近代化を進め、その後は日本自身も帝国主義的な競争に加わっていったのです。
この点は、明治時代の日本を理解するうえで非常に重要です。
強くなった国家が、今度は互いにぶつかり始める
19世紀のヨーロッパでは、フランス革命から広がったナショナリズムによって国民国家が発達し、産業革命によってその国家が巨大な経済力と軍事力を持つようになりました。
その結果、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアなどの列強は、植民地・市場・資源・国際的な影響力をめぐって激しく競争するようになります。
特に1871年に統一されたドイツが急速に工業化し、ヨーロッパの大国として台頭したことで、それまでの国際関係も大きく変化しました。
各国は軍備を拡張し、自国の安全を守るために他国と同盟を結ぶようになります。
こうしてヨーロッパには、強大な国民国家どうしが互いを警戒する緊張した状態が生まれていきました。
フランス革命によって生まれた「国民の国家」は、自由や平等を広げる大きな力となりました。しかし同時に、国民を一つにまとめ、巨大な軍隊と工業力を動員できる強力な国家でもありました。
そして20世紀初め、その強力な国家どうしの対立が、一つの事件をきっかけに連鎖的に爆発します。
1914年、第一次世界大戦。
ヨーロッパ史は、世界全体を巻き込む新しい時代へ入ろうとしていました。
終章 「国民の時代」は世界をどう変えたのか
ここまで、フランス革命からナポレオン、国民国家の成立、産業革命、そして帝国主義までを見てきました。
中学歴史では、これらを別々の出来事として学ぶことが多いかもしれません。
しかし、長い歴史の流れとして見ると、一つの大きな変化が見えてきます。
それは、「誰が人々をまとめ、国家や社会を動かすのか」という変化です。
この三部作では、その変化を、教会の時代 → 国王の時代 → 国民の時代という大きな流れから見てきました。
中世ヨーロッパを結びつけたキリスト教
中世ヨーロッパでは、現在のような国民国家が人々をまとめていたわけではありません。
地域ごとに領主がおり、人々が使う言葉や習慣にも大きな違いがありました。
その一方で、ヨーロッパの広い地域に共通して大きな影響を与えていたのがキリスト教です。
ローマ教皇や教会は宗教だけでなく、政治・教育・文化にも強い影響を持っていました。
しかし、十字軍や都市・商業の発達、ルネサンス、大航海時代、宗教改革などを経て、中世の社会は少しずつ変化していきます。
教会の権威が相対的に低下する一方で、力を強めていったのが国王でした。
国王が人々を一つの国家へまとめる
近世になると、国王は税を集め、官僚や常備軍を整え、国内を一つの政治権力のもとにまとめていきました。
その代表が絶対王政です。
フランスのルイ14世に代表される絶対王政では、国王に大きな権力が集中しました。
これは中世の分権的な社会から考えれば、大きな変化でした。
しかし、国王の力が強くなると、今度は、「なぜ国王だけがこれほど大きな権力を持つのか」という疑問が生まれます。
イギリス革命によって国王の権力に制限が加えられ、ロックやモンテスキュー、ルソーなどの啓蒙思想家は、人間の権利や政治のあり方について新しい考えを示しました。
そして、その思想はアメリカ独立革命、さらにフランス革命へとつながっていきます。
「国家の主人」が国王から国民へ
1789年に始まったフランス革命は、この長い歴史の大きな転換点でした。
自由や平等が掲げられ、身分による特権が否定されていきます。
そして、「国家の主権は国王ではなく国民にある」という考え方が大きな力を持つようになりました。
ここから近代の国民国家につながる時代が始まります。
しかし、国民国家が重要なのは、政治の主人公が変わったことだけではありません。
国家を「自分たちの国」だと考える人々を、国家のために動員できるようになったことも大きな変化でした。
フランス革命後には多くの国民が軍隊へ動員され、ナポレオンはその巨大な力を背景にヨーロッパ各地へ進出します。
国民国家は、国王一人の権力ではなく、多くの国民の力を国家の力に変えることができる仕組みでもあったのです。
ナショナリズムがヨーロッパの地図を変えた
ナポレオンが敗れても、革命以前の世界へ完全に戻ることはできませんでした。
自由を求める自由主義と、自分たちの民族の国家を求めるナショナリズムが、すでにヨーロッパ各地へ広がっていたからです。
19世紀には、こうした動きがイタリアやドイツの統一へとつながりました。
それまで多くの国に分かれていた人々が、「自分たちは同じイタリア人だ」「自分たちは同じドイツ人だ」という意識によって、一つの国家へまとまっていきます。
ただし、国民は最初から自然に一つにまとまっていたわけではありません。
近代国家は学校教育を整え、共通の言語や歴史を教え、徴兵制度などを通して、人々に同じ国家の一員であるという意識を広げていきました。
つまり、国民が国家をつくっただけでなく、国家もまた「国民」をつくっていったのです。
国民国家に産業革命の力が加わった
さらに18世紀後半から始まった産業革命によって、国家の持つ力は飛躍的に大きくなりました。
蒸気機関や工場によって大量生産が可能になり、鉄道や蒸気船によって大量の人や物資を高速で運べるようになります。
その力は当然、軍事にも利用されました。
国民国家は教育・徴兵・税などを通して多くの国民の力を集め、産業革命はそこに巨大な工業力・輸送力・軍事力を加えました。
こうして19世紀のヨーロッパには、それ以前とは比較にならないほど強力な国家が登場したのです。
強くなったヨーロッパが世界へ進出する
その巨大な力は、やがてヨーロッパの外へ向けられました。
工業化した国々は原料や市場を求め、アジアやアフリカへの進出を強めます。
そして19世紀後半には、列強が植民地や勢力圏を競い合う帝国主義の時代へ入っていきました。
その影響は日本にも及びます。
アヘン戦争で清がイギリスに敗れ、欧米諸国がアジアへの進出を強めるなか、1853年にはペリーが日本へ来航しました。
明治政府が廃藩置県・学制・徴兵令・殖産興業などの改革を急いだ背景にも、こうした世界の変化がありました。
中学歴史で学ぶ明治維新は、日本の国内だけを見ていては完全には理解できないのです。
日本もまた、国民をまとめ、産業を育て、欧米列強に対抗できる近代国家をつくろうとしていました。
自由を生んだ力が、国家どうしの競争も生んだ
ここで、近代の国民国家が持つ二つの側面が見えてきます。
フランス革命から広がった自由・平等・国民主権という考えは、身分によって人間の価値や権利が決まる社会を大きく変えました。
ナショナリズムも、外国や巨大な帝国に支配されていた人々が、自分たちの国家を求める大きな力となりました。
しかし、「私たちは同じ国民である」という意識には、人々を一つにまとめる非常に強い力があります。
その力は自由や独立を求める方向だけでなく、他国との競争にも向けられました。
さらに産業革命によって軍事力が巨大化すると、国家どうしの競争が世界規模で行われるようになります。
ナショナリズム・国民国家・産業革命・帝国主義。
これらは別々の用語ではなく、互いにつながりながら19世紀の世界をつくっていったのです。
中学歴史の「点」を「線」にしてみよう
中学歴史では、世界史を日本史ほど詳しく学びません。
そのため、教科書には十字軍・ルネサンス・宗教改革・絶対王政・フランス革命・産業革命・ビスマルク・帝国主義などが、離れた出来事のように登場します。
しかし、この三部作で見てきたように、大きな流れをつかむと、それぞれの意味が見えてきます。
中世ヨーロッパではキリスト教会が大きな影響力を持っていました。都市や商業が発達し、ルネサンスや宗教改革などを経て中世的な秩序が変化すると、国王が力を強めて絶対王政が成立します。
やがて国王の強すぎる権力が問い直され、イギリス革命や啓蒙思想を経て、アメリカ独立革命とフランス革命が起こりました。
そしてフランス革命から国民国家とナショナリズムの時代が始まり、そこへ産業革命の巨大な力が加わることで、ヨーロッパ諸国は世界へ進出していきました。
こうして見ると、
教会の時代 → 国王の時代 → 国民の時代
という大きな変化のなかに、中学歴史で習う多くの出来事を位置づけることができます。
もちろん、実際の歴史はこれほど単純ではありません。
教会の力が突然なくなったわけでも、国王の時代がある日突然終わったわけでもありません。地域によって歴史の進み方も異なります。
それでも、最初にこの大きな流れを持っておけば、細かな用語を学んだときに、「これは世界がどう変わっていく途中の出来事なのか」を考えられるようになります。
歴史は、用語を一つずつ覚えるだけでは見えにくいものがあります。
点と点をつないで「なぜ次の時代が生まれたのか」を考えたとき、歴史は一つの物語として見えてくるのです。
そして1914年、第一次世界大戦へ
20世紀初めのヨーロッパには、強力な国民国家が並び立っていました。
各国は工業力と軍事力を高め、植民地や国際的な影響力をめぐって競争し、互いに同盟を結んで対立を深めていきます。
そして1914年、その緊張がついに大規模な戦争へと発展しました。
第一次世界大戦です。
第一次世界大戦では、国家が何百万人もの国民を兵士として動員し、工場では大量の武器が生産され、鉄道によって兵士や物資が前線へ送り込まれました。
そこには、この第3部で見てきた国民国家と産業革命が生み出した巨大な力がありました。
フランス革命以降に発達した国民国家は、世界を大きく変えました。
しかし20世紀になると、人類は今度は、「これほど強大になった国家の力を、どうコントロールするのか」という新しい問題に直面することになります。
ここから先は、二度の世界大戦、ロシア革命、ファシズム、植民地の独立などへとつながる20世紀の世界史です。
この三部作でたどってきたヨーロッパの長い歴史は、ここで一つの区切りを迎えます。

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