幕末、日本は欧米諸国と不平等条約を結びました。
1858年に結ばれた日米修好通商条約では、日本には関税自主権がなく、外国人に領事裁判権を認めるなど、日本にとって不利な内容が含まれていました。
1868年に明治時代が始まると、この不平等条約を改正し、欧米諸国と対等な関係を築くことが、明治政府の大きな目標となります。
しかし、条約改正への道のりは簡単ではありませんでした。
岩倉使節団による交渉、井上馨の欧化政策、大日本帝国憲法の制定や法律・裁判制度の整備など、日本は近代国家としての仕組みを一つずつ整えていきます。
さらに、条約改正の歩みは、日清戦争・日露戦争や、東アジアへ進出するロシアを警戒したイギリスとの関係など、当時の国際情勢とも深く結びついていました。
そして1894年、陸奥宗光が領事裁判権の撤廃に成功。さらに1911年には、小村寿太郎が関税自主権の完全回復を実現します。
明治時代は1868年から1912年までです。
つまり、関税自主権を完全に回復した1911年は、明治時代が終わるわずか1年前でした。
幕末に結ばれた不平等条約を改正するまで、実に半世紀以上。条約改正は、明治政府がほぼ一時代をかけて取り組み続けた大きな課題だったのです。
その歩みをたどると、幕末には欧米諸国と対等ではなかった日本が、近代国家としての制度を整え、国際社会での立場を変えていった過程が見えてきます。
つまり、条約改正の歩みは、明治時代の日本を映し出す「鏡」のような存在なのです。
この記事では、不平等条約の内容から、陸奥宗光による領事裁判権の撤廃、小村寿太郎による関税自主権の回復まで、日本の近代化や日清・日露戦争とのつながりにも注目しながらわかりやすく解説します。
第1章 なぜ日本は条約改正を目指したのか
明治政府が条約改正を重要な目標とした理由を理解するには、幕末までさかのぼる必要があります。
1858年、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を結びました。その後、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同じような条約を結びます。これらをまとめて安政の五カ国条約といいます。
しかし、その内容には日本にとって不利な条件が含まれていました。
特に重要なのが、「領事裁判権を認めたこと」と「関税自主権がなかったこと」です。
領事裁判権|外国人を日本の法律で裁けない
領事裁判権とは、日本で罪を犯した外国人を、日本の裁判所ではなく、その外国人の国の領事が裁く権利のことです。
たとえば、アメリカ人が日本国内で事件を起こしたとしても、日本側が日本の法律にもとづいて裁くことができませんでした。
日本から見れば、自分の国で起きた事件なのに、自分の国の法律で裁くことができないということです。
そのため、領事裁判権を外国に認めていることは、日本の主権が十分に及ばない状態を意味していました。
なお、教科書などでは「治外法権」という言葉が使われることもあります。高校入試では、領事裁判権とあわせて覚えておきましょう。
関税自主権|日本が自由に関税を決められない
もう一つの大きな問題が、関税自主権がなかったことです。
関税とは、外国から輸入される商品などにかける税金のことです。
本来であれば、
「国内の産業を守りたいから、この商品の関税を高くしよう」
といったように、自国の判断で関税を決めることができます。
ところが当時の日本には、関税率を自由に決める権利がありませんでした。
外国から安い商品が大量に入ってきても、日本だけの判断で関税を引き上げることができなかったのです。
つまり、経済の面でも日本は十分な自主性を持っていませんでした。
不平等条約の改正は明治政府の大きな目標になった
1868年に明治政府が成立しても、幕府が結んだ不平等条約はそのまま引き継がれました。
そこで明治政府は、
領事裁判権を撤廃すること
そして、
関税自主権を取り戻すこと
を重要な外交目標とします。
しかし、「不平等だから直してほしい」と欧米諸国に求めるだけでは、条約を改正することはできませんでした。
欧米諸国から対等な近代国家として認められるためには、日本自身が政治・法律・裁判などの制度を整えていく必要があったからです。
こうして、半世紀以上にわたる条約改正への長い道のりが始まります。
次の問題を解いてみましょう。
問題
幕末、日本は欧米諸国と不平等条約を結びました。日本がアメリカと結んだ不平等条約として正しいものを、次のア〜エから1つ選びなさい。
ア 日米和親条約
イ 日米修好通商条約
ウ 日英通商航海条約
エ ポーツマス条約
答え:イ 日米修好通商条約
1858年に結ばれた日米修好通商条約では、日本はアメリカに領事裁判権を認め、日本には関税自主権がないという不平等な内容が定められました。
ここで注意したいのが、1854年の日米和親条約です。
ペリー来航のあとに結ばれた有名な条約なので、つい選びたくなりますが、入試で「領事裁判権」「関税自主権」と結びつけて問われる不平等条約は、日米修好通商条約です。
覚えるときは、
1854年 日米和親条約 → 下田・函館を開く
1858年 日米修好通商条約 → 貿易開始・不平等条約
と区別しておきましょう。
ちなみに、ウの日英通商航海条約は1894年に陸奥宗光が結び、領事裁判権の撤廃につながった条約です。
エのポーツマス条約は、1905年に日露戦争を終わらせるために結ばれた講和条約です。
第2章 なぜ条約改正はすぐに実現しなかったのか
明治政府は、不平等条約を引き継いだ直後から条約改正を目指しました。
しかし、欧米諸国に「不平等だから改正してほしい」と求めるだけでは、交渉は進みません。
当時の日本と欧米諸国との間には、国力だけでなく、政治や法律、裁判制度などにも大きな違いがあったからです。
明治政府は、条約改正を目指すなかで、外国との交渉だけではなく、日本そのものを近代国家へ変えていく必要があることを知ることになります。
岩倉使節団が欧米へ向かった
1871年、明治政府は岩倉使節団を欧米へ派遣しました。
使節団には岩倉具視をはじめ、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文など、明治政府の中心人物が参加しています。
目的の一つには、不平等条約の改正に向けた交渉がありました。
ところが、条約改正の交渉はうまく進みませんでした。
欧米諸国と対等な条約を結ぶためには、日本にも欧米諸国と同じような近代的な法律や裁判制度が必要だと考えられていたからです。
さらに、岩倉使節団には正式な条約改正を行うための十分な権限がなく、交渉の準備そのものも不十分でした。
結局、この段階で条約改正を実現することはできませんでした。

条約を変えるには「日本を変える」必要があった
しかし、岩倉使節団の欧米視察は、その後の日本に大きな影響を与えます。
使節団のメンバーは、欧米の政治制度や産業、教育、軍事、鉄道などを実際に見て、日本との大きな差を実感しました。
そして、欧米諸国と対等になるためには、外交交渉だけではなく、日本を近代国家として整備することが必要だと考えるようになります。
その後、日本では、
殖産興業による産業の育成
富国強兵による国力の強化
法律・裁判制度の整備
大日本帝国憲法の制定
帝国議会の開設
など、さまざまな近代化が進められていきました。
これらはすべて条約改正だけを目的に行われたわけではありません。しかし、欧米諸国から近代国家として認められ、対等な外交関係を築くための重要な土台となっていきます。
条約改正は「外交」だけの問題ではなかった
ここが、条約改正を理解するうえで重要なポイントです。
条約改正というと、外国との外交交渉だけに注目しがちです。
しかし実際には、
国内の近代化を進める
↓
欧米諸国から近代国家として認められる
↓
対等な条約を結べる国を目指す
という大きな流れがありました。
その意味で、岩倉使節団による条約改正交渉の挫折は、単なる失敗ではありません。
「条約を変えるためには、まず日本自身が変わらなければならない」
明治政府がその現実に向き合う、大きな転換点の一つだったのです。
第3章 井上馨・大隈重信の挑戦|なぜ条約改正は難しかったのか
岩倉使節団の帰国後、日本では近代国家を目指してさまざまな改革が進められました。
しかし、条約改正への道のりはまだ険しいものでした。
明治政府では、井上馨(いのうえかおる)や大隈重信らが条約改正に挑みますが、外国との交渉だけでなく、日本国内からも強い反対が起こります。
条約改正は、「外国が認めてくれない」というだけの問題ではなかったのです。
井上馨と鹿鳴館|日本の近代化を欧米にアピール
1880年代、外務卿・外務大臣を務めた井上馨は、欧米諸国との条約改正交渉を進めました。
井上は、欧米諸国に日本が近代化した国であることを示すため、欧化政策を進めます。
その象徴となったのが、1883年に東京に建てられた鹿鳴館(ろくめいかん)です。
鹿鳴館では、外国の外交官などを招いて舞踏会が開かれ、西洋風の服装や文化が積極的に取り入れられました。
こうした取り組みには、欧米諸国に「日本も西洋諸国と同じような近代国家になった」と示し、条約改正を進めようとする狙いがありました。
井上馨の条約改正案に国内から反対
しかし、井上馨の条約改正交渉は成功しませんでした。
交渉を進めるため、日本の裁判所に外国人裁判官を任用する案などが検討されると、
「条約を改正するために、外国に譲歩しすぎているのではないか」
という批判が国内で強まったのです。
井上は条約改正交渉を中止し、1887年に外務大臣を辞任しました。
鹿鳴館に象徴される欧化政策も、「西洋のまねをしているだけではないか」という批判を受けるようになります。
大隈重信も条約改正に挑戦
井上馨のあと、条約改正交渉を進めた代表的な人物が大隈重信です。
大隈は国ごとに交渉を進めるなどして、条約改正を目指しました。
しかし、大隈の条約改正案には、日本の裁判所に外国人判事を任用する構想が含まれていました。
そのため、国内では、
「これでは日本の司法権が十分に回復したことにならない」
「外国に譲歩しすぎではないか」
という強い反対が起こります。
つまり、反対した人々は条約改正そのものに反対していたのではなく、大隈が進めようとしていた条約改正案の内容に反対していたのです。
1889年、大隈重信は条約改正案に反対する人物から爆弾を投げつけられ、重傷を負いました。
こうして、大隈による条約改正も、この段階では実現しませんでした。
条約改正には「外国」と「国内」の二つの壁があった
井上馨と大隈重信の交渉を見ると、条約改正がなぜ難しかったのかが分かります。
欧米諸国を納得させるために日本側が大きく譲歩すれば、今度は国内から「それでは本当に対等な条約とはいえない」という反発が起こります。
つまり明治政府は、欧米諸国に条約改正を認めさせることと、日本の主権や国民の納得を守ることという二つの難しい課題を同時に解決しなければならなかったのです。
岩倉使節団から始まり、井上馨、大隈重信へ――。
何度も交渉が行われながら、条約改正はなかなか実現しませんでした。
しかし、その間にも大日本帝国憲法が発布され、法律や裁判制度の整備が進み、日本を取り巻く国際情勢も大きく変化していきます。
そして1890年代、ついに条約改正は大きく動き出すことになります。
条約改正を目指していた明治時代、日本では政治や法律だけでなく、人々の生活や文化にも西洋の影響が広がっていきました。
その時代を代表する人物の一人が福沢諭吉です。
福沢諭吉は欧米を訪れた経験をもとに、西洋の制度や考え方を日本に紹介しました。『学問のすゝめ』などを通して、身分にとらわれず学ぶことの大切さを説いたことでも知られています。
鹿鳴館で西洋式の舞踏会が開かれたのも、こうした「欧米に学び、近代国家を目指す」という明治時代の大きな流れの中にありました。
しかし、西洋化が進めば、すべてがうまくいったわけではありません。
明治時代後半に活躍した夏目漱石は、イギリス留学も経験し、西洋化が急速に進む日本社会を生きた作家です。『坊っちゃん』『吾輩は猫である』『こころ』などの作品を残し、近代社会を生きる人々の悩みや人間関係も描きました。
「欧米に追いつきたい日本」と、「日本はこのまま西洋化してよいのか」という戸惑い。
明治時代は、政治や外交だけでなく、人々の考え方や文化まで大きく変化した時代だったのです。
第4章 陸奥宗光と領事裁判権の撤廃|条約改正が大きく前進
岩倉使節団、井上馨、大隈重信――。
明治政府は何度も条約改正に挑戦しましたが、なかなか実現することができませんでした。
しかし、その間にも日本では憲法や法律、裁判制度などが整えられ、近代国家としての形が少しずつ完成していきます。
そして1894年、外務大臣陸奥宗光(むつむねみつ)のもとで、条約改正はついに大きく前進しました。
1894年、日英通商航海条約を結ぶ
陸奥宗光はイギリスとの交渉を進め、1894年に日英通商航海条約を結びました。
この条約によって、長年の課題だった領事裁判権の撤廃が決まります。
実際に領事裁判権が撤廃されたのは1899年ですが、幕末以来の不平等条約を改正する大きな一歩となりました。
その後、アメリカなど他の国々とも同様の条約が結ばれていきます。
高校入試では、
陸奥宗光 → 日英通商航海条約 → 領事裁判権の撤廃
という組み合わせをしっかり覚えておきましょう。
なぜ陸奥宗光のときに条約改正できたのか
では、井上馨や大隈重信が実現できなかった条約改正を、なぜ陸奥宗光は前進させることができたのでしょうか。
理由の一つは、日本の近代国家づくりが進んでいたことです。
1889年には大日本帝国憲法が発布され、1890年には帝国議会が開かれました。さらに法律や裁判制度の整備も進み、日本は近代国家としての仕組みを整えつつありました。
長年にわたって進めてきた国内の近代化が、ようやく条約改正につながり始めたのです。
しかし、それだけではありません。
ロシアを警戒するイギリスと日本
当時、東アジアではロシアが勢力を拡大していました。
イギリスにとっても、ロシアが東アジアで力を強めることは警戒すべき問題でした。
そこでイギリスは、東アジアにおける日本の存在を以前より重視するようになります。
つまり、1894年の条約改正の背景には、日本が近代国家として成長したことだけでなく、ロシアの進出を警戒するイギリスと日本の利害が近づいていたこともあったのです。
条約改正は、日本国内の努力だけでなく、世界の国々の関係が変化するなかで実現していったことが分かります。
条約改正の直後に始まった日清戦争
日英通商航海条約が結ばれた1894年、日本はまもなく日清戦争へと突入します。
ここで年代の順番には注意しましょう。
日英通商航海条約
↓
日清戦争
という順番です。
そのため、「日清戦争に勝ったから領事裁判権を撤廃できた」わけではありません。
しかし、その後の日清戦争・日露戦争を通して、日本の東アジアにおける立場はさらに大きく変化していきます。
そして、この国際的な立場の変化は、もう一つ残されていた課題――関税自主権の完全回復へとつながっていくことになります。
第5章 日清・日露戦争と条約改正|小村寿太郎が関税自主権を回復
1894年、陸奥宗光によって領事裁判権の撤廃への道が開かれました。
しかし、不平等条約の問題がすべて解決したわけではありません。
もう一つの大きな課題である関税自主権の完全回復が残されていたからです。
そしてここから、条約改正の歩みは日清戦争・ロシアの進出・日英同盟・日露戦争という東アジアの大きな国際情勢と深く結びついていきます。
日清戦争の勝利で日本の国際的地位が高まる
1894年、日本と清の間で日清戦争が始まりました。
日本は戦争に勝利し、1895年に下関条約を結びます。
この勝利は、欧米諸国が日本を見る目にも変化を与えました。
幕末には欧米諸国から不平等条約を結ばれた日本が、近代的な軍隊や国家制度を整え、東アジアで大きな力を持つ国へと変化していることを示したのです。
しかし、日本の前には新たな大国が立ちはだかります。
それがロシアでした。
三国干渉で強まったロシアへの警戒
下関条約によって、日本は清から遼東半島を得ました。
ところが、ロシア・ドイツ・フランスの3か国が、日本に遼東半島を清へ返還するよう要求します。
これを三国干渉といいます。
日本はこの要求を受け入れました。
ところが、その後ロシア自身が中国東北部への進出を強め、遼東半島の一部を清から租借します。
日本ではロシアへの警戒感が急速に高まっていきました。
ロシアを警戒した日本とイギリスが日英同盟を結ぶ
ロシアの勢力拡大を警戒していたのは、日本だけではありません。
世界各地に植民地や権益を持っていたイギリスも、ロシアのアジアへの進出を警戒していました。
そこで1902年、日本とイギリスは日英同盟を結びます。
幕末、日本はイギリスをはじめとする欧米諸国から不平等条約を結ばれました。
それから約40年後、日本は世界の大国であるイギリスと同盟を結ぶ国にまでなったのです。
この変化は、日本の国際的な立場が大きく変わっていたことを象徴しています。
日露戦争を経て、日本の国際的地位はさらに高まった
1904年、日本とロシアの間で日露戦争が始まりました。
戦争は日本にとって大きな犠牲をともなうものでしたが、1905年にアメリカ大統領セオドア=ルーズベルトの仲介によってポーツマス条約が結ばれます。
日本が大国ロシアと戦ったことは、国際社会における日本の存在感をさらに大きなものにしました。
ただし、日露戦争に勝ったから自動的に条約改正が実現したわけではありません。
日本が長年進めてきた近代国家づくりや外交交渉、そして国際社会における日本の立場の変化が積み重なり、最後の条約改正へとつながっていったのです。
1911年、小村寿太郎が関税自主権を完全に回復
そして1911年、外務大臣小村寿太郎(こむらじゅたろう)のもとで、アメリカとの新しい条約が結ばれ、日本は関税自主権の完全回復を実現しました。
その後、ほかの国々とも同様の条約が結ばれていきます。
これによって、幕末以来続いてきた不平等条約の問題は、ついに大きな区切りを迎えました。
高校入試では、
陸奥宗光 → 領事裁判権の撤廃
小村寿太郎 → 関税自主権の完全回復
という違いを必ず押さえておきましょう。
明治時代が終わるわずか1年前だった
日米修好通商条約が結ばれたのは1858年。
関税自主権を完全に回復したのは1911年です。
その間、実に53年。
しかも、明治時代は1868年から1912年までなので、関税自主権の完全回復は明治時代が終わるわずか1年前のことでした。
幕末に不平等条約を結ばれた日本は、明治時代を通して近代国家づくりを進め、日清・日露戦争などを経ながら国際的な立場を変えていきました。
そして明治時代の終わりを目前にして、長年の大きな目標だった条約改正をほぼ完成させたのです。
条約改正の歩みをたどることは、そのまま明治日本の歩みをたどることでもある。
そう考えると、条約改正がなぜ明治時代を理解するうえで重要なのかが見えてきます。
第6章 一問一答で理解をチェック!
ここまで学んだ条約改正の流れを、一問一答で確認してみましょう。
条約改正では、単に人物名を覚えるだけでなく、「何を改正したのか」「どのような出来事とつながっているのか」を整理することが大切です。
特に、陸奥宗光と小村寿太郎の違いは、高校入試でも重要なポイントです。
問題
- 1858年に江戸幕府がアメリカと結んだ、不平等な内容を含む条約を何といいますか。
- 日本で罪を犯した外国人を、その外国の領事が裁く権利を何といいますか。
- 自国で関税率を自由に決める権利を何といいますか。
- 1871年、不平等条約の改正交渉や欧米諸国の視察などを目的として派遣された使節団を何といいますか。
- 条約改正を進めるため欧化政策をとり、鹿鳴館を建設した外務大臣は誰ですか。
- 1894年、イギリスと日英通商航海条約を結び、領事裁判権の撤廃に成功した外務大臣は誰ですか。
- 日清戦争後、ロシア・ドイツ・フランスが日本に遼東半島を返還するよう要求した出来事を何といいますか。
- 1902年、ロシアの進出を警戒した日本とイギリスが結んだ同盟を何といいますか。
- 1911年、関税自主権の完全回復を実現した外務大臣は誰ですか。
- 幕末以来の不平等条約の改正で、最後まで残された大きな課題は何ですか。
解答
- 日米修好通商条約
- 領事裁判権
- 関税自主権
- 岩倉使節団
- 井上馨
- 陸奥宗光
- 三国干渉
- 日英同盟
- 小村寿太郎
- 関税自主権の完全回復

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