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【中学歴史】岩倉使節団とは?目的・メンバー・成果をわかりやすく解説

岩倉使節団(いわくらしせつだん)は、明治時代の初めに、岩倉具視や大久保利通、木戸孝允、伊藤博文などが欧米へ派遣された使節団です。

「外国へ行って勉強してきた人たち」というイメージを持っている人も多いですが、それだけではありません。

岩倉使節団の本来の目的は、不平等条約を改正するために欧米諸国と交渉することでした。しかし、交渉はうまくいかず、日本はまだ近代国家として認められていないという厳しい現実を知ることになります。

一方で、この約2年間の旅は日本の未来を大きく変えました。欧米の工業や教育、政治制度、軍隊などを学び、「日本も近代国家にならなければならない」という考えが、その後の殖産興業や富国強兵、憲法制定などにつながっていきます。また、津田梅子ら女子留学生が欧米で学んだことは、日本の女性教育の発展にも大きな影響を与えました。

この記事では、岩倉使節団が派遣された目的やメンバー、訪れた国だけでなく、日本の近代化にどのような影響を与えたのかまで、歴史の流れに沿ってわかりやすく解説します。

目次

第1章 なぜ岩倉使節団は派遣されたのか

明治維新によって江戸幕府が倒れ、日本には新しい明治政府が誕生しました。しかし、新しい政府ができたとはいえ、日本はまだ欧米諸国と比べると国の制度や産業が十分に整っていませんでした。

そこで明治政府は、日本の未来を左右する重要な目的を持って、岩倉使節団を欧米へ派遣します。

最大の目的は「不平等条約の改正」

岩倉使節団が派遣された最大の目的は、欧米諸国と結んでいた不平等条約を改正することでした。

当時の日本は、江戸時代の終わりに欧米諸国と不平等条約を結んでおり、次のような不利な内容が含まれていました。

  • 領事裁判権が認められ、日本の裁判で外国人を裁けない。
  • 関税自主権がなく、日本が自由に関税を決められない。

明治政府は、「新しい国になった日本なら条約を改正できる」と考え、岩倉具視を大使とする使節団を派遣しました。

しかし、欧米諸国は「日本はまだ近代国家とは言えない」と判断し、交渉は成功しませんでした。

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世界の進んだ国から学ぶことも大きな目的だった

条約改正は実現できませんでしたが、岩倉使節団にはもう一つ重要な目的がありました。

それは、欧米の進んだ制度や技術を実際に見て学ぶことです。

使節団は、鉄道や工場、学校、議会、裁判所、軍隊などを視察し、日本との違いに大きな衝撃を受けました。

その中でも特に工業化が進んでいたイギリスは、使節団に強い印象を与えました。

大久保利通は西郷隆盛へ送った手紙の中で、イギリスの産業や国の豊かさは日本とは比べものにならないほど進んでいると伝えています。そして、日本が欧米に追いつくためには、産業を発展させ、国を豊かにすることが必要だと考えるようになりました。

この経験は、帰国後に大久保が進めた殖産興業富国強兵などの政策にも大きな影響を与えたと考えられています。

日本の未来を決めた大きな一歩

岩倉使節団は、不平等条約の改正という目的では成果を上げることができませんでした。

しかし、世界最先端の国々を見て学んだ経験は、日本の近代化を進める大きな原動力となりました。

そのため高校入試では、「岩倉使節団=不平等条約の改正を目指して欧米へ派遣された使節団」と、「欧米の制度や文化を学び、日本の近代化に大きな影響を与えた」という2つのポイントをセットで覚えておくことが大切です。

第2章 岩倉使節団はどこへ行き、誰が参加したのか

岩倉使節団は、1871年(明治4年)から約2年間にわたって欧米諸国を訪れました。

目的は不平等条約の改正だけではありません。実際に世界の先進国を見て、日本の国づくりに役立てることも重要な任務でした。

ここでは、使節団の主なメンバーと訪れた国を見ていきましょう。

岩倉使節団の主なメンバー

岩倉使節団には、明治政府の中心となる人物が数多く参加しました。

人物主な業績
岩倉具視使節団の大使として全体をまとめた。
大久保利通帰国後、殖産興業や富国強兵を進めた。
木戸孝允明治政府の中心人物として政治改革に尽力した。
伊藤博文帰国後、憲法制定の中心となり、初代内閣総理大臣になった。

今では歴史上の偉人として知られる人物ばかりですが、当時は「日本をどうすれば欧米のような近代国家にできるのか」を真剣に学ぶために海外へ渡りました。

アメリカからヨーロッパ各国を視察

使節団はまずアメリカを訪れ、その後、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアなどヨーロッパ各国を視察しました。

訪問先では、鉄道や工場、学校、議会、裁判所、軍隊などを見学し、それぞれの国の優れた制度を学びました。

特に工業化が進んでいたイギリスは、日本との違いが非常に大きく、多くの使節が強い衝撃を受けたと伝えられています。

津田梅子ら女子留学生も同行した

岩倉使節団には、政府の役人だけでなく、将来の日本を担う子どもたちも同行しました。

その中でも有名なのが、6歳でアメリカへ渡った津田梅子です。

津田梅子は使節団が帰国したあともアメリカに残り、約11年間学び続けました。そして帰国後は女子教育の発展に力を尽くし、現在の津田塾大学の前身となる学校を設立しました。

岩倉使節団は、日本の政治や産業だけでなく、女性教育の発展にも大きな影響を与えた出来事だったのです。

海外組と留守政府に分かれていた

岩倉使節団が海外へ出発した間、日本では西郷隆盛や板垣退助、江藤新平らが政府に残り、政治を担当しました。この人たちは「留守政府」と呼ばれます。

一方、岩倉具視や大久保利通、木戸孝允、伊藤博文などは「海外組」として欧米を視察しました。

その後、海外組が帰国すると、朝鮮への対応をめぐる征韓論で海外組と留守政府が対立し、明治六年の政変へと発展します。

つまり、岩倉使節団は海外を視察しただけでなく、その後の日本の政治にも大きな影響を与えた出来事だったのです。

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第3章 岩倉使節団はなぜ失敗したのか

岩倉使節団の最大の目的は、欧米諸国と結んでいた不平等条約を改正することでした。

しかし、その目的は達成できませんでした。

では、なぜ日本は条約を改正してもらえなかったのでしょうか。

欧米は日本を「近代国家」と認めなかった

明治維新によって新しい政府ができたとはいえ、日本はまだ改革を始めたばかりでした。

欧米諸国は、日本の法律や政治制度が十分に整っていないことを理由に、条約改正には応じませんでした。

特に問題とされたのが、次のような点です。

  • 近代的な法律が十分に整っていない。
  • 憲法が制定されていない。
  • 裁判制度が欧米の水準に達していない。

つまり、「日本が近代国家として認められるには、まず国内の制度を整える必要がある」と判断されたのです。

失敗したからこそ日本の進むべき道が見えた

条約改正は失敗に終わりましたが、この経験は明治政府にとって大きな意味がありました。

「まずは日本を欧米と肩を並べられる国にしなければならない。」

この考えが政府内で共有され、帰国後にはさまざまな近代化政策が進められます。

例えば、

  • 大久保利通は殖産興業を進め、産業の発展に力を入れました。
  • 学校制度を整え、教育の充実を図りました。
  • 軍隊を近代化し、富国強兵を進めました。
  • 伊藤博文は後に大日本帝国憲法の制定を中心となって進めました。

岩倉使節団は、「近代国家になることが、条約改正への第一歩である」という重要な課題を日本に示したのです。

条約改正が実現するのは約20年以上後

岩倉使節団の帰国後、日本は近代国家を目指して改革を続けました。

その結果、1894年には陸奥宗光によって領事裁判権の撤廃に成功し、さらに1911年には小村寿太郎によって関税自主権も回復しました。

つまり、不平等条約の改正は一度の交渉で実現したわけではありません。

岩倉使節団の失敗をきっかけに、日本は政治や法律、産業、教育などを着実に発展させ、その努力が20年以上かけて実を結んだのです。

入試で覚えておこう!

岩倉使節団については、次の流れを覚えておくと高校入試でも役立ちます。

不平等条約の改正を目指す → 交渉は失敗 → 日本の近代化を進める → 条約改正を実現する

この流れを理解しておくと、岩倉使節団が日本の近代化に果たした役割をつかみやすくなります。

第4章 岩倉使節団が日本を変えた

岩倉使節団は、不平等条約の改正には失敗しました。

しかし、欧米で学んだ経験は、その後の日本の国づくりに大きな影響を与えます。

ここでは、岩倉使節団が日本の近代化にどのようにつながったのかを見ていきましょう。

殖産興業で豊かな国を目指した

欧米では、蒸気機関を利用した工場や鉄道が整備され、工業が大きく発展していました。

その様子を目の当たりにした大久保利通は、日本も産業を発展させなければ欧米には追いつけないと考えます。

帰国後は、工場を建設したり鉄道を整備したりする殖産興業を進め、日本の産業を育てていきました。

富国強兵で国を守る力をつけた

欧米諸国は、近代的な軍隊を整え、強い国を築いていました。

その姿を見た明治政府は、日本も国を守るためには近代的な軍隊が必要だと考えます。

そこで徴兵令を実施し、全国から兵士を集める制度を整え、富国強兵を進めていきました。

教育や憲法も近代化が進んだ

岩倉使節団は、学校制度や政治の仕組みにも注目しました。

帰国後には全国で学校教育を充実させる取り組みが進み、多くの子どもが学べるようになります。

また、欧米の憲法や議会制度を参考にしながら、伊藤博文を中心として大日本帝国憲法が制定されました。

このように、日本は少しずつ欧米に近い近代国家へと成長していったのです。

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日本の未来を変えた約2年間

岩倉使節団は、条約改正という目的だけを見れば成功したとは言えません。

しかし、欧米の制度や技術、考え方を日本へ持ち帰ったことで、その後の政治や産業、教育、軍事など、さまざまな改革が進みました。

もし岩倉使節団がなければ、日本の近代化はもっと遅れていたかもしれません。

だからこそ岩倉使節団は、「外国へ行った出来事」ではなく、日本の未来を大きく変えた歴史上の転換点として覚えておくことが大切です。

コラム 岩倉使節団と自由民権運動の意外な関係

岩倉使節団と自由民権運動は、一見すると関係のない出来事のように見えます。しかし、実は日本の近代国家づくりという大きな流れの中で深く結び付いています。

岩倉使節団が欧米を訪れている間、日本では西郷隆盛や板垣退助らが留守政府として政治を担当していました。

帰国後、海外組は「まずは産業や教育、法律を整え、近代国家をつくることが先だ」と考えます。一方、留守政府は朝鮮問題への対応などをめぐって対立し、この対立は明治六年の政変へと発展しました。

その結果、板垣退助は政府を去り、自由民権運動を始めます。

また、岩倉使節団のメンバーは欧米で議会政治や憲法を学び、「近代国家には議会が必要だ」という考えも持ち帰りました。

つまり、

  • 板垣退助は国民の立場から国会の開設を求め、
  • 伊藤博文ら政府は近代国家づくりを進めたうえで国会や憲法を整えようとしました。

立場や進め方は違いましたが、どちらも日本を近代国家へ発展させようとしていた点では共通しています。

岩倉使節団は、留守政府との対立を生み、その後の自由民権運動や国会開設へとつながる、日本の政治の大きな転換点だったのです。

第5章 留守政府との対立が明治六年の政変へ

岩倉使節団が約2年間にわたって欧米を視察している間、日本では留守政府が政治を担当していました。

しかし、海外組が帰国すると、日本が進むべき道をめぐって大きな対立が起こります。それが明治六年の政変(1873年)です。

留守政府は改革を進めていた

岩倉使節団が海外へ出発したあと、日本では西郷隆盛・板垣退助・江藤新平らが留守政府として政治を担いました。

留守政府は、近代国家を目指してさまざまな改革を進める一方で、朝鮮との外交問題にも直面します。

当時の朝鮮は明治政府を正式な政府として認めず、日本との関係は悪化していました。

西郷隆盛は征韓論を主張した

この問題を解決するため、西郷隆盛は自ら朝鮮へ渡り、交渉が決裂した場合は武力によって開国を求めるべきだと考えました。

この考え方が征韓論です。

西郷は、国内の不満を解消することにもつながると考え、この案を政府に提案しました。

海外組は内政を優先すべきだと考えた

一方、帰国した岩倉具視・大久保利通・木戸孝允ら海外組は、西郷の考えに反対しました。

欧米を視察した彼らは、日本と欧米の国力の差を実感していました。

「今の日本は、まだ外国と戦えるほど強くない。まずは産業や教育、法律などを整え、近代国家としての力をつけることが先だ。」

これが海外組の考えでした。

明治六年の政変とその後

政府内の議論の結果、海外組の考えが採用され、征韓論は退けられました。

これに反発した西郷隆盛や板垣退助、江藤新平らは政府を去ります。

その後、

  • 江藤新平は佐賀の乱を起こす。
  • 西郷隆盛は西南戦争を起こす。
  • 板垣退助は自由民権運動を進める。

このように、それぞれが別々の道を歩むことになりました。

つまり、岩倉使節団は海外を視察した出来事であると同時に、その後の日本の政治を大きく変えた出来事でもあったのです。

第6章 岩倉使節団が日本の近代国家づくりの出発点になった理由

ここまで見てきたように、岩倉使節団は不平等条約の改正には成功しませんでした。

しかし、日本の歴史全体で見ると、その影響は非常に大きなものでした。

岩倉使節団は、日本が「どのような国を目指すべきか」を知るきっかけとなったのです。

「世界を知る」ことが近代化につながった

使節団のメンバーは、欧米で工業や鉄道、学校、議会、裁判所などを見学し、日本との大きな違いを実感しました。

その経験から、

  • 産業を発展させる殖産興業
  • 国を守るための富国強兵
  • 全国に学校を整備する学制
  • 近代的な政治の基礎となる大日本帝国憲法

など、さまざまな改革が進められていきます。

つまり、岩倉使節団は日本に「近代国家のモデル」を持ち帰ったと言えるでしょう。

不平等条約改正への第一歩だった

岩倉使節団は、条約改正の交渉には失敗しました。

しかし、その失敗によって「まず日本自身が近代国家にならなければならない」という課題が明確になりました。

その後、日本は政治や法律、産業、教育を整え、約20年後には領事裁判権の撤廃、さらに関税自主権の回復を実現します。

岩倉使節団の失敗は、その後の成功につながる第一歩だったのです。

歴史を「線」で理解しよう

高校入試では、岩倉使節団だけを単独で覚えるのではなく、前後の出来事と結び付けて理解することが大切です。

明治維新

岩倉使節団

殖産興業・富国強兵・学制

自由民権運動

大日本帝国憲法

不平等条約改正

この流れを理解すると、「なぜ日本が短期間で近代国家へ成長できたのか」が見えてきます。

高校入試で覚えておきたいポイント

最後に、高校入試で特によく問われるポイントを確認しておきましょう。

  • 岩倉使節団の最大の目的は、不平等条約の改正だった。
  • 交渉は失敗したが、欧米の制度や技術を学び、日本の近代化に大きな影響を与えた。
  • 大久保利通や伊藤博文らは帰国後、殖産興業や憲法制定などの改革を進めた。
  • 海外組と留守政府は征韓論で対立し、明治六年の政変につながった。

岩倉使節団は、「外国へ行った出来事」ではありません。

世界を知り、日本の未来を変えるきっかけとなった、日本近代史を代表する出来事として覚えておきましょう。

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この記事を書いた人

【ときおぼえアカデミー】運営者

明治大学卒業。

大学時代、英語や世界史に夢中になり、授業そっちのけで独学に没頭していました。学ぶことの楽しさを伝えたくて、アルバイトで塾講師も経験。

卒業後は金融業界に進みましたが、やがて教育業界への想いが捨てきれず、大手進学塾へ転職。

開成・国立・早慶附属といった難関校を目指す大手進学塾に、約10年勤務していました。

現在はまったく畑違いの仕事をしていますが、中学受験をしない小学生や高校受験を目指す中学生に役立つ情報を発信します。

名前はペンネームです。

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