1873年(明治6年)、できたばかりの明治政府を大きく揺るがす対立が起こりました。
征韓論(せいかんろん)をめぐる対立です。
征韓論とは、朝鮮との外交問題を解決するため、日本から使節を送り、それでも交渉がまとまらない場合には武力の行使も辞さないという考えです。
この問題をめぐって、西郷隆盛や板垣退助らと、岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らが激しく対立しました。
最終的に西郷隆盛や板垣退助らは政府を去ります。
しかし、なぜ明治政府が分裂するほど、朝鮮との関係が大きな問題になったのでしょうか。
その背景を理解するには、日本と朝鮮だけを見るのでは十分ではありません。
19世紀の東アジアでは、欧米列強の進出によって、それまでの国際関係が大きく揺らいでいました。
日本も1853年のペリー来航をきっかけに開国し、江戸幕府が倒れたあと、1868年に明治政府が成立します。そして欧米諸国に追いつくため、富国強兵や殖産興業を進め、欧米型の近代国家をつくろうとしていました。
一方、朝鮮は清との伝統的な関係を重視し、欧米諸国との交流にも慎重な姿勢をとっていました。
つまり征韓論の背景には、清を中心として長く続いてきた東アジアの外交秩序と、欧米型の近代国家として新しい外交関係を築こうとする日本とのぶつかり合いがあったのです。
そして征韓論をめぐる対立は、外交問題にとどまりませんでした。
政府を去った板垣退助は自由民権運動へ、西郷隆盛はやがて西南戦争へと向かいます。一方、政府に残った大久保利通らは、国内の近代化をさらに推し進めていきました。
征韓論は、明治政府の中心人物たちが別々の道を歩み始める、明治時代前半の大きな分岐点だったのです。
この記事では、なぜ征韓論が起こったのかという東アジアの情勢から、西郷隆盛と大久保利通らの対立、明治六年の政変、そして自由民権運動や西南戦争へとつながっていく流れまで、順番に見ていきましょう。
第1章 なぜ征韓論が起こった?|日本と朝鮮を取り巻く東アジア
征韓論が起こった背景には、明治維新後の日本と朝鮮の関係悪化がありました。
しかし、単純に「日本と朝鮮の仲が悪くなった」と考えるだけでは、十分ではありません。
当時の東アジアでは、欧米列強の進出によって、それまで長く続いてきた国際関係そのものが大きく変わろうとしていました。
征韓論を理解するために、まずは当時の東アジアの状況から見ていきましょう。
清を中心とした東アジアの国際関係
19世紀までの東アジアでは、中国を中心とする伝統的な国際関係が長く続いていました。
当時の中国を支配していたのが清(しん)です。
朝鮮は清と冊封(さくほう)・朝貢(ちょうこう)と呼ばれる伝統的な関係を結んでいました。
簡単にいえば、朝鮮の国王が清の皇帝から王として認められ、朝鮮から清へ使節を送る一方、朝鮮は国内の政治については独自に行っているという関係です。
現在の「国と国は対等である」という国際関係とは、考え方が大きく異なっていました。
一方、日本はこの清を中心とする冊封体制には入っていませんでした。
江戸時代の日本と朝鮮は、対馬藩を窓口として外交関係を維持しており、朝鮮からは将軍の代替わりなどに合わせて朝鮮通信使が日本を訪れています。
つまり、日本と朝鮮には江戸時代から交流がありました。
欧米列強の進出で東アジアが揺れ始める
ところが19世紀になると、この東アジアの国際関係が大きく揺らぎ始めます。
きっかけとなったのが、欧米列強のアジア進出です。
1840年に始まったアヘン戦争で清がイギリスに敗れると、清は欧米諸国との貿易を拡大させられ、不平等な条約も結ばされました。
日本にも1853年、アメリカのペリーが浦賀に来航します。
翌1854年には日米和親条約を結んで開国し、1858年には日米修好通商条約を結びました。
日本もまた、欧米列強の圧力によって、それまでの外交のあり方を大きく変えることになったのです。
明治政府は「近代国家」として外交をやり直そうとした
1868年に明治政府が成立すると、日本は欧米諸国に追いつくため、急速な近代化を進めました。
富国強兵・殖産興業・徴兵令・学制などの改革を進め、政治や軍事、産業、教育などさまざまな分野で欧米の制度を取り入れていきます。
外交についても同じでした。
明治政府は、自分たちを江戸幕府に代わる新しい日本政府として諸外国に認めてもらい、近代国家どうしの外交関係を築こうとしました。
当然、その相手には隣国の朝鮮も含まれていました。
そこで明治政府は、新しい政府が成立したことを伝え、朝鮮との外交関係を改めようとします。
しかし、ここで問題が起こります。
朝鮮は明治政府からの国書を受け取らなかった
明治政府が朝鮮に送った国書には、江戸幕府の時代には使われていなかった「皇」や「勅」などの文字が使われていました。
これが朝鮮側にとって問題となりました。
朝鮮は清との伝統的な関係を重視しており、「皇帝」に関係する表現は清の皇帝に用いるものだという考えがありました。
そのため、朝鮮側は明治政府から送られた国書を受け取らず、日本と朝鮮の外交交渉は行き詰まっていきます。
日本側からすれば、「新しい明治政府を正式な政府として認めてもらいたい」という問題でした。
一方の朝鮮側からすれば、明治維新によって日本側が突然持ち込んできた新しい外交上の表現を、そのまま受け入れることはできませんでした。
両国が前提としていた外交の考え方そのものに、ずれが生じていたのです。
従来の東アジアと新しい国際秩序がぶつかった
ここが、征韓論を理解するうえで大切なポイントです。
征韓論は、単に「朝鮮が日本からの国書を受け取らなかったから起こった」というだけの問題ではありません。
19世紀の東アジアでは、清を中心として長く続いてきた伝統的な国際関係から、欧米諸国を中心につくられた近代的な国際関係へと、大きな変化が起こっていました。
日本は明治維新を経て、その新しい国際関係の中に入ろうとしていました。
一方、朝鮮は清との伝統的な関係を維持しながら、欧米諸国や新しい明治政府との関係に慎重な姿勢をとっていました。
つまり、日本と朝鮮の外交問題の背後には、東アジアの従来の外交秩序と、明治政府がつくろうとした新しい外交関係との衝突があったのです。
こうして朝鮮との交渉が進まないなか、明治政府の内部から「朝鮮に対して、もっと強い態度をとるべきではないか」という意見が強まっていきます。
その中心人物の一人となったのが、西郷隆盛でした。
第2章 征韓論とは?|西郷隆盛は何を主張したのか
朝鮮との外交交渉がうまく進まないなか、明治政府では「朝鮮にどう対応するべきか」が大きな問題となっていきました。
そこで登場したのが、征韓論(せいかんろん)です。
中学歴史では、西郷隆盛や板垣退助らが征韓論を主張したことを学びます。
しかし、西郷隆盛は最初から「すぐに朝鮮へ軍隊を送ろう」と主張していたのでしょうか。
実際の議論を見ていくと、もう少し複雑だったことが分かります。
征韓論とは?
征韓論とは、明治初期に起こった朝鮮との外交問題を、必要であれば武力を用いてでも解決しようとする考えです。
朝鮮が明治政府からの国書を受け取らないなど、両国の外交交渉は行き詰まっていました。
そのため政府内では、朝鮮に対して強い態度をとるべきだという意見が出るようになります。
その代表的な人物として知られているのが、西郷隆盛や板垣退助です。
ただし、「征韓論を唱えた人々は全員、まったく同じ考えだった」と理解するのは正確ではありません。
板垣退助は朝鮮への出兵を主張した
政府内で強硬な意見を唱えた人物の一人が、板垣退助でした。
板垣は、朝鮮との問題を解決するため、軍隊を派遣することを主張します。
しかし、西郷隆盛はこれに対して、いきなり軍隊を送るのではなく、まず使節を派遣して交渉するべきだと考えました。
そして西郷は、その使節に自分自身を派遣するよう求めます。
これが遣韓使節(けんかんしせつ)の考えです。
西郷隆盛は「自分を朝鮮へ派遣してほしい」と主張した
西郷は、自ら朝鮮へ渡って交渉することを強く望みました。
武力を先に用いるのではなく、まず自分が使節として朝鮮へ行き、直接交渉しようとしたのです。
しかし、西郷の考えも単なる「平和的な話し合い」とだけ捉えることはできません。
西郷は、自分が朝鮮へ渡れば、場合によっては殺害される可能性があることも想定していました。
もし使節である西郷が危害を加えられれば、それを理由として日本が朝鮮へ軍隊を送る事態に発展する可能性もありました。
そのため、西郷の主張はまず外交交渉を行うものではあっても、その先に武力衝突へ発展する可能性を含んでいたと考える必要があります。
なぜ西郷たちは朝鮮問題を重視したのか
では、なぜ西郷隆盛らは朝鮮との問題をそれほど重視したのでしょうか。
一つには、明治政府が新しい国家として成立した以上、隣国である朝鮮との正式な外交関係を築く必要があると考えていたことがあります。
さらに当時の日本国内では、武士たちを取り巻く環境も大きく変化していました。
廃藩置県によって藩がなくなり、徴兵令によって武士だけが戦う時代も終わろうとしていました。
明治維新を実現するために戦った士族のなかには、新しい政府の改革によって自分たちの立場が失われていくことに不満を持つ者も増えていきます。
朝鮮への出兵を主張する考えには、こうした士族の不満のはけ口を海外に求める側面もありました。
征韓論は外交問題であると同時に、急速に変化していた日本国内の問題とも結びついていたのです。
征韓論をめぐる対立は、まだ決着していなかった
1873年、西郷隆盛を朝鮮へ使節として派遣する案は、政府内でいったん認められる方向へ進みました。
このまま西郷が朝鮮へ渡れば、日本と朝鮮の関係は大きく動くはずでした。
ところが、ここで海外から帰国した人々が待ったをかけます。
岩倉具視・大久保利通・木戸孝允ら、岩倉使節団のメンバーです。
彼らは約1年10か月にわたって欧米諸国を視察し、日本と欧米列強との大きな国力の差を目の当たりにしていました。
「今の日本に、外国との戦争を考えている余裕があるのか」
征韓論をめぐる議論は、ここから西郷隆盛と大久保利通らを中心とする、明治政府そのものを二つに割る対立へと発展していくことになります。
第3章 岩倉使節団の帰国|西郷隆盛と大久保利通はなぜ対立した?
西郷隆盛を朝鮮へ使節として派遣する案が進められていたころ、海外から政府の中心人物たちが帰国しました。
岩倉具視・大久保利通・木戸孝允ら、岩倉使節団のメンバーです。
彼らの帰国によって、征韓論をめぐる政府内の議論は大きく動き始めます。
かつて明治維新をともに進めた西郷隆盛と大久保利通も、この問題をめぐって別々の道を歩むことになります。

岩倉使節団が見た欧米列強の圧倒的な国力
1871年、明治政府は岩倉使節団を欧米へ派遣しました。
使節団には岩倉具視をはじめ、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文など、明治政府の中心人物が参加しています。
目的の一つは、幕末に結ばれた不平等条約の改正に向けた予備交渉でした。
しかし、この交渉はうまくいきませんでした。
条約を改正するためには、日本の法律や裁判制度などを近代化し、欧米諸国から「近代国家」として認められる必要があることを痛感します。
さらに使節団は、アメリカやヨーロッパ各国の工場、鉄道、都市、学校、軍事施設などを視察しました。
そこで目にしたのは、日本とは大きく異なる欧米の産業力と国力でした。
大久保利通らは、「まず日本国内を近代化し、国力を高めなければならない」という思いを強くして帰国します。

国内に残った西郷たちは次々と改革を進めていた
一方、岩倉使節団が海外にいる間、日本では西郷隆盛・板垣退助・大隈重信らが政府を支えていました。
この時期の政府を留守政府と呼びます。
留守政府は、使節団が帰国するまで何もしなかったわけではありません。
学制、徴兵令、地租改正など、近代国家をつくるための重要な改革が次々と進められました。
しかし、これほど大きな改革を短期間に進めたことで、政府の財政にも負担がかかっていました。
そのうえ朝鮮との間で軍事衝突が起これば、さらに大きな費用が必要になります。
欧米から帰国した大久保らにとって、今の日本が優先するべきなのは、海外への軍事行動ではなく国内の近代化を完成させることでした。
大久保利通は「内治優先」を主張する
大久保利通は、西郷を朝鮮へ派遣すれば、そのまま戦争に発展する危険があると考えました。
当時の日本は、明治政府が成立してからまだ数年しかたっていません。
国内では大規模な改革が続き、財政にも余裕があるとはいえない状態でした。
さらに大久保たちは、欧米列強の強大さを自分たちの目で見てきています。
今、日本が優先するべきなのは、朝鮮との対立を深めることではなく、産業・軍事・教育・政治制度を整え、欧米列強に対抗できる国力をつけることだと考えました。
これが、一般に内治優先論と呼ばれる考え方です。
西郷と大久保は「朝鮮をどうするか」だけで争ったわけではない
征韓論を、
西郷隆盛=朝鮮へ行くべき
大久保利通=朝鮮へ行くべきではない
という対立だけで覚えてしまうと、その本当の意味が見えにくくなります。
二人の対立の背景には、「できたばかりの日本は、何を最優先するべきなのか」という国家の進む方向をめぐる問題がありました。
西郷は、行き詰まっている朝鮮との外交問題を解決するため、自ら使節として朝鮮へ渡ることを主張しました。
一方、大久保は、戦争につながる可能性のある外交問題よりも、まず国内を整えて国力を高めることを優先しました。
幕末からともに薩摩藩で活動し、倒幕と明治維新を進めてきた西郷と大久保。
その二人が、明治政府の進む方向をめぐって対立することになったのです。
征韓論をめぐって明治政府が真っ二つに割れる
1873年、政府内では西郷隆盛を朝鮮へ派遣する案がいったん進められました。
しかし、岩倉具視や大久保利通らはこれに強く反対します。
議論は激しくなり、ついには政府の中心人物たちが、西郷隆盛・板垣退助らのグループと、岩倉具視・大久保利通らのグループに分かれて対立する事態となりました。
そして最終的に、西郷の朝鮮派遣は見送られます。
これを受けて西郷隆盛、板垣退助らは政府を去りました。
この1873年の大きな政治的対立を、明治六年の政変といいます。
しかし、征韓論の影響はこれで終わりません。
政府を去った人々の一部は、その後まったく異なる方法で明治政府と向き合っていきます。
板垣退助は言論と議会を求める自由民権運動へ。
西郷隆盛は鹿児島へ戻り、やがて西南戦争へ。
征韓論をめぐる政府の分裂は、明治時代前半の歴史を大きく二つに分ける出来事となったのです。
第4章 征韓論のその後|自由民権運動と西南戦争へ
1873年(明治6年)、征韓論をめぐる対立に敗れた西郷隆盛や板垣退助らは、明治政府を去りました。
これを明治六年の政変といいます。
しかし、ここからが重要です。
政府を去った人々は、その後、同じ道を歩んだわけではありません。
板垣退助は自由民権運動へ。
西郷隆盛は鹿児島へ戻り、その後、西南戦争へ。
征韓論をきっかけに政府を去った人々が、それぞれ別の方向から明治政府と向き合うことになったのです。
板垣退助は「国民が政治に参加できる国」を求めた
政府を去った板垣退助は、武力ではなく、政治の仕組みを変える方向へ動き始めます。
1874年、板垣退助らは政府に民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)を提出しました。
国民が選んだ議員による議会を開くことを求めたものです。
当時の明治政府では、薩摩藩や長州藩などの出身者を中心とする一部の人物が政治の実権を握っていました。
こうした政治は、のちに藩閥政治(はんばつせいじ)と呼ばれます。
板垣らは、一部の政治家だけで国の重要なことを決めるのではなく、国民の意見を政治に反映させるべきだと考えました。
この動きが、やがて全国へ広がる自由民権運動へと発展していきます。
つまり自由民権運動は、征韓論とはまったく無関係に突然始まったわけではありません。
征韓論 → 明治六年の政変 → 板垣退助の政府離脱 → 民撰議院設立建白書 → 自由民権運動
という流れでつながっているのです。
西郷隆盛は鹿児島へ戻る
一方、西郷隆盛は政府を去ると、故郷の鹿児島へ戻りました。
西郷自身はすぐに政府と戦おうとしたわけではありません。
鹿児島では、若い士族たちを教育するための私学校(しがっこう)がつくられ、西郷はその中心的な存在となっていきました。
しかし、当時の士族たちの間では明治政府に対する不満が急速に高まっていました。
明治政府は近代国家をつくるため、武士が持っていたさまざまな特権を廃止していったからです。
なぜ士族は明治政府に不満を持ったのか
江戸時代まで、武士は政治や軍事を担う特別な身分でした。
ところが明治維新後、社会は大きく変わります。
廃藩置県によって藩がなくなり、徴兵令によって武士以外の国民も兵士になるようになりました。
さらに1876年には、士族に支給されていた俸禄を整理する秩禄処分(ちつろくしょぶん)が行われ、廃刀令によって刀を差すという武士の特権も失われます。
明治維新を実現するために戦った士族たちからすれば、「自分たちがつくった新しい時代によって、自分たちの立場が失われていく」という皮肉な状況でもありました。
こうした不満を背景に、各地で不平士族の反乱が起こるようになります。
西南戦争|士族による最大の反乱
1877年、鹿児島の士族たちが政府に対して立ち上がり、西南戦争が始まりました。
その中心人物となったのが西郷隆盛です。
西南戦争は、明治政府に対する士族による最大規模の反乱となりました。
しかし、徴兵令によってつくられた政府軍が西郷軍を破り、西郷隆盛は鹿児島の城山で自決します。
ここには明治維新後の日本を象徴するような構図があります。
かつて武士たちを率いて江戸幕府を倒した西郷が、今度は徴兵制によってつくられた新しい政府軍に敗れたのです。
西南戦争の終結によって、武力によって明治政府を倒そうとする大規模な士族反乱はほぼ終わりを迎えました。
同じ政府離脱から「二つの道」へ
征韓論をめぐって政府を去った西郷隆盛と板垣退助。
二人のその後を並べると、明治時代前半の流れが見えやすくなります。
征韓論
↓
明治六年の政変(1873年)
↓
西郷隆盛・板垣退助らが政府を去る
↓
西郷隆盛 → 不平士族 → 西南戦争(1877年)
板垣退助 → 民撰議院設立建白書(1874年) → 自由民権運動
一方、政府に残った大久保利通らは、殖産興業や富国強兵などを進め、日本の近代化をさらに推し進めていきます。
つまり征韓論は、一つの外交問題にとどまりませんでした。
政府に残って近代化を進める人々、武力によって政府に反発する人々、言論や議会によって政治を変えようとする人々。
明治六年の政変を境として、それぞれが違う道を歩み始めます。
征韓論は、明治維新によって一つにまとまっていた人々が分かれ、その後の明治日本の政治の流れが大きく枝分かれしていく転換点でもあったのです。
第5章 征韓論は否定されたのに、なぜ日本は朝鮮へ進出したのか
1873年(明治6年)、西郷隆盛の朝鮮派遣は見送られ、征韓論を主張した西郷や板垣退助らは政府を去りました。
では、日本はこれをきっかけに、朝鮮への関与をやめたのでしょうか。
実際には、そうではありません。
そのわずか2年後の1875年には江華島事件(こうかとうじけん)が起こり、翌1876年には日本と朝鮮の間で日朝修好条規が結ばれます。
さらにその後、日本は朝鮮をめぐって清と対立し、1894年には日清戦争へと進んでいきます。
征韓論が退けられたにもかかわらず、なぜ日本は朝鮮への関与を強めていったのでしょうか。
大久保利通は「朝鮮に関わること」そのものに反対したわけではない
まず重要なのは、征韓論をめぐる対立を、
西郷隆盛=朝鮮へ進出したい
大久保利通=朝鮮には関わりたくない
と理解しないことです。
大久保利通らが反対したのは、1873年という時点で、西郷を朝鮮へ派遣し、戦争に発展する可能性のある行動をとることでした。
岩倉使節団から帰国した大久保らは、欧米列強との圧倒的な国力の差を目の当たりにしています。
そのため、まずは国内の産業や軍事、政治制度などを整え、日本の国力を高めることを優先するべきだと考えました。
つまり、征韓論をめぐる対立には、「朝鮮に関わるか、関わらないか」ではなく、「今、この方法で行動するべきか」という面があったのです。
江華島事件|日本と朝鮮の関係が再び大きく動く
1875年、日本の軍艦雲揚号(うんようごう)が朝鮮沿岸を航行し、江華島付近で朝鮮側との武力衝突が起こりました。
これが江華島事件です。
この事件をきっかけとして、日本は朝鮮に開国を求めました。
そして翌1876年、日本と朝鮮の間で日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)が結ばれます。
日朝修好条規によって朝鮮は釜山などの港を開き、日本との貿易を行うことになりました。
さらにこの条約では、「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を持つ」という内容が示されました。
一見すると、朝鮮を独立国として尊重しているようにも見えます。
しかし、ここには日本側の重要な狙いがありました。
「朝鮮は自主の国」という言葉が意味したもの
第1章で見たように、朝鮮は長い間、清との冊封・朝貢関係を結んでいました。
そこで日本が「朝鮮は自主の国」と明記することには、朝鮮は清の支配下にある国ではないということを示す意味もありました。
つまり、日本が朝鮮との関係を深めようとすれば、朝鮮と伝統的な関係を持っていた清との対立につながる可能性があったのです。
ここで、第1章で見た東アジアの国際関係が再び重要になります。
清を中心とする従来の東アジアの国際秩序と、近代国家として朝鮮との新しい外交関係を築こうとする日本との衝突は、征韓論が終わってもなくなっていませんでした。
日朝修好条規は朝鮮にとって不平等な条約だった
もう一つ重要なのは、日朝修好条規が朝鮮にとって不平等な内容を含む条約だったことです。
日本は幕末、欧米諸国との間で不平等条約を結ばされました。
ところが日本は、朝鮮に対しては自らが有利になる条約を結んでいきます。
日朝修好条規では、日本人が朝鮮で罪を犯した場合に日本側が裁判を行う領事裁判権などが認められました。
幕末の日本が欧米諸国から認めさせられたものと似た仕組みです。
ここには、欧米列強に追いつこうとしていた日本が、次第に自らも周辺地域へ影響力を広げる側へ回っていく姿を見ることができます。
朝鮮をめぐって日本と清が対立する
朝鮮が開国すると、日本だけでなく清も朝鮮への影響力を維持しようとしました。
その結果、朝鮮をめぐる日本と清の対立は次第に強まっていきます。
そして1894年、朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こると、日本と清はともに朝鮮へ軍隊を送りました。
これをきっかけとして始まったのが、日清戦争です。
つまり、
征韓論(1873年)
↓
江華島事件(1875年)
↓
日朝修好条規(1876年)
↓
朝鮮をめぐる日本と清の対立
↓
日清戦争(1894年)
という大きな流れで見ることができます。
征韓論は終わっても「朝鮮をめぐる問題」は終わらなかった
征韓論そのものは、1873年の明治六年の政変によっていったん決着しました。
しかし、そこで終わったのは西郷隆盛を朝鮮へ派遣するという政策をめぐる争いです。
日本と朝鮮の外交問題、そして朝鮮をめぐる東アジアの国際関係そのものが解決したわけではありませんでした。
むしろその後、日本が近代化を進めて国力を高めるにつれて、朝鮮への関与はさらに強まっていきます。
そして日本は、朝鮮をめぐって清と日清戦争を戦い、さらにその先ではロシアとも対立していくことになります。
征韓論を一つの出来事として覚えるだけでは、この流れは見えてきません。
幕末に欧米列強によって開国させられた日本が、近代国家へと成長するなかで、今度は自らが朝鮮に開国を迫り、東アジアへ影響力を広げていく。
征韓論から日朝修好条規、そして日清戦争へと続く流れを見ると、明治日本の立場が大きく変化していったことが分かります。

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