岩倉具視(いわくら ともみ)は、幕末から明治時代にかけて活躍した政治家です。
西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允など、幕末から明治に活躍した人物には武士出身者が多くいました。そのなかで岩倉具視は、朝廷に仕える公家の出身という少し異なる経歴をもっています。
幕末には、朝廷と幕府を結びつける公武合体に関わりましたが、その後は倒幕へと動き、王政復古を進める中心人物の一人となりました。
明治政府が成立すると、新しい国づくりにも深く関わります。なかでも有名なのが、1871年に欧米へ派遣された岩倉使節団です。岩倉は特命全権大使として、大久保利通や木戸孝允、伊藤博文らとともに欧米諸国を視察しました。
帰国後には、朝鮮への対応をめぐって西郷隆盛らと対立し、明治六年の政変にも大きく関わっています。
岩倉具視について学ぶと、公武合体から倒幕、明治維新、岩倉使節団、明治六年の政変へと続く幕末・明治の大きな流れが見えてきます。
この記事では、岩倉具視が何をした人物なのか、中学生が覚えておきたいポイントを中心にわかりやすく解説します。
第1章 岩倉具視とは?|公家出身の政治家
岩倉具視(いわくら ともみ)は、1825年に京都で生まれた公家出身の政治家です。
幕末から明治にかけて活躍した西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允などは武士の出身でした。それに対して岩倉は、天皇や朝廷に仕える公家の出身だったことが大きな特徴です。
公家とはどんな人たち?
公家とは、京都の朝廷で天皇に仕えていた人々のことです。
江戸時代の政治は、江戸に置かれた幕府を中心に行われていました。そのため、朝廷や公家が政治に直接関わる機会は多くありませんでした。
ところが、1853年にペリーが来航すると、日本は外国との関係をどうするのかという大きな問題に直面します。
幕府が外国と条約を結ぼうとすると、天皇や朝廷の意見も無視できなくなり、幕末には朝廷の政治的な影響力がしだいに強まっていきました。
こうした時代の変化のなかで、朝廷側の政治家として存在感を高めていったのが岩倉具視です。
岩倉具視は最初から倒幕派ではなかった
岩倉具視というと、明治維新を進めた人物というイメージがあります。
しかし、岩倉は最初から幕府を倒そうとしていたわけではありません。
幕末の岩倉は、朝廷と幕府が協力して政治を行う公武合体(こうぶがったい)を進めました。
その代表的な出来事が、孝明天皇の妹である和宮(かずのみや)と、第14代将軍徳川家茂(とくがわ いえもち)との結婚です。
岩倉はこの結婚を実現させるために尽力しました。
しかし、公武合体を進めたことで、幕府に反対する尊王攘夷派から「幕府に味方する人物」とみなされ、激しい批判を受けます。
その結果、岩倉は朝廷を離れ、京都郊外の岩倉村で長いあいだ政治の表舞台から遠ざかることになりました。
時代の変化とともに倒幕へ
その後、幕府の力が弱まり、薩摩藩や長州藩を中心に倒幕を目指す動きが強まっていきます。
岩倉も政治情勢の変化を受けて、しだいに幕府を中心とした政治から、天皇を中心とする新しい政治へ移すべきだと考えるようになりました。
そして大久保利通らと協力し、幕府を廃止して新しい政府をつくる動きを進めていきます。
ここが岩倉具視を理解するうえで大切なポイントです。
公家出身で朝廷の政治に詳しかった岩倉具視は、幕末の朝廷と倒幕勢力を結びつけ、明治政府の成立へとつながる重要な役割を果たしました。
次章では、岩倉具視が倒幕と王政復古にどのように関わったのかを詳しく見ていきましょう。
第2章 倒幕と王政復古|明治政府の中心人物へ
政治の表舞台から遠ざかっていた岩倉具視は、幕府の力が弱まるなかで、しだいに倒幕を目指すようになります。
そして薩摩藩の大久保利通らと結びつき、幕府に代わる新しい政治体制をつくるために動き始めました。
大久保利通らと倒幕を進める
1866年に薩長同盟が結ばれると、薩摩藩と長州藩が協力して幕府に対抗する体制が整っていきます。
岩倉も大久保利通らと協力し、朝廷の内部から倒幕を進めました。
岩倉が重要だったのは、単に倒幕に賛成したからではありません。
西郷隆盛や大久保利通らが薩摩藩の武士だったのに対し、岩倉は朝廷に仕えてきた公家です。
倒幕を進めるには、薩摩藩や長州藩などの力だけでなく、天皇や朝廷を中心とする新しい政治体制をつくるための動きも必要でした。
そのなかで、朝廷内部に人脈をもつ岩倉は大きな役割を果たしたのです。

大政奉還だけでは終わらなかった
1867年、第15代将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返す大政奉還を行いました。
これによって江戸幕府は政治を朝廷に返しましたが、徳川慶喜自身は、新しい政治体制のなかでも大きな影響力を残そうとしていました。
そこで岩倉具視や大久保利通らは、徳川家を中心とした政治を終わらせ、天皇を中心とする新政府をつくろうとします。
同じ1867年、朝廷は王政復古の大号令を出しました。
これによって幕府や摂政・関白などが廃止され、天皇を中心とする新しい政治体制が始まります。
岩倉具視は、この王政復古を進めた中心人物の一人でした。
新政府と旧幕府の対立
王政復古の大号令のあとに開かれた小御所会議では、徳川慶喜を新政府でどのように扱うかが大きな問題となりました。
岩倉や大久保らは、徳川慶喜に辞官納地(じかんのうち)、つまり官職を辞め、領地の一部を朝廷に返すことを求めます。
これにより新政府と旧幕府側の対立はさらに深まり、翌1868年には戊辰戦争が始まりました。
その後、新政府軍が旧幕府勢力を破り、明治政府による新しい国づくりが本格的に始まっていきます。
岩倉具視は明治政府でも重要な地位につく
明治政府が成立すると、岩倉具視は新政府の中心人物として政治に関わりました。
幕末には朝廷と幕府を結びつける公武合体を進めていた岩倉ですが、時代の変化のなかで倒幕へと転じ、王政復古を進め、ついには新しい政府の中心人物となったのです。
そして1871年、岩倉具視は日本の近代化に大きな影響を与える重要な役割を任されます。
それが、欧米諸国へ派遣された岩倉使節団の特命全権大使でした。
第3章 岩倉使節団|欧米を視察して日本の近代化を考える
明治政府が成立すると、日本は欧米諸国に追いつくため、新しい国づくりを急いで進めていきました。
そのなかで1871年、明治政府は政府の中心人物や留学生からなる大規模な使節団を欧米へ派遣します。
これが岩倉使節団です。
岩倉具視は、使節団を代表する特命全権大使を務めました。

大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らも参加
岩倉使節団には、岩倉具視だけでなく、明治政府を支える重要人物が数多く参加しました。
代表的なのが、
などです。
明治政府の中心人物が何人も日本を離れて、アメリカやヨーロッパ各国を訪れたことからも、政府がこの使節団をどれほど重要視していたのかがわかります。
岩倉使節団の目的は何だった?
岩倉使節団には、大きく二つの目的がありました。
一つは、江戸時代に欧米諸国と結んだ不平等条約の改正に向けた交渉です。
もう一つは、欧米諸国の政治・産業・教育・軍事などを実際に視察し、日本の近代化に役立てることでした。
しかし、条約改正の交渉は簡単には進みませんでした。
欧米諸国と対等な条約を結ぶためには、日本の法律や裁判制度などをさらに整える必要があることを痛感することになります。
一方、欧米の進んだ産業や鉄道、学校、政治制度などを直接見た経験は、その後の日本の近代化に大きな影響を与えました。

なぜ岩倉具視が使節団のトップだった?
ここで注目したいのが、なぜ大久保利通や木戸孝允ではなく、岩倉具視が使節団を代表したのかという点です。
当時の岩倉は、新政府で右大臣という非常に高い地位にありました。
また、岩倉は薩摩藩や長州藩など特定の藩の武士ではなく、朝廷に仕えてきた公家出身の政治家です。
明治政府には薩摩・長州などさまざまな勢力の出身者が集まっていたため、政府の最高幹部であり、公家出身でもある岩倉は、日本政府を代表して各国を訪問する人物としてふさわしい立場にあったのです。
使節団に自分の名前が付いていることからも、岩倉が当時の明治政府で非常に重要な位置にいたことがわかります。
欧米視察が明治政府を変えていく
岩倉使節団は約1年10か月をかけて、アメリカやヨーロッパ各国を視察しました。
そこで岩倉や大久保、木戸らは、欧米諸国の発達した産業や社会制度を目の当たりにします。
そして、日本が欧米諸国と対等になるためには、まず国内の制度や産業を整え、国そのものを近代化することが必要だという認識を強めていきました。
ところが、岩倉たちが欧米を視察している間、日本国内では別の大きな問題が持ち上がっていました。
朝鮮との外交問題をめぐる征韓論です。
1873年に岩倉たちが帰国すると、この問題をめぐって西郷隆盛らと激しく対立することになります。
第4章 明治六年の政変|西郷隆盛らと対立
1873年、岩倉使節団が欧米視察から帰国すると、明治政府では朝鮮との外交問題をめぐって大きな対立が起こっていました。
この対立の中心となったのが、征韓論(せいかんろん)です。

留守政府では征韓論が大きな問題に
岩倉具視や大久保利通、木戸孝允らが欧米を視察している間、日本国内の政治は西郷隆盛や板垣退助らが中心となって進めていました。
当時、明治政府と朝鮮との外交関係はうまくいっていませんでした。
そこで西郷は、自ら朝鮮へ使節として渡り、国交を開くための交渉を行うことを主張します。
政府内では西郷を朝鮮へ派遣する方針がいったん決まりますが、そこへ岩倉使節団が帰国しました。
岩倉や大久保は国内の改革を優先した
欧米諸国を視察してきた岩倉や大久保は、西郷の朝鮮派遣に反対しました。
当時の日本では、廃藩置県などによって新しい国の仕組みをつくり始めたばかりです。
さらに欧米を実際に見た岩倉たちは、日本と欧米諸国との国力の差も強く感じていました。
そのため、朝鮮との問題を急いで進めるよりも、まずは国内の制度や産業を整え、日本の国力を高めることを優先すべきだと考えたのです。
岩倉具視が西郷の朝鮮派遣を阻止
政府内では、西郷を朝鮮へ派遣するかどうかをめぐって激しい対立が起こりました。
最終的に岩倉は、西郷の派遣を認めないよう明治天皇に求め、西郷の朝鮮派遣は見送られることになります。
これに反発した西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、副島種臣らは政府を去りました。
この1873年の政変を、明治六年の政変といいます。
明治六年の政変はその後の歴史につながっていく
政府を去った人々は、その後それぞれ異なる道を歩みました。
西郷隆盛は鹿児島へ戻り、1877年の西南戦争で政府軍と戦うことになります。
一方、板垣退助は武力ではなく政治への参加を求め、自由民権運動を進めていきました。
つまり明治六年の政変は、政府内の対立だけで終わった出来事ではありません。
岩倉使節団
↓
征韓論をめぐる対立
↓
明治六年の政変
↓
西郷隆盛 → 西南戦争
板垣退助 → 自由民権運動
というように、その後の明治時代の大きな出来事へとつながっていきます。
岩倉具視は、幕末の王政復古だけでなく、明治政府がどのような方向へ進んでいくのかを決める重要な場面でも、大きな役割を果たした人物だったのです。
第5章 テスト・高校入試で覚えたい岩倉具視
岩倉具視について、定期テストや高校入試で最も重要なのは岩倉使節団です。
まずは「岩倉具視=岩倉使節団」を確実に覚え、その前後の出来事までつなげて理解しておきましょう。
最重要|岩倉使節団の特命全権大使
1871年、明治政府は欧米諸国へ岩倉使節団を派遣しました。
その使節団の特命全権大使を務めたのが、岩倉具視です。
使節団には、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文ら明治政府の重要人物も参加しました。
目的として覚えておきたいのは、次の2点です。
- 不平等条約の改正に向けた交渉
- 欧米諸国の制度や産業などの視察
条約改正の交渉はうまくいきませんでしたが、欧米の進んだ制度や産業を直接学んだ経験は、その後の日本の近代化に大きな影響を与えました。
幕末では王政復古にも関わった
岩倉具視は、岩倉使節団だけで突然登場した人物ではありません。
幕末には公家として朝廷の政治に関わり、のちに大久保利通らと協力して倒幕を進めました。
1867年の王政復古の大号令にも深く関わり、幕府に代わる新しい政治体制をつくる中心人物の一人となりました。
入試では岩倉具視と王政復古を直接結びつけて問われることは多くありませんが、岩倉が幕末から明治政府成立にかけて活躍した人物だと理解しておくと、歴史の流れがつかみやすくなります。
明治六年の政変では西郷隆盛らと対立
1873年に岩倉使節団が帰国すると、岩倉具視や大久保利通らは、朝鮮への対応をめぐって西郷隆盛や板垣退助らと対立しました。
その結果、西郷や板垣らが政府を去った出来事が明治六年の政変です。
ここでは人物を二つのグループに分けて整理するとわかりやすくなります。
海外から帰国した側
岩倉具視・大久保利通・木戸孝允など
政府を去った側
西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・副島種臣など
特に、政府を去った西郷がのちの西南戦争へ、板垣が自由民権運動へと進んでいく流れは重要です。
岩倉具視はこの3つを押さえよう
岩倉具視については、まず次の流れを覚えておけば十分です。
① 幕末
公家として活動し、王政復古に関わる
↓
② 1871年
岩倉使節団の特命全権大使として欧米へ
↓
③ 1873年
帰国後、征韓論をめぐって西郷隆盛らと対立
→ 明治六年の政変
人物名だけを暗記するのではなく、「王政復古 → 岩倉使節団 → 明治六年の政変」という流れのなかに岩倉具視を置いて覚えると、幕末から明治初期の歴史がぐっと整理しやすくなります。

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