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【中学歴史】西南戦争とは?原因・結果をわかりやすく解説

1877年、九州で西南戦争が起こりました。

西南戦争の中心人物となったのが、西郷隆盛です。

西郷隆盛といえば、薩摩藩の中心人物として倒幕運動を進め、明治維新に大きな役割を果たした人物です。明治政府でも重要な立場にあり、日本の新しい国づくりに関わっていました。

ところが、その西郷が最後には明治政府と戦うことになります。

なぜ、明治維新を進めた西郷隆盛が、自分たちがつくった明治政府と戦うことになったのでしょうか。

その背景には、明治政府が進めた急速な改革がありました。

廃藩置県によって藩がなくなり、徴兵令によって武士だけが戦う時代ではなくなります。さらに、廃刀令や秩禄処分などによって、武士が持っていた特権も次々と失われていきました。

こうした改革に不満を持った士族は、不平士族と呼ばれます。

一方、西郷隆盛も1873年の征韓論をめぐる対立によって政府を去り、故郷の鹿児島へ戻っていました。

そして1877年、西郷を中心とする鹿児島の士族と明治政府との間で、ついに大規模な戦争が始まります。これが西南戦争です。

西南戦争は、単に「西郷隆盛が政府に反乱を起こした戦争」と覚えるだけでは十分ではありません。

なぜ士族は明治政府に不満を持ったのか。
なぜ西郷隆盛は政府を去ったのか。
そして、西南戦争によって日本の社会はどう変わったのか。

この流れを理解すると、西南戦争が武士の時代から近代国家へと移り変わる大きな転換点だったことが見えてきます。

この記事では、西南戦争が起こった原因から西郷隆盛と政府軍の戦い、その結果と歴史的な意味まで、中学生にもわかりやすく解説していきます。

目次

第1章 西南戦争はなぜ起こった?|武士の特権がなくなっていく

西南戦争が起こった背景には、明治政府の改革によって武士の生活や立場が大きく変わったことがあります。

江戸時代、武士は藩に仕え、政治や軍事を担う特別な身分でした。

ところが明治政府は、欧米諸国に対抗できる近代国家をつくるため、江戸時代から続いてきた仕組みを次々と改めていきます。

その結果、明治維新を支えた武士たちは、自分たちが持っていた特権を失っていくことになりました。

廃藩置県によって「藩」がなくなった

1871年、明治政府は廃藩置県を行いました。

それまで全国には多くの藩があり、それぞれの藩主が地域を治めていました。しかし廃藩置県によって藩は廃止され、政府が全国を直接治める仕組みへと変わります。

これによって、武士が仕えていた藩そのものがなくなりました。

明治政府にとっては、全国を一つの政府のもとにまとめるために必要な改革でしたが、武士にとっては、それまでの生活を支えてきた仕組みが大きく変わることを意味しました。

徴兵令で「武士だけが戦う時代」が終わる

1873年には、徴兵令が出されました。

江戸時代には、戦うことは基本的に武士の役割でした。しかし徴兵令によって、身分にかかわらず国民から兵士を集め、政府が全国規模の軍隊をつくる仕組みが整えられていきます。

つまり、武士であることと、兵士であることが切り離されたのです。

これは近代的な軍隊をつくるための重要な改革でしたが、武士にとっては、自分たちが長く担ってきた役割を失うことにもつながりました。

秩禄処分で武士の収入が失われる

さらに大きな問題となったのが、武士の収入です。

江戸時代の武士は、藩などから家禄と呼ばれる給与を受け取っていました。明治政府になってからも、しばらくは政府がその負担を引き継いでいました。

しかし、政府にとって士族への家禄の支給は大きな財政負担でした。

そこで1876年、政府は秩禄処分を行い、家禄の支給を廃止します。

武士たちは新しい仕事を見つけなければならなくなり、生活に苦しむ士族も増えていきました。

廃刀令で刀を差す特権も失われた

同じ1876年には、廃刀令も出されました。

これによって、軍人や警察官などを除き、刀を差して歩くことが禁止されます。

刀は武士にとって武器であるだけでなく、武士という身分を象徴するものでもありました。

藩を失い、軍事を担う役割を失い、収入を失い、さらに刀を差すこともできなくなる――。

明治政府の改革によって、武士は江戸時代に持っていた立場を次々と失っていったのです。

明治政府への不満を強めた「不平士族」

こうした改革に不満を持った士族を、不平士族といいます。

特に1870年代になると、不平士族による反乱が各地で起こりました。

1874年の佐賀の乱、1876年の神風連の乱・秋月の乱・萩の乱などです。

政府はこれらの反乱を鎮圧しましたが、士族の不満そのものがなくなったわけではありません。

そして1877年、その不満が大きな力となって噴き出したのが西南戦争でした。

西南戦争は突然起こった戦争ではありません。

廃藩置県 → 徴兵令 → 秩禄処分・廃刀令 → 士族の不満 → 各地の士族反乱 → 西南戦争

という流れの中で起こったのです。

ただし、これだけでは「なぜ西郷隆盛が西南戦争の中心人物になったのか」はわかりません。

その理由を知るためには、1873年の征韓論をめぐる政府内の対立までさかのぼる必要があります。

第2章 西郷隆盛はなぜ政府を去った?|征韓論から鹿児島へ

各地で士族の不満が高まるなか、鹿児島には明治維新の中心人物だった西郷隆盛がいました。

西郷はもともと明治政府の中心にいた人物です。

それでは、なぜ西郷は政府を離れ、やがて西南戦争の中心人物となったのでしょうか。

征韓論をめぐって政府内で対立する

1871年、岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らは、欧米諸国を視察するため岩倉使節団として日本を離れました。

その間、日本に残った西郷隆盛や板垣退助らは、国内の政治を担当します。

この時期、政府内で大きな問題となったのが、朝鮮との外交関係でした。

西郷は自ら朝鮮へ使節として渡ることを主張しますが、帰国した岩倉具視や大久保利通らはこれに反対しました。

欧米を視察した大久保らは、まず国内の産業や軍事、制度を整え、日本の近代化を優先するべきだと考えたからです。

こうして政府内では、朝鮮への対応をめぐって大きな対立が起こりました。

これが征韓論をめぐる対立です。

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明治六年の政変で西郷隆盛が政府を去る

1873年、政府は西郷の朝鮮派遣を見送ることを決定しました。

これに反発した西郷隆盛は政府を去ります。

さらに、板垣退助や江藤新平、副島種臣らも政府を去りました。

この一連の政変を、明治六年の政変といいます。

西郷はその後、故郷の鹿児島へ戻りました。

一方、政府に残った大久保利通らは、殖産興業や富国強兵などを進め、日本の近代化をさらに推し進めていきます。

鹿児島で私学校をつくる

鹿児島へ戻った西郷は、1874年に私学校をつくりました。

私学校には、西郷を慕う多くの士族が集まりました。

西郷自身は鹿児島で生活しながら若者の教育などにあたっていましたが、私学校は次第に鹿児島の士族たちをまとめる大きな勢力となっていきます。

当時、全国では明治政府の改革に不満を持つ士族による反乱が相次いでいました。

1874年には佐賀の乱、1876年には神風連の乱・秋月の乱・萩の乱が起こります。

そして、その最後に起こったのが1877年の西南戦争です。

西南戦争は、これまでの士族反乱とは比べものにならないほど大規模な戦いとなりました。

そのため西南戦争は、明治政府に対して起こった「最後にして最大の士族反乱」と位置づけられています。

ただし、西郷隆盛が最初から「政府に反乱を起こそう」と計画して鹿児島へ戻ったわけではありません。

では、なぜ西郷と鹿児島の士族たちは、ついに明治政府と戦うことになったのでしょうか。

次章では、1877年に西南戦争が始まり、西郷軍と政府軍が激突していく流れを見ていきましょう。

第3章 西南戦争が始まる|西郷軍と政府軍の戦い

1877年、ついに西南戦争が始まります。

西郷隆盛を中心とする鹿児島の士族たちは、九州を北へ進み、政府軍と激しい戦いを繰り広げました。

では、西南戦争はどのように始まり、どのような結末を迎えたのでしょうか。

私学校の生徒たちが政府の火薬庫を襲う

西郷隆盛が鹿児島に戻ったあと、政府は鹿児島の士族たちの動きを警戒していました。

1877年、政府が鹿児島にあった武器や弾薬を運び出そうとすると、これに反発した私学校の生徒たちが政府の火薬庫を襲撃します。

さらに、政府が西郷たちの動向を探っていたことも明らかになり、私学校の士族たちの政府に対する不満は一気に高まりました。

こうした状況のなか、西郷は士族たちを率いて鹿児島を出発します。

こうして、西郷軍と政府軍が戦う西南戦争が始まりました。

西郷軍は熊本城を目指す

西郷軍は鹿児島から北上し、熊本城へ向かいました。

熊本城には政府軍が置かれていたため、西郷軍はここを攻撃します。

しかし、熊本城を守る政府軍は激しく抵抗し、西郷軍は城を落とすことができませんでした。

その間に政府は全国から軍隊を九州へ送り込み、西郷軍を迎え撃つ体制を整えていきます。

西郷軍にとって、熊本城を攻略できなかったことは大きな痛手となりました。

田原坂で激しい戦いが続く

西南戦争のなかでも特に激しい戦いとなったのが、熊本県の田原坂(たばるざか)の戦いです。

西郷軍は熊本城へ向かう政府軍を食い止めようとし、両軍は激しく戦いました。

西郷軍には戦闘経験を持つ士族が多くいましたが、政府軍には全国から兵士や武器、物資を集める力がありました。

激戦の末、政府軍が田原坂を突破します。

さらに政府軍によって熊本城への道が確保されると、西郷軍は次第に追い詰められていきました。

西郷軍は鹿児島へと戻っていく

熊本での戦いに敗れた西郷軍は、その後も九州各地を転戦しました。

しかし、戦いが長引くにつれて兵士の数は減り、武器や弾薬も不足していきます。

政府軍の追撃を受けながら、西郷軍は九州を南へと進み、最後には鹿児島へ戻りました。

そして西郷たちは、鹿児島市内にある城山に立てこもります。

城山で西郷隆盛が最期を迎える

1877年9月、政府軍は城山を包囲しました。

このころには、西郷軍はわずかな兵力しか残していませんでした。

9月24日、政府軍による総攻撃が始まります。

西郷軍は最後まで戦いましたが、圧倒的な兵力を持つ政府軍に敗れ、西郷隆盛も城山で最期を迎えました。

こうして、約7か月にわたって続いた西南戦争は、政府軍の勝利で終わります。

西南戦争の大まかな流れは、

鹿児島で挙兵

熊本城を攻撃

田原坂で激戦

政府軍が優勢になる

西郷軍が鹿児島へ戻る

城山で西郷隆盛が最期を迎える

と押さえておけば十分です。

では、戦闘経験の豊富な士族を多く抱えていた西郷軍は、なぜ政府軍に敗れたのでしょうか。

その理由を見ると、明治維新によって日本の軍隊そのものが大きく変わっていたことがわかります。

第4章 なぜ西郷軍は敗れた?|徴兵令がつくった新しい軍隊

西南戦争では、西郷軍にも戦闘経験を持つ士族が多く参加していました。

それでも最後に勝利したのは、明治政府の軍隊でした。

この勝敗には、単純な兵士一人ひとりの強さだけではなく、明治政府が進めてきた近代国家づくりが大きく関係しています。

西郷軍には戦闘経験を持つ士族が多かった

西郷軍の中心となったのは、鹿児島の士族たちです。

なかには幕末から明治維新にかけて戦いを経験した者もいて、戦争が始まった当初、西郷軍は高い戦闘力を持っていました。

特に、刀を使った接近戦では士族の強さが発揮されました。

しかし、西南戦争は個人の武勇だけで勝敗が決まる戦いではありませんでした。

戦争が長期化すると、兵士の数だけでなく、武器や弾薬、食料を継続して確保できるかどうかが重要になります。

政府軍を支えた徴兵令

明治政府は1873年に徴兵令を出し、全国から兵士を集める仕組みをつくっていました。

つまり、政府軍の中心となったのは、武士だけではありません。

農民などの出身者も兵士として訓練を受け、政府軍の一員として西郷軍と戦いました。

これは江戸時代までの日本から考えると、大きな変化です。

それまでは武士が軍事を担っていましたが、明治政府は身分にかかわらず兵士を集める近代的な軍隊をつくろうとしていたのです。

西南戦争は、その新しい軍隊が本格的に力を発揮した戦争でもありました。

政府には全国の人や物資を集める力があった

政府軍の強さは、兵士の数だけではありませんでした。

明治政府は全国を統一して治める中央政府として、各地から兵士を集め、武器・弾薬・食料などを九州へ送り込むことができました。

一方、西郷軍の中心は鹿児島の士族です。

戦いが長引くにつれて兵士や弾薬を失い、それを補うことが難しくなっていきました。

西郷軍が熊本城を攻略できず、田原坂などで戦いが長期化したことは、政府軍にとって有利に働きました。

西南戦争が示した「武士だけが戦う時代」の終わり

西南戦争では、徴兵令によってつくられた政府軍が、士族を中心とする西郷軍を破りました。

この結果は、明治政府にとって大きな意味を持ちました。

「戦争をするのは武士」という江戸時代までの仕組みが終わり、国が全国から兵士を集めて軍隊をつくる時代へ変わったことが、実際の戦争によって示されたからです。

もちろん、西郷軍の敗北には兵力や武器、物資などさまざまな要因があります。

それでも西南戦争は、明治維新によって進められてきた社会の変化が、軍事の面でもはっきりと現れた出来事だったといえるでしょう。

そして西南戦争の終結によって、士族が武力で明治政府に抵抗する動きは大きな区切りを迎えます。

では、西南戦争のあと、政府への不満はどこへ向かっていったのでしょうか。

次章では、西南戦争の結果と自由民権運動への流れを見ていきます。

第5章 西南戦争の結果|士族の反乱から自由民権運動へ

1877年、西郷隆盛が率いた西郷軍は政府軍に敗れ、西南戦争は終結しました。

西南戦争の終結は、西郷隆盛の死だけを意味するものではありません。

明治維新後の日本で続いていた士族による武力反乱が大きな区切りを迎えたという点でも、重要な出来事でした。

士族による大規模な武力反乱が終わる

明治政府の改革に不満を持つ士族は、西南戦争以前にも各地で反乱を起こしていました。

1874年の佐賀の乱、1876年の神風連の乱・秋月の乱・萩の乱、そして1877年の西南戦争です。

そのなかでも西南戦争は最大規模の戦いとなりました。

しかし、西郷軍は徴兵令によってつくられた政府軍に敗北します。

最後にして最大の士族反乱だった西南戦争が鎮圧されたことで、士族が武力によって明治政府に抵抗する動きは終息していきました。

明治政府は、国内の大きな武力反乱を乗り越え、近代国家づくりをさらに進めていくことになります。

政府への不満がなくなったわけではない

ただし、西南戦争が終わったからといって、明治政府への不満そのものがなくなったわけではありません。

政府の中心には薩摩藩や長州藩などの出身者が多く、限られた人々によって政治が進められているという批判がありました。

こうした藩閥政治への不満を背景に、国民も政治に参加できるようにすることや、国会の開設を求める動きが広がっていきます。

その中心となったのが、自由民権運動です。

武力ではなく政治によって政府を変える

自由民権運動は、西南戦争が終わってから突然始まったわけではありません。

すでに1874年、西郷隆盛とともに政府を去った板垣退助らが民撰議院設立建白書を政府に提出し、国会の開設を求めていました。

つまり1870年代には、

武力によって政府に抵抗する士族と、
政治への参加を求める人々

という異なる動きが同時に存在していたのです。

そして西南戦争で士族による大規模な武力反乱が終息すると、政府に対する不満を政治的な運動によって訴える自由民権運動がさらに広がっていきました。

やがて自由民権運動は士族だけでなく、豪農や都市の人々などにも広がり、国会の開設や憲法の制定を求める大きな運動へと発展していきます。

西南戦争の前後を大きな流れでつかもう

西南戦争は、明治初期の出来事をつなげて考えると理解しやすくなります。

明治政府による改革

武士の特権が失われる

不平士族の反乱が相次ぐ

1877年 西南戦争

士族による大規模な武力反乱が終息

自由民権運動がさらに広がる

国会開設を求める動きへ

この流れを押さえておくと、西南戦争だけでなく、その後の自由民権運動や国会開設、大日本帝国憲法の制定までが一本につながって見えてきます。

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この記事を書いた人

【ときおぼえアカデミー】運営者

明治大学卒業。

大学時代、英語や世界史に夢中になり、授業そっちのけで独学に没頭していました。学ぶことの楽しさを伝えたくて、アルバイトで塾講師も経験。

卒業後は金融業界に進みましたが、やがて教育業界への想いが捨てきれず、大手進学塾へ転職。

開成・国立・早慶附属といった難関校を目指す大手進学塾に、約10年勤務していました。

現在はまったく畑違いの仕事をしていますが、中学受験をしない小学生や高校受験を目指す中学生に役立つ情報を発信します。

名前はペンネームです。

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