自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)は、明治時代に「国民も政治に参加できる国をつくろう」と、多くの人々が国会の開設や憲法の制定を求めた運動です。
「板垣退助が始めた運動」とだけ覚えている人も多いですが、それだけでは自由民権運動の本当の姿は見えてきません。
明治維新のあと、新しい政府では西郷隆盛や大久保利通らが国づくりを進めました。しかし、岩倉使節団の帰国後に起こった明治六年の政変をきっかけに、板垣退助は政府を去ります。
その後、西南戦争によって武力で政府を変える時代は終わりを迎え、「言論や選挙、国会によって国を変えよう」という考えが全国へ広がっていきました。これが自由民権運動です。
自由民権運動は、やがて政府に国会開設を約束させ、大日本帝国憲法の制定や帝国議会の開設へとつながります。
この記事では、自由民権運動が始まった理由や中心人物、政府との対立、そして日本の議会政治がどのように始まったのかを、歴史の流れに沿ってわかりやすく解説します。
第1章 自由民権運動はなぜ始まったのか
自由民権運動の背景には、明治政府の政治への不満や明治六年の政変がありました。これらが重なったことで、「国民も政治に参加できる国をつくろう」という自由民権運動が始まったのです。
明治六年の政変で板垣退助が政府を去る
1873年、岩倉使節団が欧米から帰国すると、政府では朝鮮への対応をめぐって大きな対立が起こりました。
西郷隆盛や板垣退助らは、朝鮮との外交問題を早く解決するため、必要であれば武力も辞さない征韓論を主張しました。一方、岩倉具視や大久保利通らは、「まずは国内の近代化を優先し、国力をつけることが先だ」と反対します。
この対立は明治六年の政変へと発展し、征韓論を主張した西郷隆盛や板垣退助らは敗れ、政府を去ることになりました。
その後、板垣退助は「政府の外から政治を変えよう」と考え、自由民権運動を始めます。

藩閥政治への不満も高まっていた
当時の明治政府では、薩摩藩や長州藩の出身者が政治の中心となっていました。
このような政治は藩閥政治(はんばつせいじ)と呼ばれます。
藩閥政治では、一部の政治家によって重要な政策が決められることが多く、「国民の意見が政治に反映されていない」という不満が広がっていました。
そこで、「国民の代表が話し合う国会をつくり、政治に参加できるようにすべきだ」という考えが次第に強まっていきます。
明治維新のあと、新しくできた明治政府では、西郷隆盛・大久保利通(薩摩藩)、木戸孝允・伊藤博文(長州藩)など、薩摩藩や長州藩の出身者が政治の中心となりました。
また、板垣退助(土佐藩)や大隈重信・江藤新平(肥前藩)なども政府で活躍していました。
このように、明治維新で活躍した薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩(薩長土肥)の出身者が政治を進めた体制を藩閥政治といいます。
しかし、政府の重要な役職は一部の有力者によって占められており、特に薩摩藩や長州藩の出身者の影響力が大きかったため、「国民の意見が政治に反映されていない」という不満が高まっていきました。
そのため板垣退助らは、「一部の政治家だけで政治を決めるのではなく、国民が選んだ代表が話し合う国会を開くべきだ」と考え、自由民権運動を進めていったのです。
民撰議院設立建白書を提出する
1874年、板垣退助らは民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)を政府に提出しました。
この建白書では、国民が選んだ代表による国会を開設することを求めています。
これが、自由民権運動の出発点となりました。
自由民権運動とはどんな運動?
自由民権運動の「自由」とは、自分の考えや意見を自由に表現できること、「民権」とは、国民が政治に参加する権利のことです。
つまり、自由民権運動とは、「国民も政治に参加できる国をつくろう」という運動でした。
この運動は板垣退助ら政治家だけでなく、多くの人々の支持を集め、やがて全国へ広がっていきます。
入試で覚えておこう!
自由民権運動が始まるまでの流れは、高校入試でもよく出題されます。
明治六年の政変
→ 板垣退助が政府を去る
→ 藩閥政治への不満が高まる
→ 民撰議院設立建白書を提出
→ 自由民権運動が始まる
この流れを押さえておくと、「なぜ自由民権運動が始まったのか」を理解しやすくなります。
第2章 自由民権運動はどのように広がったのか
自由民権運動は、板垣退助が始めたあと、一部の政治家だけの運動ではなく、全国へ広がっていきました。
演説会や新聞を通して多くの人が政治に関心を持ち、不平士族や農民なども運動に参加するようになります。
愛国社を結成し、全国へ運動を広げる
1875年、板垣退助は愛国社を結成しました。
愛国社は、「国民も政治に参加できる国をつくろう」という考えを全国へ広めるための団体です。
各地の自由民権運動を行う人々が集まり、演説会や集会を開きながら、国会の開設を求める活動を進めました。
不平士族や農民も運動に参加した
自由民権運動には、板垣退助のような政治家だけでなく、多くの人々が参加しました。
特に、明治政府の改革によって特権を失った不平士族の中には、政府への不満から自由民権運動に加わる人もいました。
また、地租改正や不景気などで生活が苦しくなった農民も、「政治を変えて暮らしを良くしたい」という思いから運動に参加します。
このように、自由民権運動はさまざまな立場の人々を巻き込み、全国へ広がっていきました。
自由党と立憲改進党が結成される
1881年には、板垣退助を中心とする自由党が結成されます。
翌1882年には、大隈重信を中心とする立憲改進党も結成されました。
どちらも国会の開設や憲法の制定を目指した政党でしたが、政治の進め方には違いがありました。
- 自由党…国民の権利を強く主張した。
- 立憲改進党…イギリスの政治制度を手本に、穏やかな改革を目指した。
高校入試では、
板垣退助=自由党
大隈重信=立憲改進党
の組み合わせがよく出題されます。
自由民権運動は全国的な運動へ発展した
演説会や新聞、政党の活動によって、自由民権運動は全国へ広がりました。
こうして、「国民も政治に参加したい」という声はますます大きくなり、やがて政府も無視できなくなっていきます。
しかし、その一方で政府は自由民権運動を警戒し、集会や新聞を取り締まるようになります。
その対立については、次の章で見ていきましょう。
第3章 自由民権運動はなぜ政府と対立したのか
自由民権運動が全国へ広がると、「国民も政治に参加したい」という声はますます大きくなりました。
しかし、明治政府は自由民権運動を歓迎していたわけではありません。
政府と自由民権運動は、どちらも日本をより良い国にしたいという思いは同じでしたが、その方法や考え方には大きな違いがありました。
政府は近代化を優先した
自由民権運動では、「一日も早く国会を開き、国民が政治に参加できるようにすべきだ」という意見が強まりました。
一方、政府は「まずは産業や教育、法律を整え、近代国家としての土台を築くことが先だ」と考えていました。
岩倉使節団で欧米を視察した大久保利通や伊藤博文らは、日本と欧米の国力の差を実感していたため、急いで政治制度を変えるよりも、国づくりを優先すべきだと判断したのです。
このように、目指す国は同じでも、その進め方の違いから政府と自由民権運動は対立していきました。
政府は自由民権運動を取り締まった
自由民権運動が勢いを増すと、政府は人々が自由に政治について話し合ったり、演説をしたりすることを警戒するようになります。
そこで、集会条例を制定し、政治に関する集会や演説を制限しました。
また、新聞や雑誌への取り締まりも強化し、政府を批判する意見が広がらないようにしました。
政府は、自由民権運動が社会の混乱につながることを心配していたのです。
一部では武力による事件も起こった
自由民権運動は、本来、演説や請願などを通して政治を変えようとする運動でした。
しかし、生活に苦しむ農民や政府への不満を抱く人々の中には、武力に訴える人も現れます。
その代表的な出来事が、秩父事件(1884年)です。
秩父事件では、借金や重い税に苦しむ農民が武装して政府に反発しましたが、政府によって鎮圧されました。
自由民権運動にはさまざまな立場の人々が参加していたため、一部ではこのような激しい事件も起こったのです。
対立の中でも国会開設への流れは止まらなかった
政府は自由民権運動を取り締まりましたが、「国民も政治に参加したい」という声はなくなりませんでした。
こうした国民の声を受け、政府は1881年に国会開設の勅諭を出し、1890年に国会を開設することを約束します。
自由民権運動と政府は対立しながらも、その議論は日本の議会政治を生み出す大きな原動力となったのです。
コラム 征韓論に反対したのに、なぜ朝鮮を開国させたの?
明治六年の政変では、西郷隆盛らが主張した征韓論は退けられました。
そのため、「征韓論に反対したのに、なぜ日本は後に朝鮮を開国させたのだろう?」と疑問に思う人もいるでしょう。
実は、西郷隆盛と大久保利通らは、どちらも朝鮮との国交を開きたいという目的は共通していました。
違っていたのは、その方法と時期です。
西郷隆盛は「今すぐ交渉し、必要であれば武力も辞さない」と考えました。一方、大久保利通らは「まず日本の近代化を進め、国力をつけてから外交を進めるべきだ」と考えました。
その後、日本は殖産興業や富国強兵によって国力を高め、1876年の日朝修好条規によって朝鮮を開国させます。
つまり、征韓論は「朝鮮を開国させるかどうか」の対立ではなく、「いつ、どのように開国させるか」の対立だったと考えると、歴史の流れが理解しやすくなります。
第4章 自由民権運動が日本の政治を変えた
自由民権運動によって、「国民も政治に参加したい」という声は全国へ広がりました。
政府は自由民権運動を取り締まりましたが、その声を無視し続けることはできませんでした。
こうして日本では、国会の開設や憲法の制定に向けた動きが本格的に始まります。
国会開設の勅諭が出される
1881年、政府は国会開設の勅諭を発表し、1890年に国会を開設することを約束しました。
これは、自由民権運動によって高まった国民の声に応えたものです。
一方で、政府は「国会を開くだけではなく、その前に政治の仕組みを整える必要がある」と考えていました。
そのため、憲法の制定や議会制度の準備が進められることになります。
伊藤博文が憲法制定を進める
国会を開くためには、政治の基本ルールとなる憲法が必要でした。
そこで政府は伊藤博文をヨーロッパへ派遣し、ドイツ(プロイセン)などの憲法を調査させます。
その成果をもとに、1889年に大日本帝国憲法が制定されました。
この憲法によって、日本は近代国家としての政治制度を整え、国会を開く準備を進めたのです。

1890年、帝国議会が開かれる
1890年、日本で初めて帝国議会が開かれました。
国民が選挙で選んだ議員が政治について話し合う仕組みが始まり、日本は本格的な議会政治の時代を迎えます。
ただし、当時は納める税金が一定額以上の男子だけに選挙権が認められており、現在のようにすべての成人が投票できたわけではありません。
自由民権運動は日本の民主化の第一歩だった
自由民権運動の最大の目的は、「国民も政治に参加できる国をつくること」でした。
その願いは、国会の開設や憲法の制定によって大きく前進します。
もちろん、この時代の政治はまだ限られた人だけが参加できるものでしたが、日本はここから少しずつ議会政治を発展させていきます。
自由民権運動は、現在の民主的な政治へと続く第一歩となった重要な運動だったのです。
コラム 岩倉使節団と自由民権運動の意外な関係
岩倉使節団と自由民権運動は、一見すると関係のない出来事のように見えます。しかし、実は日本の近代国家づくりという大きな流れの中で深く結び付いています。
岩倉使節団が欧米を訪れている間、日本では西郷隆盛や板垣退助らが留守政府として政治を担当していました。
帰国後、海外組は「まずは産業や教育、法律を整え、近代国家をつくることが先だ」と考えます。一方、留守政府は朝鮮問題への対応などをめぐって対立し、この対立は明治六年の政変へと発展しました。
その結果、板垣退助は政府を去り、自由民権運動を始めます。
また、岩倉使節団のメンバーは欧米で議会政治や憲法を学び、「近代国家には議会が必要だ」という考えも持ち帰りました。
つまり、
- 板垣退助は国民の立場から国会の開設を求め、
- 伊藤博文ら政府は近代国家づくりを進めたうえで国会や憲法を整えようとしました。
立場や進め方は違いましたが、どちらも日本を近代国家へ発展させようとしていた点では共通しています。
岩倉使節団は、留守政府との対立を生み、その後の自由民権運動、国会開設、大日本帝国憲法の制定、そして議会政治の始まりへとつながる、日本の政治の大きな転換点だったのです。
第5章 歴史の流れで理解しよう|自由民権運動が日本の民主化につながるまで
自由民権運動は、「国会を開いてほしい」と求める運動として始まりました。
しかし、その影響は明治時代だけにとどまりません。自由民権運動をきっかけに、日本では議会政治が始まり、その後も民主的な政治を目指す流れが続いていきました。
歴史は、一つひとつの出来事を別々に覚えるのではなく、「流れ」で理解すると覚えやすくなります。
自由民権運動から議会政治へ
自由民権運動によって、政府は1881年に国会開設の勅諭を出し、1890年に国会を開くことを約束しました。
その後、伊藤博文を中心に大日本帝国憲法が制定され、1890年には日本で初めて帝国議会が開かれます。
こうして、日本では本格的な議会政治が始まりました。
政党政治へ発展する
帝国議会が開かれると、自由党や立憲改進党などの政党は、議会の中で政治を行うようになります。
つまり、自由民権運動は終わったのではなく、政党が議会で活動する「政党政治」へと発展したのです。
このころから、国民の意見を政治に反映させようという考えが少しずつ広がっていきました。
大正デモクラシーへ受け継がれる
大正時代になると、「もっと多くの国民が政治に参加できるようにしよう」という大正デモクラシーが起こります。
そして1925年には普通選挙法が制定され、25歳以上のすべての男子が選挙で投票できるようになりました。
このように、日本の民主化は一度に実現したのではなく、自由民権運動から少しずつ発展していったのです。
自由民権運動は「国会をつくること」を目指した運動、大正デモクラシーは「国会をより国民のための政治にすること」を目指した運動と考えると、二つの違いを理解しやすくなります。
高校入試では流れで覚えよう
高校入試では、それぞれの出来事を単独で覚えるだけでなく、次の流れを理解しておくことが大切です。
自由民権運動
↓
国会の開設を求める
↓
国会開設の勅諭(1881年)
↓
政府が1890年に国会を開くことを約束
↓
大日本帝国憲法(1889年)
↓
国会を開くための憲法が制定される
↓
帝国議会(1890年)
↓
日本で議会政治が始まる
↓
政党政治の発展
↓
政党が議会で政治を行うようになる
↓
大正デモクラシー
↓
より民主的な政治を求める運動が広がる
↓
普通選挙法(1925年)
↓
25歳以上のすべての男子に選挙権が認められる
自由民権運動は、「国会をつくろう」という運動から始まり、日本の議会政治、そして民主化へと続く大きな流れの出発点となりました。
「自由民権運動=板垣退助」と覚えるだけでなく、日本の政治がどのように変わっていったのかを流れで理解することが、高校入試でも大きな力になります。
現在、日本では18歳以上の国民が選挙で投票できます。このような民主的な政治は、一朝一夕に実現したものではありません。自由民権運動から始まった人々の努力が積み重なり、現在の日本の政治へとつながっています。

コメント